幸いなことに、村人の誰からも見つかることなく森に入ったケイは、 日に日に白くなる道を抜け、Shamrock squareへと向かう。
 しんと静まりかえった森。そこは、冬のピンと張りつめた空気に支配されている。
 その清らかな静寂をたたえた森が、ケイは好きだった。
 そして、森を包む清らかな静寂を自分の足音が壊していることへの罪悪感と、逆に生まれる僅かな優越感とを抱えながら、Shamrock squareへと急ぐ。おそらくそこで自分を待ってくれている白い精霊―シュウに、少しでも早く会いたい。日暮れまで、少しでも長い時間、一緒にいたいと思ったから。
 逸る気持ちを抑えきれず、ケイが駆けだしたその時だった。
「――・・誰?」
 ふと、物音がケイの鼓膜を揺らし、ケイは立ち止まった。ガサガサと雪を積もらせた枝が揺れ、次にドサッと枝に積もっていた雪が落ちる音。
 鳥か何かだろうか。辺りを見回したケイは、自分の背後に視線を巡らせた所で、その音の正体を知った。
「―――・・誰?」
 再びケイは問う。今度の問いには、対象がいた。ケイの背後。数メートル離れた場所に、見知らぬ人が立っていた。否。彼は、人ではない。白い肌に白い服を纏い、雪の積もった地面を踏みしめることなく宙に浮いている足は、裸足。
 そこにいたのは、見知らぬ白い精霊の男。
 肩を僅かに過ぎる金茶の髪は、まるで絹糸のようにさらさらと揺れている。 本当の歳を知ることは到底できないが、見た目は人間で言うと二十代後半くらいだろうか。端正な顔立ちをした精霊。けれど、ケイをじっとみつめるその瞳は、虚ろ。ゆっくりと瞬く瞳は、深い青。すこしけぶった、藍色の美しい瞳をしているのに、そこに宿るものがない。ぼんやりとケイを見つめている。
「・・・私に、何か用?」
 再び、ケイは問う。二人目に会った精霊だからか、それとも生命の光を感じさせない虚ろ な瞳の所為か、シュウと出会ったときのような感動は生まれない。不安な気持ちを抱えつつ、ケイは精霊が答えるのを待つ。
「・・・・――デ」
「え?」
 徐に口を開いた精霊の唇から零れた言葉は、あまりにも小さく掠れていて、聞き取ることができない。訊ね返したケイに、精霊は再び口を開いた。次に溢れた言葉は、しっかりとケイに届いた。精霊が、ゆっくりと彼女の方に近寄ってきていたからかもしれない。
「・・帰ってきてくれたんだな・・カエデ・・」
「―――・・カエデ?」
 精霊が自分に向けた名を、ケイは茫然と繰り返し呟いていた。
 ――カエデ。
 それは、彼女の祖母の名。精霊に凍らされた、祖母の名だった。そのことを思い出した瞬間に、ケイはその精霊が誰なのかを悟った。
「・・・あなたが――」
 その言葉が、最後まで紡がれることはなかった。ふらふらと宙を飛び、ケイの目前にまでやってきた精霊が、再び口を開いた所為で。
「カエデ・・・もう・・・離さない・・・」
 精霊はケイの目の前までやってきたかと思うと、徐にケイに向かって手を伸ばした。彼女の薄紅に染まった頬に触れるために。
 そのことに気付いたケイは、慌ててその手を避けようと後ずさる。
「ダメ! 溶けちゃう!!」
 それでも、彼はケイに向かって手を伸ばす。
「ダメだったら!!」
 彼から離れようとするが、地面に深く積もった雪に足を取られ、方向転換もままならない。だが、このままでは、精霊が溶けてしまう。慌てて足を雪から抜き、後ずさろうとしたケイだったが、それも叶わなかった。
「あッ!」
 雪に足を取られたケイは、その場に尻餅をつく。
「カエデ・・」
 精霊はひたすらケイに向かって手を伸ばす。虚ろな瞳で、けれど真っ直ぐケイを見つめている。しかしその瞳に移っている少女が自分の思い描いている女とは違うことには気付かない。ケイに受け継がれた、かつて愛した女の僅かな面影が、彼に幻影を見せているのだろうか。
「ダメ!!」


『生物の温もりは、僕たちを溶かしてしまうんだよ』


 消えてしまおうと言うのか、それともその事実を忘れるほど、焦がれていたのか。ずっと一人で、探し求めていたのだろうか――?
「ダメよ!! やめて!!」
 頬に精霊の手が触れる、その瞬間――
「ケイ!」
 ぎゅっと瞳を閉ざしたケイの鼓膜を揺らしたのは、見知らぬ精霊の声ではなく、耳に馴染んだシュウの声。瞼を上げると、目の前に自分を庇うように立つシュウと、おそらく彼が自分から引き離したのだろう、あの精霊が居た。
 シュウに腕を掴まれ阻まれてもなお、彼は懸命にケイの方に行こうとしている。
「離せ、シュウ。離してくれ・・」
「・・ディーレ、この子は君が愛した人じゃない」
「・・カエデ・・カエデ・・カエデ・・・!」
 シュウの告げる事実を拒むように、ディーレと呼ばれた精霊は、ただただ己の愛した人間の名を呼んでいる。かつて愛した人の面影を残すケイに向けて。必死に。必死に――。
 その様を、ケイは茫然と見つめていた。
 ――なんて、哀れなんだろう。この精霊の姿は・・・。
 虚ろな瞳は、真実を映さない。愛した人の幻影ばかりを映してしまう、悲しく暗い・・そして、狂おしく光る瞳。
「あなたが――・・」
 この精霊が、祖母のカエデを愛し、凍らせた人。祖父から祖母を奪った人。
 娘が生まれ、幸せの絶頂だった祖父と祖母。仲睦まじい夫婦だったと、母や村の人たちから聞かされた。しかし、森に出かけた祖母は、帰ってこなかった。数日後、四角い氷の柩の中で眠っている祖母が発見された。
 祖父は精霊を怨み、妻を凍らせたその理由を問い続けながら、死んでいった。
 祖父が死んだ際、彼が入る墓の中から出てきた大きな氷。その中で眠るように死んでいる祖母を見て、子供心にケイは納得した。白い精霊に愛され凍らされてしまったその理由が。彼女が、驚くほどに美しかったから。


『・・・綺麗だったから、なのかな・・・それとも――』


 ふと、祖父の言葉を思い出した。そして、その時は、「なんて身勝手なことを」と憤慨したものだった。
 けれど、それだけの理由ではなかったのだ。
 それを、今、知った。祖母を凍らせた精霊の姿を見ることになった今、知った。
 ディーレという名の精霊が祖母を祖父から奪っていったのは、気まぐれからではなかった。美しいから、というだけでもない。彼は、本当に愛していたから凍らせたのだ。


『――それとも、好きで好きで仕方がなかったのかな・・』


 瞳の中の愛しさと優しさに、悟る。祖父のその言葉は、真実だったと。彼は、本当に祖母を愛してしまった。愛しすぎてしまった。
 ―――おじいちゃん。合ってたよ・・おじいちゃん。
 その事実を、喜んでいいものか、悲しんでいいものか、ケイには分からなかった。
 思考の波にたゆたっていたケイがふと我に返ったのは、自分を見つめていたディーレの瞳が消えていたからだった。
「―――・・」
 いったいどう説得したのだろうか。ディーレは、またふらふらと宙を舞い、森の奥へと姿を消して行った。
 なぜかいやに細く見える彼の背中を、ケイはじっと見守っていた。白い服はすぐさま雪の白と同化し、判別が難しくなる。それでも、ケイはじっと見つめている。
 悲しげに細められた瞳で、いつまでもディーレを見送るケイの横顔に、シュウはそっと声をかける。
「・・ケイ」
 聞こえているのかいないのか、ケイは返事を寄越さない。まだ、ディーレが去っていった方を見つめている。
「ケイ」
「――・・あの人は?」
 再度声をかけると、彼女はようやく口を開いた。視線がシュウに向けられることはなかったけれど。
 ケイに倣うように、シュウもディーレが去っていった方に視線を遣り、ケイの問いに答える。
「彼はディーレ。・・人間を愛して、狂ってしまった仲間だよ」
「―――・・」
 その答えに、ケイは何も返さなかった。視線を動かすこともしない。じっと見つめているその先には、もう誰もいない。それでも、見つめ続ける。いや、もしかしたら思考の波に呑まれ、彼女はもう何も見てはいないのかもしれなかった。
 そんなケイの様子に、シュウは心配そうに彼女を覗き込み、優しく問う。
「大丈夫かい? 驚いただろう」
 その問いに、答えは返ってこなかった。だが、しばしの間のあと、ケイは唐突に口を開いた。その唇から零れた台詞も、シュウにとっては唐突なものだった。
「私のおばあちゃんよ」
「・・え?」
「あの人が凍らせた人、私のおばあちゃんなの」
「―――」
 シュウは、口を閉ざした。視線を逸らすことなく、ディーレが去っていった方を見つめ続けるケイの横顔。そこからは、今彼女が何を考えているのか読み取ることはできない。
 仲間のディーレが愛し、凍らせた女性の孫が、ケイだという。
 衝撃的な真実を告げているにもかかわらず、眉一つ動かさないケイのその表情は、凍り付いているかのようで、シュウは不安に駆られる。
「――憎い、かい?」
「・・え?」
 問うと、彼女から返ってきたのはそんな反応。聞こえなかったのか、それとも意味を計りかねたのだろうか。
 ようやくケイの瞳が自分に向けられる。けれど、シュウの不安はおさまらなかった。
 自分たちを魔物と呼び憎む人間が居ることは知っている。その理由が、自分たちが人間を凍らせるからだということも知っている。
 自分たちは、愛しくて愛しくて、どうしても離したくなくて・・そして、凍らせるのだ。触れることすら許されていない人間と精霊。それでもいい。それでも一緒にいたい。それだけでいいと、愛し合う。そして、最後に永遠を手に入れたいと望むようになるのだ。死が訪れることのない精霊と、必ず死が待ち、そしてそれにむかって老いていき、やがて死んでいく人間。そんな人間と精霊の永遠とは、凍らせること――。永遠に変わらぬ姿で氷の中に存在し続ける。そんな愛する人の側に寄り添い生き続ける。それが、永遠。
 だが、人間は、時にその永遠を憎む。永遠を手に入れた者の肉親や近しい人は、精霊を怨むようになる。
 いったい何故怨むのか。愛し合い、永遠を誓ったのだ。それだけなのに、何故人間が精霊を魔物と罵り憎むのか、それはシュウにはよく分からない。けれど、その永遠をもらたす精霊を忌み嫌う人間がいることは、変えようのない事実。
 そして、彼女もまた人間だ。しかも、自分の祖母を凍らせた精霊を目の当たりにして、彼女も自分たち精霊を嫌悪したのだろうか。
「・・僕たちが憎いかい?」
 再び問うシュウを、ケイはじっと見つめていた。
 彼は、とても不安そうな顔をしていた。仲間と会うことも稀で、仲間、ましてや人間と言葉を交わすことが滅多になかったシュウは、自分の感情をとても素直に見せてくれる。寡黙ではあるが、その分、表情が全てを語っている。
 そんな不器用な彼に憎しみを抱く筈がない。むしろ、愛しくさえ感じる。
「・・憎くなんてないわ」
 そう答えると、やはり彼は安堵の表情を浮かべた。それが微笑ましくて、ケイは口許に僅かながら笑みを浮かべた。
 憎いはずがない。こんなに愛しい彼を、憎めるはずがない。祖父や祖母には悪いが、精霊に憎しみの感情なんてない。
 ――ただ、もやもやする。
 ケイは、徐に口を開いた。
「・・ただね、分からないの」
「何がだい?」
「あの人、どうしてあんなに悲しそうなんだろう・・・」
 すぐさまケイは、後悔する。こんな質問、しなければ良かった、と。
 思い出すのは、あの瞳。綺麗な色であるはずなのに、虚ろに曇った瞳。そこに光っていたのは狂気にも似た光だけ。愛しくて愛しくて仕方がない狂気の光。そして、その瞳からは、今にも涙が零れそうだった。しかし、そこから零れるものはない。涙は枯れ果ててしまったのだろうか。涙に濡れていてもおかしくないほどに悲しげな瞳なのに、決して溢れない涙。それは、見ている方が涙を禁じ得ない程に、哀れだった。
 美しい女に恋し、どうしようもないほどに愛してしまった精霊。そして、最愛の人を凍らせ・・・狂った。
 そんな悲しい、哀れな恋に、ケイの胸は締め付けられる。
 いっそ、彼は消えてしまった方が楽なのかもしれない。消えてしまいたかったのかもしれないと、そう思った。愛した女の面影を持つ自分の温もりで、消えてしまいたいと、彼はそう思っていたのかもしれない。
 愛して・・愛して・・愛して・・けれど、報われなかった恋。


「―――こんなの・・・残酷すぎるよ・・・」


 ケイの瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。 







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