「ただいまー」
 家の玄関をくぐったのは、ハルだった。その後ろに続くのは、肩に積もった雪を振り払うモリ。ハルの声に応える人がいないことに気付いたモリが「おや?」と瞳を瞬く。
「ケイ、出てるのか?」
「ああ」
 居間に入ると、やはりそこにハルの妹の姿はなかった。
 薄暗くなり始めた部屋を、絶やされることなく灯ったままの暖炉の火がぼうっと照らしている。
「あー。寒ッ」
 コートを脱ぎ、暖炉の前のイスにかけたハルは、そのまま暖炉の前に座りこみ、凍えた手を温め始める。
 それに習い、モリも暖炉の前に歩みを進める。コートを脱ぎ、イスにかけたところでモリは気付いた。
「・・何だ、これは?」
 暖炉の上に、最近まで、この家になかった物が目に入った。花の飾り物。赤い花、青い花、白い花、黄色・・色とりどりの花が、透明な硝子に包まれていた。毎日と言っていいほどこの家に足を運んでいるモリには、それが最近までこの家にはなかったことを知っていた。
「これは?」
 自分の問いが聞こえなかったのだろうか。暖炉の火を見つめたまま答えようとしないハルに、モリは再度問う。
 するとハルは視線をモリに向けることなく、答えた。
「・・・買ってきたらしいぞ。キレイだろ」
 暖炉の火を見つめているその瞳が泳いでいることにモリはすぐ気付いた。そして彼の言葉に、嘘が含まれていることにも。この幼馴染みは嘘をつくことが苦手だということを、彼は知っていた。
 だが、ハルは、自分に嘘をつこうとしているらしい。その理由を、すぐさまモリは察した。
「ハル。ケイはもしかして、森に行ってるんじゃないだろうな?」
 その言葉に、ハルの瞳がいっそう揺らいだのをモリは見逃さなかった。どうやら、ケイは森に通っているらしい。そして、その森からこの花を持って帰っているのだ。
 雪に呪われた家。
 そんな呼び名を持つ妹や自分が、冬の森に通うことにモリはいい顔をしない。そのことを、ハルは知っていた。だから、妹を庇うために嘘をついたのだ。
 だが、彼を騙すことは無理だったらしい。これみよがしな溜息が頭上から降ってきたことで、ハルはそのことを察する。だから、嘘を重ねることはしなかった。
「・・・・ケイももう子供じゃないんだ。あまり、干渉すべきじゃない」
 それは自分の正直な意見であると共に、妹に構い過ぎているモリへの忠告でもあった。
「でもな――」
 もう一つ溜息を零し、モリが口を開いた時だった。彼の言葉を途中で遮ったのは、ガチャ、と重い扉が開く音だった。
 ケイが、帰ってきたらしい。
 こんな時に、とハルが顔をしかめる。だが、当然、居間での会話をケイが知っているはずもない。
「ただいまー」
 開かれた扉から、満面の笑みを浮かべたケイが入ってきた。が、すぐにその笑みが消える。
「・・あ、モリさん、来てたの?」
 暖炉の前に立っているモリの姿に、ケイは戸惑いを顔に浮かべる。そして、手にしていた凍り付けの花を慌てて背中に隠した。
 兄は、何も言わない。けれど、この幼馴染みは、とても心配性だ。冬の森に自分が通っていることを知れば、「やめろ」と口を酸っぱくして言うのだろう。
 自分が何処に行っていたのか問われる前にケイはその答えを考える。だが、モリから与えられたのは、思いがけない問いだった。
「森で、これを貰ってきたのか?」
「―――・・」
 暖炉の上に飾っていた花を、モリは手にとっていた。「しまった」と思ったが、もう遅かった。自分の部屋にでも飾っておけば良かったと激しく後悔する。兄に視線を遣ると、申し訳なさそうな顔をしていた。おそらく嘘がつけない兄のことだ。その花が、ただお店で買ってきたものではないことをモリに知られてしまったに違いない。
 ケイは、黙る。
 何と答えるべきだろうか。それを考えていると、モリから次の質問が来た。
「毎日毎日、森に何をしに行ってるんだ?」
 その問いの中には、自分を責める響きがある。だがケイがそれに対して素直に謝ることはしなかった。
「だから――」
 花を見に行ってるの。その台詞は、途中で切られた。
「花はもう枯れてるだろ」
「―――」
 モリのその言葉と、自分に注がれる鋭い視線に、ケイは観念して口を閉ざした。
 彼にはもう嘘はつけない。つけたとしても、彼には通じない。
「・・モリ」
 妹と幼馴染みのやりとりを心配そうに見つめていたハルだったが、おずおずと口を開く。だが、それもすぐ彼に一蹴される。
「お前は黙ってろ」
 ケイから視線を外すこともせず、語気強くモリに言われる。
 ケイを心配するモリの気持ちも分かる。冬の森が危険だということは、知っている。それをやめさせたい。けれど、その忠告も聞かず、毎日のように冬の森に行くケイを叱りたい気持ちも。愛しい少女が心配で心配で仕方がない彼の気持ちも。
 だが、ケイの気持ちも分かるのだ。ハルは知っている。毎日、笑顔で出かけていく妹の姿を。だから、弁護してやりたくなる。
「でも、モリ――」
 ハルの台詞を遮ったのは、それを向けられたモリではなく、ケイだった。
「モリさんには関係ないわ」
 ずっと黙っていたケイの、モリを突き放すようなその台詞に、ハルは驚く。
「ケイ!」
 咎めるように名を呼んだが、ケイはじっとモリを見つめていた。睨んでいる。そう言った方が正しいかもしれない。
「――・・」
 その視線を、モリは黙ったまま受け止めていた。「モリさんには関係ないわ」そう言われた瞬間によぎった辛そうな表情も今は消えている。
 そして、しばしの沈黙を破ったのは、モリの低い声だった。
「――精霊、だな?」
 否の言葉を許さない。そんな強い問い。
 それに対するケイの答えも、強い。
「そうよ」
 だから何? そんな台詞が省略されたような答え。挑むような視線をモリに向けたまま、はっきりと迷いなくケイは答えた。
 その様子に、モリが呆れたように溜息を零した。そして、短く言った。
「やめろ」
「どうしてよ」
 モリの命令に、ケイはますます反発する。
 どうしてモリにそんなことを言われなくてはならないのか、ケイには分からない。モリが自分のことを心配してくれているのは分かる。だが、それでもこんな命令は聞きたくない。
「どうしてそんなこと言うのよ」
 すると返ってきた答えは、
「凍らされたいのか?」
 だった。
 その言葉に、ケイはついに声を荒げていた。
「――彼は私を凍らせたりなんてしない!」
 白い精霊が人間を凍らせてしまうことは知っている。祖母が凍らされた姿を見てもいる。だが、自分がそうなるとは思っていない。シュウがそんなことをするなんて、思っていない。
 しかしモリには、その台詞の激しさよりも、会っている精霊が男だという事実、そして、おそらく彼女がその男に恋をしているから、ここまで言うのだということに表情を険しくしていた。
 それに気付いたのはハルだけだった。
「モリ! ケイ!」
 二人を宥めるように名を呼び、二人の間に立つが、ケイとモリは止まらなかった。
「凍らされないとどうして分かるんだ!」
「凍らされるって、モリさんだってどうして分かるのよ!! 決めつけないで!!」
「―――・・」
「・・・・・」
 唐突に落ちた沈黙は、冷たく重い。
 そんな中で、いったいどちらに何を言えばいいのか分からず、ハルが一人立ち尽くしていた。
 沈黙を破ったのは、ケイの足音。
 モリに踵を返し居間を出ようとしたケイを引き止めたのはモリの腕と、鋭い声。
「待て、ケイ!!」
 掴まれた腕を、ケイは躊躇うことなく振り払って言った。
「構わないでってば! モリさんには関係ないの!!」
「―――」
 ついに口を閉ざしたモリとハルを残し、ケイは居間を出て行った。バタバタと廊下を駆ける音の後、彼女の部屋のドアが大きな音を立てて閉ざされたのが分かった。
 パチパチパチ・・ッ。
 炎が、はじける。
 気付くと、部屋の中は一気に暗くなっていた。雰囲気と同様に。それを嫌ってか、 ハルは何も言わずに電気をつける。明るくなった部屋に安堵の溜息を零すと、ハルは黙ったまま立ち尽くしているモリの肩に触れ小さな声で詫びた。
「・・ごめんな、モリ」
 そのままイスを勧めると、モリはおとなしくそれに従い、腰を落ち着けた後、ようやく口を開いた。
「・・いいさ。確かに、俺は関係ないな」
 自嘲気味なその台詞に、ハルは「そんなことないさ」と相槌を打ち、冗談ぽく笑っていった。
「反抗期なんだよ、ケイは」
「はは。年頃の娘を持った父親の気分だな、これは」
「・・・そうだな」
 小さく笑ったモリに、ハルは頷いて見せた。
 だが、今彼が傷ついているその理由が、それだけではないことを、ハルは知っている。父親としても兄貴としても、ましてや幼馴染みとしても彼はケイを見ていないこと。彼は、ケイのことを愛している。それは幼馴染みへの好きを少しだけ超えただけのものだったかもしれないけれど。モリは、ケイのことが好きなのだ。だから、叱る。危険な冬の森へ行くなと、ケイを凍らせてしまうかもしれない精霊とは会うなと、きつく叱るのだ。
「――・・いいのか?」
 唐突なその問いは、モリからハルに向けてのものだった。
「・・何が?」
「森に行かせて」
 ハルは、黙った。
 ケイが冬の森に通っていることを知っていたハル。それを好きなようにさせている彼に、モリは問うた。
 自分よりもよほどハルの方が心配性なのを、モリは知っていたから。妹が冬の森に行くたびに、大きな不安を抱えてケイを見送っていること、妹までも失ってしまうのではないかと、常に自分よりもハルの方が怯えていること。
 僅かの逡巡の後、ハルは小さな声で答えた。
「・・・行かないで欲しいけど・・・オレは止められない」
 行かないで欲しい。
 森に行って、そのまま帰ってこないんじゃないか? そんな不安がないとは言わない。遠い昔、父と母が家を出て、そのまま帰ってこなかった時の衝撃は、今も薄れていない。その時の恐怖、そして幼かった心に植え付けられた喪失感は、いつだってハルを苛んでいる。妹を束縛してしまえるほどに、その傷は深い。けれど、彼はそれをしない。
「何でだ?」
「・・何がケイにとっていいことなのか、何がケイにとっての幸せなのか、オレには分からない」
 出かけていくケイの幸せそうな顔。それを見る度、「行かないでくれ」その言葉は、唇を越える前に萎える。その代わり、「気を付けて帰って来いよ」そんな言葉を送る。それに帰ってくるのは、やはり幸せそうな笑み。だから、ハルは言えない。
 言いたくても、どうしても、言えなかった。




 ―――危ないからやめろと、たとえあの幸せそうな笑みを曇らせることになっても、それでも冬の森へ行くのはやめろと、叱りつければ良かったのだろうか?




 そうやって、自分に問う日が来ることを、ハルは知らなかった―――・・・






BACK * TOP * NEXT