正午過ぎ。
 誰にも見られないようにlily−white hamlet出たケイは、今日もまたshamrock squareへと向かっていた。その手には、バスケットがあった。中身は、彼女が自分で作った昼食。shamrock squareで昼食をとることがケイの日課になっていた。
 そして、自分の前で昼食を食べているケイを見つめるのが、シュウの日課だ。
 そんな彼の表情はとても優しい。彼に微笑み返すケイの表情も、穏やか。
 昼から夕方までの短い短い逢瀬。だが、この短い時間が二人とっては幸せな時間だった。その所為か、流れていく時間の早さは驚くほどに早い。
 ふと、シュウが空を見上げた。
「・・今日は雪が降るよ。大雪だ」
 ケイがシュウのその言葉を疑うことはなかった。彼は、雪と話ができるらしい。そんな彼が言うのだから、本当に今日は大雪になるのだろう。
「そっか。じゃあ、早めに帰らなくちゃ」
「・・・そうだね」
 僅かに表情を曇らせたケイよりも、あからさまにシュウは悲しそうな顔をした。それを見てケイは、笑って見せる。
「でも、また明日、会えるわ。ね?」
「そうだね」
 ケイの笑顔だけで、シュウの表情は明るさを取り戻す。それが、ケイにとっては嬉しい。初めて会ったときは、ほとんど目を合わせてくれなかったシュウが、今では自分の側で笑ってくれる。自分と別れることに、悲しいと表情を曇らせてくれるのだ。
「ごちそうさま、っと♪」
 昼食を終えたケイは、バスケットの口を閉じると、自分とシュウとの間にある赤い花に視線を遣る。そして、小さく溜息をついた。
「・・・大雪なら、もう埋まってしまうわね」
 小さな声で呟いたケイの悲しそうな横顔。それをしばしの間見つめていたシュウだったが、何を思ったのか突然花を摘み取った。ケイが何をするのかと問う間もなく、シュウは摘み取った花に、ふっと息を吹きかけた。すると、
「え?」
 花が、凍った。
 シュウの口からきらきらと白銀に輝く光が溢れたかと思うと、花を覆い、すぐさまその光は氷に変わった。普通の氷とは違う。泡を一つも含むことなく透き通っている。花の美しい紅を決して霞ませることなく包んだ、硝子のような氷。
 ―――凍り付けの花。
 それは、ケイのある記憶を蘇らせた。


 暖かな暖炉の火。


 揺り椅子に腰掛けた祖父。


 その膝の上で祖父を見上げるのは自分。


 祖父の足下には、ふわふわの絨毯に寝転がって祖父の話を聞いている兄。


 そして、祖父が聞かせてくれた話は――


「こうすれば、ずっと見ることができるよ」
 ケイの思考を遮ったのは、シュウだった。我に返ったケイが彼に視線を遣ると、目の前に凍り付けの花が差し出されていた。その向こうには、優しい顔をしたシュウが居る。
「・・・」
 けれど、ケイはなかなかその花を受け取る気にはならなかった。
「どうしたの?」
 突然黙り込んでしまったケイに、シュウは首を傾げる。彼女のために花を凍らせたのだが、彼女はそれが気に入らなかったのだろうか。次第に不安になってきたシュウが、再度問いかけようとしたその時だった。ケイが口を開く。
「・・思い出したの」
「え?」
「私が小さい頃、おじいちゃんがよく聞かせてくれた話・・『FLOWER and RABBIT』」
 まだシュウには、彼女の感情が分からない。
 懐かしい思い出を語る彼女の顔に、懐かしさはない。視線は既に自分から外され、雪の上に下ろした凍り付けの花にじっと注がれている。紡がれる言葉は、淡々としていた。
「お花とうさぎが恋人同士になるの」
「・・うん」
「でも、冬が来て、お花は枯れそうになって・・」
「うん」
「だから、お花は満月の夜、お月様にお願いするの」
「・・なんて?」
「『私を石に変えてください』って」
 ケイの言葉は、ふとした拍子に途切れてしまう。何を考えているのだろうか。すぐさま思考の波にたゆたってしまうケイに、シュウは相槌をすることで、彼女の言葉を促す。
「どうなったの?」
「お花の願い事は叶って、石になったわ。それを見たうさぎは言ったの。『良かった。ボクたち、幸せになれたね。そう言って、ウサギさんは幸せそうに笑いました。』・・・ってお話」
 今まで淡々と話していたケイだったが、そこで口を閉ざすと、唐突に笑みを浮かべた。それは、とても幸せそうな笑み。
 ――――ウサギさんは幸せそうに笑いました。
 その笑みは、どんな笑みだったのだろうか。ケイは、うさぎになりきって笑ってみた。幸せなことを思い浮かべて、笑ってみた。
 正解は、分からない。
 あれは、ただのお話で、そもそも、うさぎは笑わない。だから、分からない。
 シュウに視線を遣ると、
「――――」
 彼は、笑っていた。
 それは、まさしく幸せそうな笑みで――
 ――――ウサギさんは幸せそうに笑いました。
 その微笑みは、うさぎが浮かべたのと、同じ笑みだったのかもしれない。
 ケイは、ふとそんなことを思った。
「良かったね」
 茫然とケイが見つめていると、シュウが口を開いた。
「・・え?」
 聞き取れなかったわけではない。意味を計りかねて、ケイは訊ね返す。
「うさぎとお花、幸せになれて良かったね」
 その言葉に、ケイはすぐには頷けなかった。
 ―――幸せ?
 分からない。それでも、逡巡は僅かなものだった。目の前のシュウが、あまりにも幸せそうに笑うから、
「・・・うん、そうね」
 ぎこちない笑みになっていたかもしれない。それでもケイは笑って頷き返していた。
「素敵なお話だ」
「・・・そう。そうね」
 何だろう。胸の中が、ざわざわする。
 ケイは、それきり口を閉ざしてしまうしかなかった。ざわざわが、溢れてしまう。溢れて、きっとシュウに飛びついて行ってしまう。
 だって、分からない。
 ―――どうしてそんな風に笑えるの?
 ケイには分からない。
 何も分からない子供の頃は、ケイも、そして兄のハルも、このお話にほっとしたものだった。


『良かった』


『うさぎさん良かったね』

『お花さん、良かったね』

 そう言って、笑ったものだった。
「・・・・あ」
 その呟きは、小さな小さなもので、シュウは気付かなかった。
 ―――あ。思い出した。
 思い出した。
 良かった、と笑った孫達に向けられた、祖父の切ない顔。皺だらけの顔が、もっと皺を刻む。言おうか言うまいか、迷った末、閉ざされてしまった口。
 祖父の気持ちが、今なら分かる。
「どうかしたのかい?」
 黙り込んでしまったケイに、シュウは慌てる。
 シュウの上擦った声に、彼に視線を戻すと、不安げに眉を寄せたシュウの顔があった。
 ―――彼のことは、分からない。彼には、私のことも分からない。
 ―――今はまだ、分からない。
 出逢って未だ十日も経っていない。仕方のないことだ。
 ゆっくり、知っていけばいい。


 ―――知りたい。シュウのことが・・・。


「ううん。なんでもない」
 ケイは、微笑んで言った。
 それはいつもの彼女の微笑みで、シュウはほっとする。そして、もっと笑ってもらおうと、シュウは一度は地面に置いた凍り付けの花を、再度手に取った。
「はい」
「え?」
 目の前に差し出される凍り付けの花。そしてシュウは言った。
「プレゼント」
「・・ありがとう」
 今度は、ケイは黙らなかった。まだ、花を受け取ろうとはしなかったけれど。
「これで、枯れて悲しむこともないだろう?」
 言って、微笑むシュウ。優しい微笑み。
 それに返されるケイの微笑みは、また少し、ぎこちないものだった。
「・・・ええ。ありがとう、シュウ」
 じっと凍り付けの花だけを見ていたケイは気付かなかった。シュウが自分に花を渡す瞬間、ケイの手にシュウの手が触れるその直前、彼の手が自分から大きく逃げたことに。






 森に、夕闇が近づいている。
 ケイと別れたシュウは、森の奥へ奥へと宙を駆けていた。
 やがてシュウは、彼の背丈ほどの土の壁にぶつかる。その土の壁ができたのは、本当に本当に昔のことだと聞いている。過去に地震の所為で大きくせり上がってしまい、壁のようになってしまっていた。
 そこから先を、精霊の森と呼んでいるのだと、ケイは言っていた。そこから先には精霊たちが棲んでいると信じられており、人間達は決してそこから先へは行かないのだと。
 現実はそうではない。
 シュウたち白い精霊は、確かに人間の村の近くを避け、壁の向こうに棲んではいるが、そうではない精霊もいる。シュウもその内の一人だった。
 壁添いに行くと、ぽっかりと小さな穴が彼を迎えた。入り口こそ、人一人通るのが精一杯の大きさではあったが、その中はとても広くなっていることを、そこを住処とするシュウは知っていた。
 シュウが我が家へ入ろうとした、その時だった。
「シュウ!」
 唐突に、シュウの名を呼ぶ声が、彼を止めた。高いソプラノ。よく聞き慣れた声。振り返ると、やはりよく見知った仲間がそこにはいた。
「ティナか」
 ティナと呼ばれたのは、白いワンピース一枚を纏った少女だった。年の頃は10程に見える。真っ白い肌に、ハニーブロンドの髪。寂しがり屋で、シュウのところによく遊びに来る仲間だった。
 いつもは明るい表情のティナが、今は冴えない顔で自分を見つめていることにシュウは気付く。
「どうしたんだい? ティナ」
 まるで妹に接するように優しく、シュウは訊ねる。
「シュウ、最近どこに行ってるの?」
 どうやら、遊びに来てもシュウがいないので、心配してくれていたらしい。
 そんなティナに、シュウは薄く笑いかける。ケイと会うようになってから表情が柔らかくなってきたシュウだったが、いつも仏頂面で接していたティナに、突然屈託なく笑いかけることはまだできないようだった。
「・・・女の子と会ってるんだ。人間の」
 僅かの逡巡の後、シュウは正直に言った。
 すると、予想通りの反応がティナから返ってきた。
「え!!?」
 ティナは大きな目を、更に大きくして声を上げた。
 彼女はまだ人間に会ったことがない。そして、シュウがかつてはそうであったように、人間を恐れていた。できることならば会いたくないと思っていたように、ティナも人間に対して良い感情を抱いてはいなかった。
 声を上げたきり、ティナはぱくぱくと口を開けたり閉めたりしている。余程、驚いたらしい。
 仲間ともあまり交流を持たず、人間なんてもってのほかだと思っていたシュウが、人間の女の子に会うため、足繁く人間が住む村の近くにまで通っていることが信じられなかったのだ。
「大丈夫だよ。とても優しくて綺麗な子なんだ」
 一人であわあわ慌てているティナも、シュウのその言葉にようやく落ち着きを取り戻したようだった。そして、シュウが浮かべている穏やかな笑みに、今度は驚く。
 ―――彼は、こんなに穏やかな顔ができる人だったろうか。
 じっと自分を見つめているティナに、シュウは彼女が驚いている理由に気付き、頬を僅かに染めた。
 そんな彼に、ティナはおずおずと訊ねた。
「・・・怖くないの?」
 すると、答えはすぐに返された。
「怖くないよ」
 その表情は、また穏やかなものに変わる。それをティナは見つめていた。そして、再び問う。
「――・・好きなの?」
「・・・・」
 今度の問いには、なかなか答えが返されることはなかった。だから、もう一度問う。
「好きになっちゃったの? その子のこと」
 その問いを境に、沈黙が降りた。
 ―――静寂。
 その中に、ふわりふわりと大粒の雪が舞い降りてくる。風に吹かれることなく、空から真っ直ぐ白い地面へと向かう雪。その雪を、シュウは黙ったまま掌で受け止めた。温もりを持たない彼の手の上で、雪は溶けることなく掌の上を転がった。それをふわりと落とすと、シュウは小さな声で、ようやく答えを告げた。
「・・・ああ。好きだよ。ケイが」
 はっきりと言い切ったシュウに、ティナは悲しげに眉をひそめた。
「・・苦しいよ? 人間との恋は苦しいって。辛いって、言ってるよ?」
 誰がそんなことを言っていたのか。シュウは訊かない。覚えている。泣きながらティナが話してくれた、人間に恋し、そして報われなかった悲しい恋に、ついには自分自身を失ってしまった悲しい仲間の姿を。その姿は、見ている方が痛々しいものだったと、ティナは言っていた。
「でも、幸せになったヤツだっているよ」
 ティナも、誰のことかは訊かない。
「・・・凍らせた人?」
 短い問い。
 人間と恋をした仲間を、何人も知っている。その恋の結末も、知っている。三つの結末。その結末を、ティナは悲しい終わりだと思った。どの道を辿っても、悲しいことだと。
 だが、シュウはその結末の一つを、幸せだと言う。
「そうだよ。愛する人がずっと側にいてくれるんだよ? こんなに幸せなことはないじゃないか」
 言ってシュウが浮かべたのは、やはり穏やかな笑み。
 本当に、彼はケイという人間の少女のことが好きなのだ。思い出すだけで微笑みが零れてしまうくらいに。
 大切な仲間のシュウが幸せそうに微笑んでいるその姿は、嬉しい。けれど、ティナは素直にそれを喜ぶことはできない。水を差すわけではないが、問わずにはいられない。
「―――・・ホントに、幸せなのかな?」
 その言葉に、シュウは驚く。
 彼女が何故そんなことを言うのかが、シュウには分からない。悲しい悲しい運命を辿った精霊を見たことがない彼には、ティナの気持ちは分からない。
「どうしてそんなことを訊くんだい? 幸せに決まってるよ」
 シュウは、言い切った。そして、未だ悲しそうに眉をひそめているティナに、驚くほど穏やかな笑みを見せた。



 雪。雪。雪。
 雪が舞う。
 いつしか森は、雪の白で染められていた。
 雪の白は全てを覆い隠す。
 悲しい精霊の物語も、人間に恋した精霊の思いも、人間を恐れる精霊の愁いも。何もかも、その白の中に――・・。












BACK * TOP * NEXT