「ただいまー」
 モリと共に家に帰り着いたケイは、家の奥の方から漂ってくる料理の匂いに気付く。
「あれ? おばさん、来てくれてるの?」
 倒れたという兄が料理を作っているのかとも思ったが、すぐにモリの母親が来てくれているのだろうかと問うと、モリは首を振った。
「いや、もう帰ったみたいだな」
 ブーツを脱ぎつつ、モリはそう答えた。玄関に母親の靴がなかった。おそらく、自分たちとハルの分の料理を作ってから家に帰ったのだろう。
 モリの予想通り、リビングに行くと、机の上に並べられた料理と、


『家の方に居ます。何かあったらすぐに呼んでちょうだいね』


 と書かれたケイ宛ての置き手紙が残されていた。料理はというと、いい匂いと共に、まだ暖かな湯気を天井へと伸ばしていた。つい先程帰ってしまったのだろう。いつも良くしてくれるモリの母親に、ケイは心の中で感謝の言葉を贈る。
 母親が居なくなってからモリの母親―セーラは、まるで自分の子供のようにハルとケイに接し、二人を育ててくれた。モリは遅くに授かった子供で、セーラはもうおばあちゃんと呼んでも差し支えないような歳。その所為か、歳の近い子供がいるにも関わらず、ケイの母親―エレはセーラを早くに亡くした母親のように慕い、セーラもエレを可愛がっていた。その縁から、セーラはエレの子供たちの世話も快く引き受けていた。エレとその夫―タカが死んだときにはひどく悲しみ、そして残された子供たちをすぐさま引き取り、ここまで育ててくれたのだった。今はセーラは、ケイ達兄妹の、第2の母だった。
 そんなセーラに感謝の言葉を述べた後、ケイはリビングの扉を押し開いた。
「私、お兄ちゃん見てくる」
「分かった。じゃあ、飲み物の準備でもしておく」
「うん。ありがとう」
 セーラに似て世話好きなモリの言葉に笑みを返してから、ケイは兄の部屋へと向かった。
 小さな音で扉を叩く。けれど、返事は返ってこない。眠ってしまっているのだろうか。それとも、返事を返す余裕もないほどひどいのだろうか。
 不安になったケイは、ゆっくりとドアを引き、部屋の中を覗いた。
「お兄ちゃん?」
 ベッドに横になっている兄を、小さな声で呼んでみると。すると、しばし間があった後に、ハルがもぞもぞと動き、ゆっくりと瞼を開けた。
「んー。ケイか?」
「ごめん。寝てたのね」
 どうやら眠っている最中だったらしい。そっとしておけば良かったと思いつつ、兄が答えてくれたことにほっと安堵する。
 ケイが部屋に入ってくると、ハルは体を起こして彼女を迎える。その動きは緩慢で、彼の体調の悪さを物語っていた。それを見て不安げに瞳を揺らした妹に、ハルは大丈夫だというように笑って見せたあと、窓の外に視線を遣った。
 外は、雪が降り始めていた。大粒の雪が窓の外を白く染めている。それをしばしの間見つめていたハルだったが、徐に口を開いた。
「・・・ロジェ、見つかったか?」
 視線を窓の外にやったまま静かに問うたハルに、ケイは迷った末、正直に答えた。
「・・ううん。まだみたい」
「そっか」
 短く、ハルはそう答えを返した。
 その胸中に渦巻いているものはいったい何だろう。じっと、窓の外を見つめている兄の横顔に探るが、それの正体を知ることはできなかった。
「・・無事だといいね」
 兄が今何を考えているのかは分からなかった。ケイは、無難な言葉を選んで口にしていた。
 そんな言葉に、ハルはようやく視線を妹に戻した。
「そうだな。冬の森は危ないからな」
 言って弱々しい笑みを浮かべた兄に、ケイは思わず謝っていた。
「・・・ごめんね、お兄ちゃん」
「何だ? 急に」
 突然謝り始めたケイに、ハルがきょとんと目を瞠る。何かやらかしたのかと思って続きの言葉を待っていると、帰ってきたのはそんなことではなかった。
「ごめんなさい。お兄ちゃんに心配かけちゃって」
 危ない冬の森に通っていてごめんなさいと、ケイは謝っているようだった。そのことを知ったハルは、小さく笑ったあと、口を開いた。
「お前は通い慣れてるだろ? さほど心配してないさ」
 ハルのその台詞に、ケイは安堵する。そして、兄が自分を心配していないと言ってくれたことよりも、兄の表情に笑みが戻ったのを見て、ケイは更にほっとする。窓の外を見つめ、精霊に攫われたかもしれないと噂されるロジェのことを思っているハルの横顔は、張りつめていた。そこから覗く危うい精神の均衡は、ケイを不安にさせたが、ようやくいつもの兄に戻ってくれたことが嬉しかった。
 ハルがいつも通りに戻ったのにつられるようにして、ケイもいつも通りの笑顔に戻り、肩の力を抜いた。そして、
「良かった〜!!」
 突然大声でそう言ったケイに、ハルは再び目を瞠る。今度はいったい何なのだろうか。するとケイは、机の方からベッドの側までイスを運び、それに腰掛けながら言った。
「モリさんが、私が心配かけてる所為で寝込んだ、みたいな言い方するんだもの〜。焦ったんだから、私」
 拗ねたように口を尖らせて言ったケイのその言葉に、ハルは思わず吹き出していた。
「アイツ、そんなこと言ったのか」
「そうよ〜」
 心配性なモリらしい、とハルは笑う。同様に、ケイも明るく笑った。
 ひとしきり笑った後、ハルはケイの瞳を見つめ、妹に言い聞かせるように丁寧に言った。
「大丈夫。ただの風邪だから、気にするなよ?」
「うん。分かった」
 ケイは、素直に頷いて見せた。その表情に浮かんでいるのは、満面の笑みだ。昨日は、帰って来るなり部屋に閉じこもり、
『どうして私達は幸せになれないの?』
 そう言って涙を流していたというのに、今の彼女はどうだ。昨日の涙はいったい何処にいってしまったのだろうか。にこにこにこにこと笑みを浮かべている。自分の言うことにも素直に頷いている。余程機嫌がいいようだ。そんなケイに、楽天的なヤツだと心の中で笑いながらも、良かったとハルは安堵していた。きっと、シュウときちんと話ができたのだろう。
「シュウと、ちゃんと話せたのか?」
「うん」
 笑顔と共にそう返事が返ってきた。予想通りのその答えに、ハルは小さく笑う。
 ケイは、そんな兄に笑い返した後、しばしの間を置き、口を開いた。
「・・ねえ、お兄ちゃん」
「何だ?」
 照れくさそうに視線を伏せているケイの頬は、僅かに赤い。
 一体何を言うのかと瞳を瞬かせながらハルが待っていると、
「私、幸せになれそうよ」
 満面の笑みと共に、そんな台詞が返ってきた。やはり、シュウときちんと話ができたようだ。そしてその話の結果も、彼女が望む通りのものだったのだろう。
「シュウと、二人で、か?」
 答えは分かっているが、そう訊ねてみる。
「うん!」
 予想通り。やはり笑みと共にケイは大きく頷いた。
「そうか」
 妹の幸せそうな様子に、ハルは心の底から嬉しいと思った。唯一の家族であるケイが、こんなに幸せそうに笑っているのだ。それを、喜ばずにいられない。両親を亡くし、二人だけになってしまった。その時は、どうしていいのか分からなかった。だが、モリの両親のおかげで、こうしてここまで育つことが出来た。それでも、親がいなかったことに変わりはない。その所為で、ケイが不自由な思いをしないよう、幼いながらもハルは気遣ってきた。それは、


『この子がお前の妹だよ、ハル』
『ケイって言うの。守ってあげてちょうだい。お兄ちゃん?』


 ケイが生まれたその時に、父母が言ったその言葉。今でも、覚えている。それが、父母を失ったハルを一気に大人にしたのかもしれない。
「・・お兄ちゃん」
 幸せになれそうだと言った自分に、彼の方が幸せなのではと思うほどに、兄は幸せそうに笑っていた。いつもは、その時が楽しければいいとのんびりと過ごしているおっとり屋の兄が、ふと見せる大人っぽい笑み。そうして、いつも父親のように自分を守り、自分が幸せだと笑うと、自分以上に幸せそうに笑ってくれるのだ。きっと、誰よりも自分のことを思ってくれているのは、この兄だろう。
 とても、大切な人。彼こそ、幸せになって欲しいと思う。彼は、この日常が幸せだと言っていた。それならば、この彼を取り巻く日常を守ろうとケイは心の中で誓う。いつもと同じ時間に起きて、お決まりのメニューの朝食を食べて、おばさんとおじさんの所で仕事をして、森に出かけて、そして、ただいまとドアを開け、兄に迎えてもらう。この日常を、守りたい。
「早く良くなってね」
 ケイは子供にするように兄の頭を撫でる。
「ああ。分かった」
 妹の手を嫌がることもなく、ハルは頷いて見せた。
「お兄ちゃん、ご飯は?」
「おばさんに粥食わされたよ」
 言ってハルは舌を出し、火傷した。と笑った。
 モリの母、セーラがハルにお粥を食べさせている様子が安易に想像できて、ケイは笑う。 娘が欲しかったというセーラは、娘ほども年の離れたエレをひどく可愛がっていた。その所為か 、エレによく似ているハルを彼女は可愛がっている。勿論、ケイのことも可愛がってくれるのだ が、ケイはしっかりしており安心なのだろう、どちらかと言えば、心に傷を負い、不安定な精神を 持っているハルをセーラは気遣い、構っているようだった。そんなおばさんの存在は、ケイにとっ ても心強いものだった。だが、世話好きなのも手伝い、なんやかんやと構っているその様子には、 微笑ましさと共に、兄に対する同情を禁じ得ない時もあるのだった。
「心配性ねー、おばさんは」
「モリはおばさん似だな」
「ね」
 と兄妹が話していると、
「ケ――――イ!」
 リビングの方からモリの声が聞こえてきた。おそらく、セーラが作っておいてくれた料理を温め直し、準備をしてくれたのだろう。
「噂をすれば、ね。じゃ、ご飯食べに行くね」
 言って立ち上がりハルに背を向けたその時だった。
「ケイ!」
「・・・何?」
 突然、ハルに呼び止められ振り返ると、真剣な顔をして自分を見つめている兄がいた。先程まで穏やかに笑っていたというのに、一体どうしたのだろうと、ケイがきょとんと答えを待っていると、ハルはおずおずと口を開いた。
「・・オレは、お前の幸せを願ってるよ」
「うん。ありがとう」
 まだ、兄の言いたいことが何なのかは分からない。自分の幸せを祈っている、というその言葉が言いたかったわけではないということはすぐに分かった。兄は再び口を開き、だが、その先の言葉を口にすることを迷うように視線を泳がせる。
 そんな兄に、視線でどうしたのと問うと、ハルはようやく口を開けた。だが、その言葉も、
「ただ、な・・・」
 そこで止まってしまう。その先は、
「ただ?」
 と訊ね促しても、その先がハルの口から告げられることはなかった。
「―――・・いや、何でもない」
 そうしてハルの言葉は閉ざされてしまったが、ケイは、その続きにどんな台詞が続くのか、察していた。
 兄はきっと、ただ一つだけ、我が儘を言おうとしたのだ。それは、とても謙虚で、我が儘という名を付けてもいいものか、迷うようなものだったが、きっと、


『ただ・・・帰ってきて欲しい』


 そう言おうとしたのだろう。突然、両親に置いて逝かれ、一人になることを何よりも恐れる彼の、ただ一つの願いを。
 だが、彼は言わない。ケイのために、口を噤む。いつだって、そうやって我慢して彼は生きているのだろう。今、妹が居てくれること、それだけが幸せだと、そう言い聞かせ、それ以上の幸せを望むことなく。だから、何も強制しない。より大きな幸せを求めることはない。そうすることが罪であるとでも思っているかのように、ハルは頑なに己の欲望を口にしない。肝心なことは、何一つ言わない。相手にして欲しいことも、自分の苦しみも悲しみも、何一つ。そして、溜め込んだ末に、こうして体調を崩し、倒れてしまう。
 今回倒れた原因が、自分が心配をかけている所為だというのも、あながちでたらめではないのかもしれない。
 申し訳なさを感じながら、ケイはハルを横にさせ、丁寧に布団をかけた。
「ゆっくり休んで、早く良くなってね」
「ああ」
「おやすみなさい」
 少し熱を帯びたハルの頬にそっと口づけると、
「おやすみ」
 やはり熱があるのだろう。乾いた唇で頬にキスが帰ってきた。再度兄にキスを返し、ケイは部屋を後にする。


『・・オレは、お前の幸せを願ってるよ。ただ、な・・・』


 兄の言葉が蘇る。ただ一人の家族。妹を一番大切に思ってくれている人。
 そんな兄の幸せを、崩さないでいようと、再度ケイは心に誓う。帰ってきて欲しいと、一人にしないで欲しいと彼が望むのならば、それを叶え続けよう。今まで自分を一番に思い、守ってきてくれた兄のためならば、
「安心して」
 帰る場所はいつもここだと、兄のいる家に、いつだって帰ってこようと、ケイは誓う。
「必ず、帰ってくるから」


 ――その誓いを、ケイは自分自身で破ることになるのだった。







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