「お、デカイのが降り始めたぞ」 そう言って、キッチンの窓から空を見上げたのはモリ。その眉間には皺が寄っている。 ジャガイモの皮を剥いていたハルは手を止め、チラリと窓に目を遣る。モリの言う通り、大粒の雪が窓の外を白く染めていた。 「本格的な冬が来たなー」 言って、ハルが再びジャガイモの皮を剥きに勤しみ始めると、モリも窓際から戻って包丁を動かし始める。ハルとケイが幼い頃は、毎日モリの家でモリの一家と寝食を共にしていたが、ハルもケイも大きくなり、自炊が出来るようになってからは、週に二日はこうして自宅で夕食を作るようになった。残り5日は、モリの家にお邪魔しているが。 二人が夕飯作りに勤しんでいると、唐突に玄関の扉が開く音がした。 ケイか? と問う間もなく、すぐさまドタドタと騒がしい足音が近づいてくる。 「誰だ?」 おかしな人間でも入り込んできたのかと一瞬身構えたモリだったが、その足音はキッチンと続きになっているリビングのドアを開くことなく通り過ぎ、家の奥、ケイの部屋へと消えていった。 「・・・ケイ、だよな?」 「多分」 妹の部屋へと向かっていったのだから、おそらくケイだろう。頷きながらもハルは僅かに首を傾げる。ケイがただいまも言わず部屋に駆け込むなんて、今までにあっただろうか。 同じことをモリも思ったらしく、彼は溜息交じりに言った。 「ケイ、まだ怒ってるのか?」 昨夜、ケイが精霊に会っているということを知ったモリは、それを厳しく諫めた。そしてケイはそれに反発し、『モリさんには関係ないの!!』という言葉までぶつけてしまっていた。 ケイが何も言わずに部屋に直行した理由が、彼女が昨日のことをまだ怒っていて、自分に会いたくないためではないかとモリは思ったらしい。 「いや、もう怒ってはないだろ」 モリを安心させるために、笑って見せる。けれど、その言葉に嘘偽りはなく、本当にケイはもう怒ってはいないだろうとハルは思っていた。妹は、自分と同じく、そう長く怒りを持続させておくことができない性分だと知っていたから。きっと、他に何か理由があったのだろう。 「ちょっと見てくる」 ケイが自分から出てくるまでそっとしておいた方がいいかとも思ったが、ハルはやはり心配になったらしく、エプロンを外した。 「ああ」 エプロンと夕食とをモリに託し、ハルはケイの部屋へと向かった。 ケイの部屋の扉は、固く閉ざされていた。やはり、一人にしておいた方がいいかと迷う。けれど、ハルは思い切って扉をノックする。 返事はない。 再度、ハルは扉を叩き、ケイの名を呼んだ。 「ケイ、オレだよ」 すると、部屋をノックしているのが兄だと気付いたからか、ケイが応えた。 「お兄ちゃん」 辛うじて聞こえたその声が涙に濡れていることに気付いたハルは眉を寄せる。 「開けるぞ」 有無を言わさぬ口調で、けれど一応拒む声がないか数秒待った後、ハルは扉を押し開け、部屋に入る。 ケイは、コートを脱ぐこともせず、ベッドに俯せに倒れ込んで泣いていた。顔を埋めた枕を抱き締め、声を殺してケイは泣いていた。 そんなケイの姿に、ハルは驚く。 ケイはいつだって涙を見せない少女だった。父母が死んだときもそうだ。いつだってケイは涙を見せず、笑っていた。気丈な少女だった。そんな妹が泣き崩れているその姿に、ハルは驚くしかない。と同時に、常に気丈に振る舞っている彼女をここまで悲しませたものに対し、怒りにも似た感情が沸き上がってきた。けれど、ハルはそれを押し殺し、優しくケイに声をかけた。 「どうした? ケイ」 その問いかけに、ケイは応えなかった。ただ、肩を震わせている。 そんな妹の様子に、ハルは小さく溜息をついた。泣いているケイを、どうやって慰めればいいのか分からない。ハルは徐に伸ばした手で、ケイの頭を撫でる。そうする他に、人を慰める方法をハルは知らなかった。けれど、ケイが泣きやむことはなかった。泣きやむどころか、ケイは更に嗚咽を零し始める。 「ケイ・・」 ハルは、ただ妹の頭を撫で続けていた。震える体が、ハルの心を痛める。 沈黙はしばし続いた。それを破ったのはケイの涙に濡れた声だった。 「ねえ、お兄ちゃん」 「なんだ?」 「おばあちゃんは、幸せだったのかな?」 「――え?」 予期せぬ問いに、ハルは目を瞠る。 ケイは、再び繰り返して問うた。 「おばあちゃん、どうして凍らされちゃったのかな・・・?」 「―――」 その問いに、とうとうハルは口を閉ざした。 答えることは出来ない。答えを知らない。知る術を自分は持っていないから。簡単な憶測を並べる気にもならない。 沈黙以外の答えをハルが出すことは出来なかった。 それを、ケイも分かっている。だから、ハルの口から答えが出てくるのを待つことはしない。次の問いを口にする。その問いは次第に泣き声を交じらせていった。 「どうして? どうして私達は幸せになれないの? こんなに姿形を似せておいて、触れ合うことすらできないなんて・・・神様は何て意地悪なの!? 私がこんな姿じゃなかったら・・・あの人があんな姿じゃなかったら、あの人を好きになるコトなんてなかったのに・・・ッ!!」 その独白に、ハルは妹が何故苦しんでいるのかを悟る。彼女はおそらく、シュウとの恋に心を痛めているのだろう。 ハルは声を上げて無く妹をただただ撫で続ける。 自分には、どうしてやることもできそうにない。ただ慰めることしかできない。ケイが落ち着くまで、ハルは何も言わずケイの頭を、背を撫でていた。 それが功を奏したのか、次第にケイは落ち着きを取り戻したようだった。 「・・お兄ちゃん」 「なんだ?」 「私には分からないよ」 「何がだ?」 「私、どうやったら幸せになれるのかな?」 その問いに、ハルはしばしの逡巡の後、徐に口を開いた。 「オレにも、それは分からない」 何か、それらしいことを口にする方が、ケイにとっては楽だったのかもしれない。けれど、ハルはそれをしなかった。何故なら、 「オレが今ここで、コレだ! って言って、ケイの幸せを決めつけてしまいたくないんだ」 その言葉に、ケイは小さな声で言った。 「・・・私には、分からないよ」 力無いその言葉に、ハルは優しい口調でケイに訊ねる。 「ケイは、シュウと幸せになりたいんだな?」 ケイは一瞬驚いたような顔で枕から顔を上げた。だが、自分が悲しみに任せて全て喋ってしまったことを思い出したのだろう。すぐに赤く染めた頬を枕に埋め直した。 「な?」 恥ずかしがっているのだろう、顔を枕に埋めたまま答えないケイに、ハルはそう答えを促す。するとケイは、小さく小さく頷いて言った。 「・・・うん」 その答えに、ハルは笑みを零す。この妹は、シュウという精霊のことをとてもとても愛している。その事実が、少しハルの胸を焦がす。それは、今まで自分が守ってきた妹が、他の男にとられてしまうという身勝手な嫉妬。ハルはその嫉妬を息を吐くことで消した。 「お前は、どうしたい?」 「私?」 「そうだ」 「私は・・・シュウと一緒に居たいの」 「そうか」 「少しでも長く、一緒に居たい」 涙声のその言葉に、ハルは優しい口調で妹に言った。 「じゃあ、明日シュウに訊いてみろ」 「え?」 「シュウがどうしたいのか」 その言葉に、ケイは涙の溜まった瞳を瞬かせる。 それを問うて、どうなるの? そんな疑問を訴えかけてくるケイに、ハルは 幼い子供を諭すよう、ゆっくりと言って聞かせた。 「もし、それがケイと同じ答えなら、二人一緒に幸せになれるさ」 シュウの答えが、自分と同じものだったのなら。 「・・幸せに、なれるのかな?」 シュウと一緒にいたい。彼の傍にいたい。そう思う。けれど、それを邪魔するのは、人間には残酷な、冬の寒さ。ずっと彼の傍にいることはできない。それでも、今のように、毎日会えれば幸せだと思うのだ。たとえ短い時間だとしても、シュウと語り、笑い合い、愛を確かめることが出来ればそれでいい。 シュウも、そう思ってくれれば、幸せになれるのだろうか。 シュウも、自分の傍にいたい。それだけで幸せだと、そう思ってくれるだろうか。もし、そう思ってくれるのならば―― 「――幸せになれるかもしれない」 触れ合うだけが愛し合うことではない。言葉を交わし、微笑み、傍にいる。それだけで幸せだと感じることはできる。それは、都合の良い期待に過ぎないのだろうか。 「なれるよ、ケイ」 視線を兄に向ければ、そこには優しい優しい顔で自分を見つめている彼の姿があった。ずっと頭を撫でてくれていた掌。その温もりを今、改めて感じる。 いつでも傍に居てくれた兄。 彼はどこか少し抜けていて、自分のこととなると鈍感で、けれど妹のことには敏感だった。そして、あまりにも率直で、少しも飾らない優しさが、ケイを救う。 「お兄ちゃん」 「なんだ?」 「お兄ちゃんの幸せって、何?」 日々を笑って過ごし、特に一つのものに対しての執着を持たないハル。そんな兄に、ケイは訊ねる。参考までに、というつもりはなかった。ただ、常に幸せそうに笑っている彼の幸せが何なのかを知りたかった。 「オレは・・・今だって幸せだ」 「え?」 「村の人たちとお喋りして、おばさんとパン焼いたり、おじさんと布作ったり、モリと喚いたり、ケイが笑顔で出かけて・・・そして帰ってきてくれる。オレは、それだけで幸せなんだよ」 そう言って微笑んだハルは、その言葉の通り、幸せそうだった。 そんな兄を、ケイは黙って見つめる。 ――スゴイ。 そう思った。 失ってしまった、父母との何気ない日常が幸せだったことを、ハルは知ったのだろう。特別なことは何もいらない。ただ、居るべき人が傍にいてさえくれれば、今ある日常が幸せだと。 ケイが黙ったままでいると、それに気付いたハルは、少し照れたように笑って言った。 「単純だろ」 「そんなことないよ」 ケイは左右に首を振って答える。 兄は、特別な何かをもって幸せとは思わない。だから、常に幸せなのだ。では、自分はどうだ? 愛していた祖父と引き裂かれ、凍らされた祖母−カエデ。そして、愛するカエデを凍らせ、それでも尚愛に狂った精霊−ディーレ。悲しい恋の結末に自分たちを重ね、嘆いていた。 ずっと、傍にいたい 自分が人間である限り、彼が精霊である限り無理な望みを持ち、それが叶わず不幸だと嘆いていた。シュウと会えるだけで幸せなのに、それ以上を望んでしまっていた。自分の愚かさを知ったようだった。 「・・・私、明日行って訊いてみる」 決意を口にすると、 「ああ」 優しくその先を促してくれる兄。 「行って、彼の幸せが何か訊いてみる。そして、お兄ちゃんに、いいお土産話を持って帰ってくるわ」 ケイは、そう言って微笑んだ。その笑みの中に、先程まで枕に顔を埋め、肩を震わせていた面影はない。それを確認したハルも、同様に笑みを零した。 「ああ。楽しみにしてる」 「うん!」 夕食が出来たら呼ぶからと、ハルはケイの頭を再度撫で、部屋を後にした。 静かに閉ざされたドア。そして、遠ざかっていく足音を聞きながら、ケイはぼんやりと考えていた。家に帰ってきたとき、胸の中で渦巻き、胸を食い破ろうとしていた絶望感は消えている。どんなに頭を巡らせても、悲しみにしか辿り着かなかった思考も、今は正常に戻っていた。 その頭で、考える。考えるのは、悲しい精霊のこと。 「私は、一緒にいたかった」 シュウに会えるだけでは満足できず、ずっと一緒に居たいと、そう望んでしまっていた。いつでも、どんな時でも傍にいたいと。 「だから、凍らせたの・・・?」 愛していた人をずっと側に置きたいから、彼はカエデを凍らせたのだろうか。 『とても、好きで好きで仕方がないからなのかもしれないね』 自分が幼かった頃、祖父が悲しい瞳で洩らした言葉が、蘇ってきた。あの頃は、兄も自分も幼すぎて、祖父の言葉がまったく理解できなかった。 「好きだから・・・凍らせた・・・」 けれど、祖父の言葉が、今なら分かる。 きっとディーレは、どうしてもカエデを傍においておきたかったのだ。たとえ凍らせても、側に置きたいと。 そして、狂った――。 その理由が、ケイには分からない。 『カエデ・・・もう・・・離さない・・・』 人間の温もりに触れると、精霊は溶けてしまう。その事実さえ忘れてしまうほど、カエデが恋しかったのだろうか。自ら凍らせたというのに、その事実を忘れ、溶けてしまうことすら忘れてまで、カエデの面影を持つケイに手を伸ばし、触れようとしたディーレ。 「溶けてもいいから、抱き締めたかったのかな・・・?」 カエデを凍らせ、触れられなくなってから、ディーレは後悔したのだろうか。だから、ケイに触れようとしたのだろうか。抱き締めようとしたのだろうか。 ケイは、先程まで自分が顔を埋めていた枕をぎゅっと抱き締める。 「――抱き締めたい、かなぁ?」 考えてみる。触れられないけれど、決して叶わないけれど、自分はシュウを抱き締めてみたいだろうかと。 「―――」 答えはすぐに出た。言葉にするまでもなく、胸の中、募っていく恋心の熱さ。 彼も、こんな熱い思いを、胸の中にしまい込んでいるのだろうか。 「それなら――」 こんな熱い思いを胸に持つことができるのならば、人間の温もりにだって、耐えられたらいいのに。 いつしか空は闇を纏い、そこに浮かぶ月は、満月へと近づいていた―――。 |