太陽が、真上から村を照らす。
 だが、村を染める白い雪が総て溶けることはない。春が訪れ、そして夏の気配を人々が感じ始めるまで、白い雪が消えることはない。
 昼。
 ケイは、こっそりと家を出ようとしていた。昨夜、幼馴染みのモリに森に行くなときつく言われ、喧嘩をしてしまった。
『モリさんには関係ないの!!』
 そんなひどい言葉を投げつけてしまった。今思えば、モリは純粋に心配してくれただけなのに、カッとなってひどい言葉を浴びせてしまった。
 兄は何も言わなかった。けれど、彼もモリと同じで、森へ精霊に会いに行く自分に、不安を抱いてはいるのだろう。彼は、言わないだけだ。もしかしたら、あの後、モリに「ケイを森に行かせるな」と言い聞かせられているかもしれない。
 ケイはハルの部屋の前をそろりと通り抜け、居間にも彼がいないことを確認してから玄関へと出る。そこでほっと息をつき、ブーツを履いていた時だった。
「ケイ」
 背中にかかったのは、ハルの声。咎めるわけでもない。けれど、いやに静かな声に、恐る恐る振り返ると、部屋から出てこちらに向かってきている兄の姿があった。
 もしかしたら、本当に自分を止めに来たのかもしれない。
「・・・お兄ちゃんも、止めるの?」
 静かな声の調子と、声をかけてきたきり何も言わない兄の様子に、ケイは訊ねる。 けれど、ハルは首を左右に振って見せた。
「一つ聞きたいんだ」
「・・何?」
「ケイ、お前、幸せか?」
「え?」
 兄からの思わぬ問いに、ケイは思わず訊ね返してしまっていた。 するとハルは付け加えて再び問うてくる。
「シュウに会えて、幸せか?」
 言葉が付け加えられてもなお、ケイにはその質問の意図が分からない。 正直に答えたら兄はどうするのだろう。正直に答えなかったら兄はどうするのだろう。
 分からない。
 この質問の答えを聞いて、兄がいったいどうするのかは分からない。迷った末、ケイは正直に頷いて見せた。
「・・・うん。幸せよ?」
「そうか」
 すると、ハルは唐突に笑みを零した。それは、安堵の笑みだった。
「なら、いい。行って来い。あんまり遅くならないうちに帰って来いよ?」
 その口調はもう、いつもの彼のもの。明るい表情に、軽い口調。
 ハルは、迷っていた。
 ―――何がケイにとっての幸せなのか、分からない。
 雪が降り積もり、遭難する危険性のある森へ行くことをやめさせることが?
 妹を信じて、冬の森へ送り出してやることが?
 凍らされるかもしれない。妹の慕う、シュウという精霊との逢瀬を禁じることが?
 一体何が、ケイにとっての幸せなのか、分からない。自分には、決めることはできない。
 だから、問うた。今、こうして出かけていくことは幸せなのか。辛くはないか。その問いに、彼女は幸せだと答えた。それならば、自分が止める筋合いはない。幸せな彼女の気分を害していいはずがない。
 ハルは笑顔で妹を見送ることに決めたのだ。
「お兄ちゃん・・・」
 ケイには、彼の心境の変化は分からない。 だが、兄が自分のことを心配していることは分かっている。 唯一の家族なのだ。心配しないはずがない。それでも、兄は止めない。 笑顔で見送ってくれる。その胸中にどんな不安が巣くっているのかは分からない。 けれどこの兄は、自分の幸せを何よりも祈ってくれているのだということだけは、 はっきりと分かる。
 それだけで、愛しさが込み上げてきた。
 ―――この人が兄で、良かった。
「ケイ?」
 ケイは、徐にハルの首に手を回し、抱きついていた。それは、久しぶりの抱擁。
「どうしたんだ?」
 不思議そうに問うものの、しっかりと背中を支えてくれる手が心地良い。ケイは、瞳を閉じてそれを感じながら、囁くように言った。
「大好き。お兄ちゃん」
 すると、すぐさまハルが声を上げた。
「何だァ? 急に。気持ち悪い」
 その台詞が、照れ隠しであることを知っているケイだったが、そのことについては言及せず、
「もう!」
 怒ったふりをして、ぎゅっ!! と抱き締める。
「苦しい苦しい苦しい! 吐く!!」
 じたばたと暴れるハルに、ケイは笑った。
 昔は、よくこうしてじゃれあって遊んだものだった。 父親と母親がまだこの家にいたころは。
 父母がいなくなってから、兄は変わった。妹を守るために、彼は急いで大人になってしまった。 無邪気に振る舞っていても、ふとした拍子に垣間見える、いやに大人な横顔。妹と二人きりになってしまった。まだ何も分からない妹を、父母が居ないことで不幸にはさせたくなかった。妹のために、妹が幸せに過ごせるように、ハルは自分の我が儘を押し込め、大人になった。
 ―――全ては、私のため。
 そんな兄を、ケイは愛していた。
 首を絞める手を緩めたケイは、兄を抱き締めたまま、囁くように言った。
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
「私、幸せよ。お兄ちゃんが私のお兄ちゃんで」
「それは光栄だな」
 抱き返す腕は、とても優しい。幼い頃からずっと、自分を守ってきてくれた腕だ。昔はあんなに小さくて、手を引くだけで精一杯だった。二人きりになってしまった不安の所為か、その手は僅かに震えていた。もしかしたら、涙を堪えていた所為だったのかもしれない。その手が今は、きっと自分の為に、大きく強くなった。
 そして、その手が、笑顔で送り出してくれる。
「行ってこい」
「・・行って来ます!」
 玄関を出、森に向かうケイの顔には、笑みが溢れている。
 こんなに素敵な兄が、他にいるだろうか。本当に、幸せだと思う。ハルが自分の兄で。
「話さなくちゃ」
 シュウに兄のことを、自信を持って紹介しようと思った。こんなに妹のことを思っていてくれる優しい兄。彼ならば、シュウもきっと好きになってくれるだろう。できることなら、3人で仲良くお話ができればいいと思う。
 そんな日のことを思い浮かべているのだろう。Shamrock squareに向かうケイの足取りは、とても軽やかだった。







BACK * TOP * NEXT