ふと、Shamrock squareに佇む二人の耳に、人の声が届く。村の方から聞こえてくる、多くの声。次第にその声は近づいてくる。
「――何だろう?」
 村の方を見遣ったシュウが、僅かに表情を強張らせる。
「誰か迷ったのかな・・」
 冬が訪れ、村から森へと伸びている道はどれも雪によってその姿を隠してしまう。その所為で、森へ入って行ったはいいものの村への帰り道を見失い、遭難する村人が毎年後を絶たない。今年も早々に遭難者が出たのかもしれない。表情を曇らせ遠くから響く声に耳をすませたケイは、近づいてくる声の中に、己の名を呼ぶものがあることに気づいた。それはよく聞き慣れた声。
「・・・モリさんだわ」
 それは、モリの声のようだった。だが、何故彼が自分の名を呼んでいるのかが分からない。自分は迷ってなどいない。
「誰だい?」
 ケイと同様に彼女の名を呼ぶ声を聞きつけたシュウが問う。
「幼馴染みよ」
 答えたケイは、しばしの沈黙の後、
「・・・私、帰るわ」
 そう言って村へと足を向ける。だが、すぐにその歩みを止め、シュウを振り返る。ケイが思った通り、シュウは明らかに表情を曇らせていた。そんな彼に、ケイは笑いかける。安心させるように、優しい笑みで、優しい口調で、彼に声をかけた。
「シュウ。また明日会いましょう。約束。ね?」
「・・ああ。また、明日」
 ケイの言葉が本当かどうか探るようにケイの澄んだ瞳を見つめた後、シュウは体を宙に浮かせた。ケイの言葉を信じたようだった。シュウも薄弱ながら微笑みをケイに返し、そして森の奥へと帰っていった。
 何度か振り返り、手を振るシュウの姿が見えなくなったのを確認してから、ケイも歩き始める。 Shamrock squareを抜け、村への道を歩く。道は雪で覆われ、視認することはできない。だが、長年通い慣れたShamrock squareから村への道を、ケイが見失うことはなかった。順調に歩を進めていると、ようやく自分の名を呼ぶ声とぶつかった。
「ケイ!」
 そう言って、自分の元へ駆けてきたのはやはりモリだった。
「モリさん。どうかしたの?」
 自分を見つけ、ほっと息をついているモリに、ケイは首を傾げる。
「迎えに来た」
 その答えに、ますますケイは不思議そうに瞳を瞬かせる。兄から聞いて、今でもケイが森へと通っていることを、彼も知っていたはずだ。それなのに何故、今日はこうして迎えに来たのだろう。そして、彼の他にも村の人が森へとやってきているようだ。その理由も皆目見当がつかない。
「――どうして?」
 訊ねると、モリは僅かに表情を曇らせて言った。
「カーヤおばさんとこの、ロジェがいなくなった。昨日森に行ったきり、帰ってこないらしい」
 森の中にやって来た村人達は皆、カーヤを捜していたのだ。
「―――・・うそ」
「今、村のみんな総出で捜してる」
「そう」
 冷静に返事を返したケイだったが、伏せた瞳はせわしなく瞬かれている。
 村人が森で遭難することは毎年のことだ。それでも、こうした悲しい事態には慣れない。冬の森で遭難すれば、大抵の場合無事には帰ってこないことの方が多いからだ。早く見つけ出さなければならない。冬の寒さの中で、命は恐るべき早さで奪われていくのだから。
 さらに冬の寒さから生まれた雪は、遺体すら隠し村に帰さないことも多い。春になり、夏が訪れ、雪が完全にその姿を水に変えた頃になってようやく雪に埋まっていた遺体が出てくることも稀ではなかった。
 そして、今回遭難したロジェは、ケイもよく知る少女だった。
 ロジェはケイと同年代の少女で、何度も言葉を交わした仲だった。ふわふわと腰まで揺れる、暖かみのある赤毛の髪。その髪の下から覗く、茶色の瞳。少し引っ込み思案ではあったが、気のいい優しい少女だったことを覚えている。
 ―――無事に見つかりますように・・・
 ケイは、そんな祈りを心の中で唱えた。
 瞳を伏せ祈りの言葉を唱えているケイの肩を徐に叩いたのは、いつの間にか表情を曇らせていたモリだった。
「帰ろう、ケイ。・・・・ハルが、心配してる」
 その台詞に、ケイは驚いて顔を上げる。今、何故兄の名が出てきたのかが分からなかったのだ。
 どうして? とケイが視線で問うと、答える前にモリは彼女の腕を引いて歩き始めた。決して強い力ではなかったけれど、その腕はケイが拒むことを許さないものだった。
「モリさん?」
 名を呼び答えを促すと、モリは真っ直ぐ前を向いたまま、答えた。
「・・・ロジェ、精霊が攫ったんじゃないかって噂だ」
「―――・・」
 ケイは口を閉ざした。その台詞一つで、ケイは何故兄が心配しているのかを悟る。
 そんなケイに、モリが再び声をかけた。それは、言うべきか否かを見極めるためだったのか、きれぎれの台詞だった。
「ケイ。頼むから、もう、あそこへ行くのは・・・やめてくれないか」
 モリの言うあそこが、Shamrock squareを指していることは、聞かなくても分かった。そして、それは同時に、もう精霊に会うこともやめろと、そう彼が言いたいのだということにも。
「――いやよ」
 硬い声でケイは答える。
 モリとは、以前にも森に行くなと言われ、喧嘩をしてしまった。決して昔のことではない。最近のことだ。だが、これだけは譲れないことなのだ。どんなに自分のためを思っての台詞だとしても、頷くことは決して出来ない。
 チラリとケイを振り返り、彼女が自分を睨むようにして見つめ返しているのを見たモリは、彼女には気づかれないように溜息を洩らす。そして、彼女を興奮させないよう、努めて静かな口調でケイを諭す。
「ケイ。ハルは何も言わないが、とても心配している。それはお前も分かっているだろ?」
「・・・」
 モリのその言葉に、ケイも口を噤む。
 それは、重々承知していることだった。ハルにとって自分は、唯一の家族なのだ。心配しないわけがない。
 ―――だけど、それでも・・
 ケイが口が開く前に、モリが口を開いた。
「あいつ、今、寝てるんだ」
「え?」
 モリの言葉の意味を計りかね、ケイは首を傾げる。
「ハルな、急に体調崩して、寝てる」
 その言葉にケイはつい言い返してしまっていた。
「――私が心配かけてる所為だって言いたいの!?」
「・・そうじゃないって言い切れるのか?」
「―――」
 冷静にモリから返され、ケイは黙り込んだ。
 ―――お兄ちゃんが・・・
 モリの言ったことは、真実だろう。
 兄は、繊細な・・否、繊細すぎる心の持ち主だった。そして、その心の脆さは、大きな傷をおっている所為だということも知っている。そして、その心の傷が何なのかも、当然ケイは知っていた。それはおそらく、一生癒えることのない傷。その傷に、ロジェが精霊に攫われたという事実が触れてしまった。痛みを思い出させてしまったのだろう。そして、森に通っている妹を、ひどく心配になったのだろう。倒れてしまうくらいに。
 だが、それでも森へ行くことはやめられない。そう、ハルにも言ったのだ。精霊を愛してしまったことも。彼と幸せになりたいのだということも。そんな自分に、兄は頷いてくれた。応援してくれたけれど、それでも不安は抱いているのだろう。我慢もしているのだろう。
 しかし、ケイは許せなかった。たとえ事実だとしても、誰よりも・・シュウと同じくらいに大切な兄の存在を今この場に引き出し、自分の意見を曲げさせようというモリが、今のケイには許せなかった。
「いやよ!」
 だがその拒絶の言葉にも、モリは口を閉ざすことはなかった。
「ケイ。精霊には、もう会うな」
「どうしてよ!?」
「それがハルのためでも、お前のためでもあるんだ」
 その言葉に、ケイは目の前が真っ白になるのを感じていた。その理由が何なのかを察する前に、ケイは自分の手を引いている腕を思い切り振り払っていた。
「――・・私のため・・?」
 声が震えている。そうなってようやくケイは、自分の中に沸き上がるこの感情の名を知った。
 それは、苛立ちだった。
「モリさんに私の何が分かるの!? 私の幸せが何か分かるって言うの!!?」
「―――」
 振り払われた腕に驚きながら振り返ると、ケイが涙目で自分を睨んでいた。その瞳も、すぐに逸らされてしまったけれど。
 ―――また、傷付けてしまった。
 愛しいからこそ、こうして言っているのだ。彼女が傷付くことは分かっている。自分に対して怒ることも分かっている。それでも、彼女のためだと思ったのだ。だから、どんなに叱責の言葉を浴びせかけられようとも堪えようと思った。彼女に知らせようと思った。それが自分の、愛情の示し方なのだと自分に言い聞かせながら。
 だが、一向に伝わらない。胸の中にあるこの淡いけれど熱いこの想いは、全く伝わらない。
 それを一瞬歯痒くも思ったが、仕方がないかとモリは嘆息する。伝えようとも思っていないのだから、伝わらないのも仕方がないことのかもしれない。それに、彼女にこうして森に行くな、と、精霊には会うなと、そう言ったのは彼女のためだけではなく、精霊なんかにケイを攫われたくなかったからなのかもしれない。こんな臆病でひねくれた想いなど、彼女には伝わらない方がいいのかもしれない。
 てっきり何か言い返してくるかと思っていたモリが黙り込んでしまったことで、ケイはモリに視線を遣る。
「―――」
 茫然と己の足下に視線を落としているモリの姿に、ケイは一気に落ち着きを取り戻していた。途端に湧き上がるのは後悔。
「――ごめんなさい・・言いすぎたわ・・」
 謝罪の言葉を口にする。先日も彼にひどい言葉を浴びせてしまったばかりだったのに、またやってしまった。
 今度は苛立ちからではなく、自分の情けなさに涙が零れそうになった。それを唇を噛んで耐えていると、モリの声がかけられた。
「いや、いい。気にするな」
 それは思った以上に穏やかな声だった。
 いつも彼はこうして自分のために辛い気持ちを殺してしまう。いつも自分ばかりが喚き立て、彼はそれを全て受け止めてくれる。そんなモリにいつも甘えてしまっていた。今もそうだ。彼は兄のように自分を守ってくれているのだ。そんな彼に自分はひどい言葉を浴びせてしまった。それが申し訳なくて、ケイは口を開く。何とか彼に、自分の言い分を分かって欲しかった。
「あのね、モリさん。聞いて」
「何だ?」
 一つ呼吸を置いたあと、ケイはモリの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「私ね、今、幸せなの。あの人と会えてすごく幸せなの。私、あの人のことがどうしようもなく好きなの」
「――・・」
 ケイの台詞に、モリは閉口する。ケイは真摯に自分の気持ちを伝えようとしてくれていることは分かっている。それでもモリの胸には鋭く突き刺さる言葉だった。その痛みを、モリはゆっくりと瞳を閉ざし堪える。
 ケイはその仕種の理由に気づかなかった。
「お兄ちゃんにもちゃんとそう言ったのよ、私。お兄ちゃんも、幸せになれって言ってくれた」
「・・そうか」
「私、幸せになりたいの。おばあちゃんみたいなエンディングじゃない。ディーレみたいなエンディングでもない形の幸せになるの」
「そうか」
 ケイのその台詞の真意を察することは出来なかったけれど、モリは問い返すことなく頷いて見せた。
「ごめんなさい」
 深く頭を下げ謝るケイに、モリは溜息を零した。
「分かったよ、ケイ。もう止めないよ」
 ケイを安心させるように、その台詞はとても優しい響きをしていた。
 その言葉にケイが顔を上げると、その言葉通り、モリは優しい表情をして自分を見ていた。その表情が、必死で胸の痛みを堪えつつ作り上げたものだということに、ケイは当然気づくことが出来なかった。
「モリさん・・」
「もう止めない。ケイの幸せを、俺が壊していいわけがないからな」
 言って、モリはわざとらしく肩を竦めて見せた。
「ごめんね」
 再度謝ったケイに、モリはいいから、と彼女の肩を軽く叩いた。そして、一瞬視線を伏せ何事か考えた後、徐に口を開いた。
「ただな、ケイ・・」
 そこまで言って口を閉ざすモリに、ケイが首を傾げる。
「・・ただ?」
 促すその言葉にも、モリはなかなか続きを口にすることはなかった。しばしの沈黙の後、
「ただ――ハルだけは、悲しませないでくれ」
 そう、ケイに言った。
 ―――本当は違うんだけどな。
 心の中で、自嘲する自分が居た。本当はそんな台詞を言いたかったわけじゃない。森の中にケイを愛する人が居るように、今君の目の前にもいるのだと。それだけは知っておいて欲しいと、そう。伝えてしまおうかと思った。だが、
 ―――無理だ・・。
 臆病者だと、自分を嘲る気持ちばかりが生まれてくる。言えなかったのは、ただ今の関係を失うことが怖かったから。報われないと、今はっきりと知らされたのだ。ケイ自身の口から知らされたのだ。それでもいい。報われなくてもいいから、愛を伝えよう。そんな勇気を、モリは持っていなかった。
「・・約束だぞ」
 言って、モリは笑った。上手く笑えているのか不安だったが、ケイの反応を待っていると、
「ええ。勿論よ!」
 そう言って、ケイも笑い返してくれた。それはいつも通りの笑み。モリは自分が痛みを押し殺し、うまく笑えていることに安堵したのだった。
 ロジェを捜す村人の声が、次第に森の奥へと遠ざかっていく中、ケイとモリはハルの待つ家へと向かって歩き始めたのだった。













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