昼。
 シュウはShamrock squareでケイを待っていた。
 昨日、自分の祖母を凍らせた精霊と出会い、彼女は涙していた。


『―――こんなの・・・残酷すぎるよ・・・』


 そう呟き、彼女は泣いた。そして、そのまま村へと帰っていってしまった。シュウには、彼女の華奢な背中が見えなくなるまで見送ることしかできなかった。ついぞ、声をかける勇気は生まれなかった。あまりにも彼女が悲しそうな瞳をしていたから。彼女の涙が、あまりにも胸をチクチクとつついていたから。そして、不安だったから。今声をかけて、振り返ってもらえないことが、怖かった。
 彼女は、精霊を憎んでいないと、そう言ったけれど、本心はどうだったのだろうか。祖母を凍らせたのだ、自分たち精霊は。憎まれても、文句は言えない。凍らせれば、永遠を手に入れることが出来る。けれど、人間の肉親達は、永遠の別れを告げなくてはならなくなるのだから。
「―――来ない・・」
 ケイは、来ない。不安に揺れる瞳に映るのは、地面を白く染めている雪。珍しく、雪が降っていない。そのことに気づいたシュウが空を仰いだその時だった。
「・・・誰か、来た」
 雪を踏みしめ歩く音が、近づいてくる。それがケイの足音かどうかは分からない。もしも他の人間だったときの場合も考えて、シュウは宙に体を浮かせる。いつでも逃げることが出来るように。けれど、その行為は幸いにも無駄なものに終わった。
 Shamrock squareに姿を現したのは、シュウが待ち焦がれていた少女だった。
「ごめんなさい! 雪が思ったより深くて。遅くなっちゃって」
「―――・・」
 急いでやって来たのだろう、頬を赤く染め、申し訳なさそうに謝る彼女のその姿は、いつも通り。あの日、涙を零しながら村に戻っていったときの、あの悲しげな瞳はどこにもない。シュウは、その事実に安堵するよりも先に驚いてしまっていた。
「・・どうかした?」
 ポカンと口を開けているシュウに、ケイが首を傾げた。
「い、いや。何でもない・・」
 自分が間抜けな顔をしていることに気づいたシュウは慌てて首を横に振って見せた。そんなシュウに、やはりいつも通りの笑みでケイは話しかける。
「昨日はごめんね、急に帰っちゃって」
「い、いいんだよ。・・・大丈夫、だったかい?」
 ぎこちない問いの言葉に、ケイは元気よく首を縦に振って言った。
「うん。まだ明るかったし」
「そ、そう」
 やはりぎこちなく、シュウは相槌を返す。
 シュウはケイに、無事に帰れたかどうかを問うたわけではなかった。彼女は、ひどくショックを受けているようだった。だから、その心の傷はもう癒えたのかと、シュウは訊きたかったのだ。だが、素直に訊く勇気はない。そんなことを問うて、彼女の心の傷を疼かせてはたまらない。けれど、気になる。どうしても、もう一度聞きたいことがあるのだ。 シュウは息を一つ吐き出し、躊躇いがちにではあったが、その問いを唇に乗せた。
「ケイ。僕が・・・憎いかい?」
 真剣な眼差しでそう問うたシュウに、何を思ったか目を瞠った後、ケイは、
「ふふ」
 笑った。
 その反応に、今度はシュウが目を瞠る番だった。
 ひとしきり笑った後、ケイは口許に穏やかな笑みを浮かべ、答えた。
「何言ってるのよ。憎くなんてない。だって、シュウがおばあちゃんを凍らせたわけじゃないじゃない」
「そう。良かった」
 シュウは、ほっと安堵の溜息を零す。抱え込んでいた不安の大きさの所為か、得ることのできた安堵感に、シュウは涙が出そうになるのを感じ、慌てて瞳をぎゅっと閉ざした。ケイに気づかれないように。
 そして、こんなにも、自分が弱かったのだということを知る。 ケイに嫌われてしまっては、もう存在していても意味がないと、 人間の言葉に置き換えて言えば、死んでしまった方がいいと思うような、 弱い心の持ち主だったのだ。もしくは、それほどに強い思いを、 ケイに対して抱いているのだろうか。きっと、どちらもyes。
「ごめんね。不安にさせて」
 安堵の溜息を吐き出したシュウに、ケイは再び申し訳なさそうに眉を下げ、詫びる。そんな彼女に、「いいんだ」と答えを返す代わりに、シュウはケイに「少し待ってて」と声をかけShamrock squareから姿を消した。どこに行ったのかと首を捻っているケイの元に戻ってきたシュウの手には、たくさんの花があった。
「これ・・・」
 遠慮がちに差し出された手には、溢れんばかりの花。凍り付けの花。
 ケイが今日も自分に会いに来てくれることを信じ、そんな彼女に贈るため、シュウが森中を探し回り、摘み、凍らせ、持ってきたものなのだろう。
「ありがとう」
 シュウに触れないように気を付けて花を受け取った後、ケイは花にも負けない鮮やかな笑みを見せた。
 視線を落とし、花を見つめる。薄い氷のような硝子のような膜の中、鮮やかさを少しも曇らせることなく、花は咲いている。その、美しい花がケイの瞼裏に描かせるのは、祖母の姿。幼い頃、本当に幼かった頃、氷の中で眠る祖母の姿を見たことがある。両親が死ぬよりも以前。両親の死は覚えてないのに、何故か瞳の奥に焼き付いて離れない祖母の美しい姿。氷の中で眠る祖母に、見とれたことを覚えている。幼すぎた所為か、何故祖母が氷の中にいるのかは考えなかった。ただただ、目の前にある神秘的な氷の柩と、その中で眠る女性の美しさに、幼かった自分は戦慄した。
 あの日の思い出が、蘇る。
 そしてしばらくして、あの美しい人が祖母なのだということ、精霊に愛され、凍り付けにされ殺されてしまったことを聞かされた。
 ――どうして?
 幼い問いに答えてくれる人はいなかった。
 じっと花を見つめたまま、ケイは徐に口を開く。
「ねえ、シュウ」
「何だい?」
「私が前に話した童話のこと、覚えてる?」
 巡る記憶が辿り着いたのは、祖父がよく話して聞かせてくれた童話。幸せになったうさぎと花に、良かったと笑みを零した幼い日の記憶。けれど、今は――
「・・・あの、お花とうさぎの? それがどうかしたかい?」
 不思議そうに問うシュウに、ケイは小さな声で言った。
「・・私、思うの」
「うん」
「『うさぎさんは幸せそうに笑いました』」
 童話の一番最後に書かれていた言葉。それを繰り返した後、何か考え込むように、ケイは瞼を閉ざした。そして、問うた。
「・・・うさぎは、本当に笑ってたのかな? 幸せ、だったのかな・・?」
「え?」
 シュウがケイの言葉の意味を問うため口を開いたその時だった。
 ――ガサ。
 草木が鳴る音と共に、唐突に自分たち以外の気配がShamrock squareに現れる。そのことに気づいたシュウとケイが背後に視線をやると、そこには、
「――ディーレ・・」
 ディーレがいた。昨日と同じ、金糸のような髪をサラサラと揺らし、美しいはずの藍色の瞳を曇らせた精霊が、自分たちの方に向かって歩いてきている姿があった。徐に開かれた唇からは、
「カエデ・・」
 やはり、愛しい人の名しか零れない。
 そんなディーレに、シュウは彼の方に歩を進め、諭そうとする。それを途中で止めたのはケイだった。
「ディーレ、彼女は――」
「ディーレ」
 そっと、哀れな精霊の名を呼ぶ。そしてケイはシュウの隣を通り過ぎ、ディーレの側に寄る。触れ合える距離まで、あと数歩。その距離で歩みを止めたケイは、真っ直ぐにディーレを見つめる。
「聞かせて、ディーレ。あなたはカエデのこと、愛していたの?」
 その問いに、ぼんやりとケイを見つめていた藍色の瞳が揺れた。そして、唇から零れたのは、それしか知らないかのように繰り返されていたカエデの名ではなく、
「――愛して・・いる」
 そんな言葉だった。
 ケイは愛していたのかと問うた。ディーレは、愛していると答えた。彼にとって、カエデがいたことは過去ではなく、今現在のこと。精霊である彼にとっては、氷の中にカエデがいる限り、生きているのと同じなのだろう。たとえ手元から離れてしまった今でも、ディーレはカエデを愛し続けている。けれど――
「――でも・・手に入らない。どんなに愛しても、君は俺を愛してはくれない」
 悲しく細められた瞳は、ケイを見つめている。まだ、ケイとカエデを混同しているようだった。
「・・それなら、どうして凍らせるの? 凍らせても、愛してくれなかったでしょう?」
 その問いは、ずっとずっと自分の中にあったものだ。
 幼い頃、絵本を読んで聞かせてくれた祖父が、決まってポツリと呟いたのが、


『どうして精霊は、愛する人を凍らせるんだろうね・・・』


 この問いだった。何度も何度も耳にしたこの問いを、今度はケイが問う。答えがようやく聞けると、胸が僅かに鼓動を増す。
 しばしの沈黙の後、ディーレは徐に口を開いた。
「・・彼女との永遠を、手に入れたかった・・」
「――永遠・・?」
「カエデと・・俺と・・ずっと一緒にいれば、 カエデも愛してくれると思った・・幸せになれると、思ったんだ・・・」
 ぽつりぽつりと語り始めたディーレの瞳はやがてケイから離れ、 白い地面へと落ちた。サラリと金糸の髪が彼の頬を覆い、表情を隠してしまう。次第にディーレは、ケイがカエデではないことを認識し始めているようだった。外された瞳。そして、ひたすらケイに向けて伸ばされていた腕が、いつの間にかだらりと脇にぶら下がっていた。
 絶望にただただ俯き、耐えるしかないディーレの姿に、ケイは胸が締め付けられるような思いを抱く。それに耐えるように、胸の前で掌を握り締める。そして、そっと哀れな精霊に問うた。
「・・ねえ、あなたはどうすれば救われるの?」
「――愛して・・欲しいんだ」
 消え入りそうな声で、ディーレは言った。ゆっくりと上げた顔には、悲しみの色一色が塗られている。金糸の髪に、白い肌。ラピス・ラズリのように神秘的な瞳。どこをとっても美しいと賞賛されるべき精霊の姿も、今はただ哀れを誘うのみ。唇から零れる懇願も、儚く消える雪のようにか細い。
「ただ、愛して欲しい――」
 精霊の懇願に、ケイはぎゅっと瞼を閉ざした。
 ――瞳の奥が、熱い。涙が、零れてしまいそうだった。
 それを堪え、ケイはディーレに問うため、口を開く。声が震えるのを止めることはできなかった。
「・・そうすれば、あなたは救われるのね」
 返事は、ない。けれど、真っ直ぐ自分に向けられたディーレの瞳に、ケイは決意する。そして、一歩、歩みを進める。
「ケイ?」
 突然ディーレの方に向けて歩き始めたケイに、一体何をするつもりかと、シュウが彼女の名を呼ぶ。けれど、ケイは歩みを止めなかった。深く雪が積もり、一歩がなかなか思うように進まない。それでも、ケイはゆっくりゆっくり、ディーレの側へ寄っていく。
「本当に、おばあちゃんを愛していたのね」
 問うと、返ってきたのはやはり、
「――愛している・・いつだって・・愛しているんだ・・・」
 どんなに時が経っても過去に出来ない、カエデへの愛の言葉。
 人間にとっては、世代が代わり、とうの昔に過去の出来事となり、過去の人になる程の長い時間でも、 精霊にとってはほんの一瞬。ケイの祖母がいたあの遠い昔も、ディーレにとっては昨日のように思い出されるのだ。 鮮明に。残酷なほど鮮明に、全てが思い出せる。
 冬の森の中、花を摘みに来て迷っていた美しい女。
 その美しさに惹かれ、姿をさらけ出したあの日の、空模様。 そこから、ひらりひらりと舞いおりていた雪。
 突然姿を現した自分に、一瞬、 怯えた表情を見せた彼女。村は向こうだと教えると、驚くほど綺麗に笑って言った 「ありがとう」の言葉。
 一瞬にして、胸の奥に灯った炎の熱さ。
 愛してしまったことを悟った。そして、その途端に、彼女を村へ帰したくなくなってしまった。
 彼女を永遠に愛したい、彼女に永遠に愛されたいと、望んでしまったその瞬間、強 く吹き付けた雪。あれは、「やめなよ」と、「後悔することになるよ」と、雪達 の警告だったのだろうか。それさえ聞こえないほど、彼女への思いで一杯だった。止 められなかった。
 そして――終わった。
 彼女を、手に入れた。そうして初めて気がついた。 彼女の薬指に光る銀色の指輪。彼女はもう既に、他の男と愛を交わしていた証。 永遠を分かち合い、愛し続けていれば愛してくれると思っていたのに、彼女にはもう愛する人がいたのだ。
 その途端、胸の炎を消さんとするかのように吹き荒れた冷たい冷たい風は、 明らかに自分を責める雪達の声でいっぱいだった。
 あの日、あの時から生まれた後悔は、 今も胸の奥深くに巣くい、彼女への変わらぬ思いと共に、自分を狂わせる。 永遠を望んだ自分に、永遠の苦しみを与える――
「ああああああ・・・ああああああああああああ――――――――!!!」
 それは、精霊の言葉にならない悲しい慟哭だった。
 ケイは、耳を塞ぎたい思いにかられながら、彼の悲しい慟哭を受け入れる。そして、
「ディーレ」
 彼の目の前で歩みを止めたケイは、ディーレに向けて手を広げる。真っ直ぐディーレを見つめる瞳は、いつの間にか涙に濡れていた。震える唇で、ケイはディーレの名を呼ぶ。
「ディーレ。こうすることが・・あなたにとって、幸せだと、私は思うの」
 彼を、永遠の苦しみから解放してあげることが、彼にとって一番幸せなことではないのかと。だが、ケイは自らディーレを抱き締めようとはしなかった。
「――でも、私には決められない」


『ケイの幸せを決めつけてしまいたくないんだ』


 そう言った兄の言葉が、ディーレを抱き締めることを許さない。ディーレのとっての幸せが何かなんて、分からない。
「・・だから、こうすることが合っているかどうかは、ディーレ、あなたが決めて」
 はらりはらりと涙を零しながら、ケイは手を広げ続ける。
 ディーレは、じっとケイを見つめていた。しばしの沈黙の後、彼の口から零れたのは、
「・・・カエデ・・・」
 愛しい女の名。そして、ディーレはケイに向かって手を伸ばした。
「ディーレ!」
 シュウの制止の声は、もう届かない。
 ディーレは、そっとケイを抱き締めていた。ケイも、そっと抱き締め返す。
 光が、ディーレの体を包み込む。その光の中、確かにディーレの体の感触を、ケイは感じていた。それを、少し強く抱き締める。哀れな精霊の心を、少しでも慰められるように。今、この世から消えていく精霊の心の傷を、少しでも癒してやれるように。そして、願わくば、このまま彼の体が自分の腕の中にあるよう、祈りながら。
「――温かい・・・」
 ケイにも届かない、小さな小さな声で、ディーレはそう呟いていた。
 自分たちを消してしまう熱だというのに、少女の自分を包むぬくもりは穏やかで、温かい。 カエデも、こんな温もりを持っていたのだろう。そしてそれを奪ったのは、自分。こんなにも穏やかで優しい 、全てを癒すようなぬくもりを持っていた人を、自分は凍らせてしまったのだ。
「バカだ・・・」
 その呟きは、今度はケイの耳にも届いていた。
「・・・俺が・・このぬくもりに溶けてしまえば良かったんだ・・・」
「――ディーレ・・」
 そうすれば、何も苦しむことはなかったのかもしれない。彼女を冷たい氷の中に入れるより、 自分が暖かな彼女のぬくもりの中に消えていってしまえば、こんなにも自分は苦しむこともなかったのかもしれない。そして、彼女を愛していた人間達を、悲しませることもなかったのかもしれない。
 ディーレを包む光が、激しさを増す。それと比例して、抱き締める腕の中にあるはずのディーレの体が次第に形をなくしていくことにケイは気づく。必死で抱き寄せても、彼の体はサラサラと光の粒に変わっていく。
 人間のぬくもりに、精霊が溶けていく――キラキラと。キラキラと。
「――カエデ・・愛していたんだ・・」
 ディーレがケイから体を離したことが、ケイにも何となく分かった。そして聞こえてきた呟き。それは、自分に向けられたものではなく、今は姿の見えないカエデに向けられたものだった。彼はやはり知っていたのだろう。目の前にいるのは、カエデに似た姿を持っているだけの少女だということを。
 それでも彼女を抱き締めてしまったのは、何故だろう。一瞬でもいい。消えることが分かっていても、カエデから自分が奪ってしまった温もりを、感じてみたかったのかもしれない。カエデの温もりに消えてしまうことで、彼女への尽きることのない愛を証明したかったのかもしれない。それとも、後悔から逃れるためか、届かない彼女への愛から解放されるためだろうか。身勝手にも、人間の温もりに消えて、カエデへの愛の苦しみから楽になりたかったのかもしれない。
 カエデは無責任だと自分を責めるかもしれない。もしくは、いい気味だと嘲笑うかもしれない。それでもいい。それでもいいから、このぬくもりに、溶けてしまいたい。
 ―――キラキラ・・・キラキラ・・
 完全に精霊の姿をなくした光が、ケイの周りを舞う。雪のように、ひらりひらりと。そしてその中、微かに響いたのは、
「――ありがとう・・」
 確かに、ディーレの声。
 その声が消えるその瞬間、光が舞い上がった。突風にあおられたかのように唐突に、上空へと舞い上がる。そして、そのまま空へと吸い込まれていった。
「ディーレ・・」
 彼の消えた空から視線を地面へ落とすと、そこにはキラキラと光る結晶のようなものがあった。ケイにはそれが何か知ることは出来なかったけれど、それは、ディーレが一粒零した、涙の結晶。透き通った涙の結晶は、うっすらと雲に覆われ、頼りない太陽の光を受け、キラキラと光っている。
 結晶を拾い上げたケイの瞳からも、一粒、涙がこぼれ落ちた。
「キレイ――・・」
 ――涙が、止まらない。ディーレの涙の結晶を胸に抱き締め、ケイはただただ涙を零すしかなかった。
 胸が苦しい。悲しみに、胸が張り裂けそうだった。
「ケイ・・」
 ディーレが遺した涙の結晶を胸に抱き締め、ただただ泣きじゃくるケイをシュウは茫然と見つめていた。どうしていいのか、分からない。どうすれば彼女の悲しみを癒してやれるのかが。
 立ち尽くすしかないシュウの見守る前で、ケイは顔を覆って悲鳴のような声で叫んだ。
「イヤ! 淋しいよ、こんなの・・ッ! こんなの、幸せの形じゃない。私はイヤよ!」
「――ケイ・・」
 悲しく激しいケイの叫びを、シュウは受け止めることも出来ない。どう受け止めていいのか分からない。どんな言葉を返せばいいのか分からない。ただ、見守ることしかできない。震える背を撫でてやることも、頬を濡らす冷たい涙を拭ってやることも、悲しみを細い肩に抱える華奢な体を抱き締めることも、何一つ、出来ない。
「ケイ・・」
 胸をじりじりと焦がすのは、歯痒さ。
 愛しさが、届かない。伝えられない。
 こんなに愛しいのに。こんなに胸を焦がす思いは熱いのに、何故この体は、ケイのぬくもりに耐えられないのだろうか。それが、歯痒くて仕方がない。
 そして、シュウは唇を噛みしめた後、口を開いていた。
「――君を守りたい」
「・・・シュウ?」
 唐突なその台詞に、泣きじゃくっていたケイが驚いたように顔を覆っていた手を離し、シュウを見つめる。涙に濡れ、赤くはれた瞳を真っ直ぐに見つめ、シュウは言った。何の臆面もなく、真っ直ぐな気持ちをケイにぶつける。
「愛してるんだ、ケイ。触れ合って伝えることは出来ないけど、愛してるんだよ」
 雪が、舞う。灰色の雲から、ひらりひらりと、雪が舞い降りてくる。シュウの思いを隠さないように、静かに静かに、舞い降りてくる。
「だから僕は、せめて僕は、側にいたいと思うんだ・・何があっても」
 ディーレは後悔に苛まれ、愛する人の側から離れてしまったけれど、自分はケイの側にいたい。どんなに悲しいことがあっても、どんなに苦しいことがあっても、どんなに消えてしまいたいと望んでしまっても、何があっても、せめて彼女の側にいよう。この誓いを、彼女への愛の証としよう。
 ひらりひらり。舞い落ちる雪と共に、視線を地面へとおとす。
「・・君が、まだ僕たち精霊のことを嫌悪していないのなら、側に――」
「側にいて」
 唐突に、涙に濡れた声がそう告げた。今まで黙って自分の言葉をきいていたケイの唐突なその言葉に、シュウは顔を上げる。ケイは涙を拭うこともせず、自分を見つめていた。その瞳からはまだ涙が溢れていたが、唇から溢れる言葉は、しっかりしていた。
「私は幸せになりたいの。おばあちゃんやディーレとは違う形の幸せを手に入れたいの。他にも、幸せの形はあったんだって、ディーレに教えてあげたいの。こんな悲しい幸せの形じゃなくて・・・!」
 そこまで言い切り、ケイは再び泣き始めた。
「・・うん。うん、そうだね」
 抱き締めることは出来ない。それでもシュウは、出来るだけケイの側に寄り、優しく言葉をかける。するとケイは、両手で頬を伝う冷たい涙を拭いながら言った。その言葉は途切れ途切れではあったけれど、十分聞き取れるものだった。
「私・・私はね、シュウに会えれば・・それだけで、幸せなの。シュウの側に、いられれば、幸せなの」
 泣きじゃくりながらのその言葉をシュウは優しい相槌と共に聞いていた。いつもはしっかりしているケイの泣きじゃくる姿は、不謹慎にも愛らしいと思った。そしてまた募る愛しさ。
「ケイ。僕も、君の側にいられれば、幸せだよ。だから、今、幸せなんだ」
 シュウの側にいられれば、ケイは幸せ。
 ケイの側にいられれば、シュウは幸せ。


『同じ答えなら、二人一緒に幸せになれるさ』


 蘇ったのは、兄の言葉。人間と精霊には、悲しい恋の結末しか待たないのかと泣いた自分に、兄がいつも通りの朗らかな笑みと共にくれた言葉。
 今は、その言葉を信じようと、ケイはそう思った。
 雪が舞う。
 二人の周りをふわりふわりと雪が舞う。泣きじゃくるケイを励ますためか、少女に恋する精霊を勇気づけるためか、それとも、長く辛い苦しみから解放された哀れな精霊を弔うためか――
 理由は分からないけれど、雪は静かに舞っている。
 そんな空の下、二人は出来る限り身を寄せ合う。触れ合うことは出来ないけれど、それでも、誰よりも側にいることは出来る。
 悲しい恋の結末を見た人間の少女と精霊。
 それでも今、二人は、確かに幸せだった。







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