空気は肌を刺すように冷たい。けれど、雪は舞っていない。
 もう少しで正午を迎える空には、薄い薄い雲。雪を抱えている雲ではないようだ。
 そんな空の下、そして常緑樹の緑の下で、佇む白い人が居た。降り積もった雪の上にフワリと足を下ろしている。その体には重さがないのだろうか。まったく雪の中に沈む様子はない。雪に溶け込むように白い肌が、裸足の足と雪との境界線をなくしている。
 人間達から白い精霊と呼ばれている、青年の姿をした彼の名は、シュウ。
 春になるとシロツメクサに覆われるshamrock squareに佇み、その広場の端にひっそりと咲いている赤い花を見下ろしている。
 その花の名を、彼は知らない。
 その花をとても愛し慈しんでいる美しい少女も、その花の名は知らないと言っていた。
 自分の灰色の髪とは違い、濡れ羽色をした髪。肩の辺りでサラサラと鳴るその髪からは、フワリと良い香りが漂ってくる。その香りは、この赤い花の凛とすがすがしい香りとは違う。甘い香りだった。
 シュウがその香りを思い出しているときだった。
「シュウ」
 しんと静まりかえった広場に、突然明るい声が響く。それは周りの静寂も手伝って、大きく響いた。
「!」
 シュウは驚いて飛び上がる。文字通り、その体を上空へと浮かせていた。誰にも触れられることはないだろう、常緑樹の緑を横目にできる場所で動きを止めたシュウは、ようやく声のした方に視線をやる。そこには、おそらく自分を驚かせてしまったことを申し訳なく思っているのだろう、眉を下げたケイの姿があった。今の今まで、自分が思い出していた美しい少女の姿がそこにはあった。
 驚きへの動揺はすぐさまその姿を変えた。温かな気持ち。 彼女に会えたことへの喜び。寒い冬、冷たい色の空の下、 体温を持たず生きる自分の中に生まれた、唯一温もりを持った感情。 シュウにはそれが嬉しくもあり、同時に驚いてもいた。
 こんなにも温かなものに、触れることができるなんて。
「ごめんなさい。驚かせちゃって」
「大丈夫だよ」
 手袋をはめた両手を顔の前で合わせ謝ってくるケイに、 シュウは緩く首を振ってみせる。自然と、表情も柔らかくなる。 それでも、冬の森を一人で生き、時折出会うのは同じく無表情な仲間だ けだったシュウに、笑顔を浮かべるということは難しいことだった。
 しかし、そんな些細な表情の変化でも、ケイはシュウが自分に対して怒っていないことを悟ったようだ。 申し訳なさそうな表情を解き、「こんにちは」と笑顔を浮かべて言った。
 その微笑みに誘われるかのように、シュウはゆっくりと宙に浮かせていた体を再び雪の上に戻す。
 ケイはと言うと、「よいしょ、よいしょ」と、木がない所為で雪が深く降り積もった広場を、苦労しながらもシュウの方へと向かっていく。
 苦労している彼女の様子に、シュウは決める。
 これからは雪にお願いして、この広場への雪は、少し遠慮してもらおう、と。
 赤い花の上に降る雪は、シュウの願いから避けられていた。人間とは違い、雪が降り積もったとしても何ら苦労をしないシュウは、彼女の苦労に今まで気付かなかった。そのことを少し申し訳なく思う。だが、彼女を手伝うことは、しなかった。できなかったから。だからせめて、雪にお願いをしておこう。
「まだ元気みたいね」
「そうだね」
 時間をかけてシュウの側までやって来たケイは、彼の足下にある赤い花が、未だ元気に花弁を広げている姿を見て笑みを零す。
「・・綺麗ね・・」
 雪に映える紅が。
 寒さに負けまいと必死で花弁を開くその姿が。
「・・・そうだね」
 その独り言にも似たケイの言葉に応えるシュウの瞳は、彼女の横顔を見つめていた。
 綺麗。
 優しく花を見つめる瞳が。
 雪すらも溶かしてしまいそうなその笑顔が。
「・・綺麗だ」
 シュウの視線に、その言葉の本当の意味にケイは気付かなかった。「ね♪」と答えた後、彼女は躊躇うことなく雪の上に腰を下ろした。そんな彼女に合わせて、シュウもフワリと雪の上に座った。そして、花を見つめつつ口を開いたケイの横顔を見つめ続ける。
「私ね、毎年この花を見に来てたの。もう3年くらいになるかなー」
「そう」
「でも、シュウに会ったのは初めてね」
 そこでようやくケイは視線をシュウに戻した。その瞳に、顔に浮かんでいるのは明るい笑み。その微笑みが自分だけに向けられていることに喜びを感じている。そのことにシュウは気付いていた。自分の中に生まれた温かな感情が、その温度を増す瞬間だ。同時に、頬に朱が帯びるのもいつものこと。それに気付かれまいと、シュウは視線を花へと遣った。
「そ、そうだね。僕は、この広場よりももっと奥に住んでるから」
「森の奥?」
「そうだよ。小さな洞窟の中に僕は住んでるんだ。いつもはあまりそこから出ないんだけど、あの日・・何となく歩いてみようと思ったんだ」
 それは本当に偶然だった。
 何があったわけでもない。ほんの気まぐれ。ほんの気まぐれで外に出てみようと思ったのだ。少し、遠出をしてみようと思ったのだ。春・夏・秋の間中、ずっと洞窟の中で眠っていたからかもしれない。ようやく雪が降り始め、自分たちが外に出ることができるような季節が訪れ、久しぶりに、仲間と話でもしてみようかと、洞窟を出たのだ。
「そしたら君の足音が聞こえてきて・・・」
 少し、人間の住む村まで近づきすぎたかと、森の奥へ戻ろうとしていた時だった。雪を踏みしめ自分の方に向かって歩いてくる足音が聞こえた。薄く積もった雪の上を軽やかに歩く足音。
「それで、来てくれたの?」
 頬の熱が引いてきた。シュウは視線をケイに戻して頷いてみせる。
「そう。どんな子だろうと思って」
「どんな子だった?」
 ケイは自分を指差し、小さく首を傾げる。シュウを見上げるその瞳は、きらきらと輝いている。シュウの答えを楽しみに待っている瞳だ。
 シュウはしばしの沈黙の後、言った。
「・・・綺麗な子だった」
 それは、シュウの素直な答え。
 綺麗だと思ったのだ。
 雪の白とは対照的な黒髪も、僅かに染まった頬の赤、唇の薄紅色、寒さを溶かすほどの温かな微笑み。
 どこをとっても、彼女は綺麗だった。
 シュウの答えに、ケイは少し驚いたようだった。僅かに目を瞠った後、ケイは小さく笑った。
「ふふ。ありがとう」
「///////」
 その笑みは、更にシュウの中の温度を上げる。そのことに、ケイは気付かない。シュウも伝えない。今はまだ、伝えない。
「あ。お菓子、食べない?」
 頬を染めたシュウに気付かぬまま、ケイは持っていたバスケットをシュウに差し出して見せた。
 差し出されたバスケットを、シュウは怪訝そうに見つめる。
「・・・お菓子?」
 首を傾げたシュウに、ケイはある可能性に辿り着く。
「もしかして、シュウって何も食べないの?」
 そう問うと、返ってきた答えはシュウの不思議そうな顔と、意外なセリフ。
「食べるって、動物たちが草や他の動物を食べるように?」
「・・え?」
「え??」
 二人の間を疑問符が踊り乱れる。
 シュウたち白い精霊は、人間とは違い、食べ物を口にすることはないようだ。
 精霊と人間。姿形は全くと言って良いほど同じなのに、人間にとって・・・否、 生物にとっては生きる上で当然である食べるという行為を、彼らは知らないという。シュウという精霊に会うことに慣れてきていたケイは、彼が自分とは全く違う存在なのだと言うことを再認識する。
 しばしの沈黙の後、ケイが小さな声で呟いた。
「カルチャーショックだわ。まさに」
「え?」
「ううん。なんでもない」
 未だひっきりなしに首を傾げているシュウに「もういいから」と笑いかける。差し出したままだったバスケットを膝の上に置いたケイは、シュウをまじまじと見つめながら言った。
「そっか。シュウは何も食べないのね」
「ああ。ケイは、食べるんだね」
 互いが互いを感心したように見つめている。それが少し可笑しくて、ケイは小さく笑いを洩らした。
「ふふ。あのね、私たち人間は、食べないと死んでしまうの。こうやって」
 言ってケイはバスケットの蓋を開け、中から自分が焼いたタルトを取りだし、不思議そうに見守っているシュウの前で、 それにぱくりとかぶりついて見せた。その途端、シュウは目と口をあんぐり開けてしまった。 よほど驚いたらしい。
 彼には、食べるという行為は、動物たちがモサモサと草や木の皮を食べている姿か、 獣が同じ動物をガツガツと喰らっている、という印象しかなかったらしい。 前者はまだしも、後者の行為には嫌悪感を抱いてすらいた。 と同時に、食べるという行為は恐ろしいものだという印象しか彼は持っていなかったのだ。
 だが、目の前のケイは、ニコニコと笑みを浮かべながら物を口に含み、咀嚼している。その姿は、動物たちとは違う。
 驚いた顔をしたまま、それでもじーっと自分を見つめているシュウに、ケイは堪えきれずに笑い出していた。
 その笑い声にようやくシュウは我に返った。そして、自分があまりにも間抜けな顔でケイを見つめていたことに気付き、これでもかと顔を赤くした。耳まで赤くなっている。色の白いシュウだから、その変化は一目瞭然だ。
 真っ赤になっているシュウを見て、ケイは更に笑った。ひとしきり笑った後、ケイは「笑ってごめんね」と謝った後、溜息交じりに言った。
「見た目も言葉も同じなのに、不思議ね」
 バツの悪そうな顔をしていたシュウだったが、ケイに謝られてはそんな顔を持続していられるわけもがない。シュウは僅かに赤みを残した顔で、頷いて見せた。
「そうだね。不思議だ」
 彼の視線は、タルトの最後の一切れを口に放り込むケイに注がれている。不思議な光景だった。おそらく、彼女からしてみれば、何も口にしなくても生きていられる自分たちの方が不思議で仕方ないに違いない。
 見つめていると、ケイは口の中のタルトを飲み込み、バスケットの蓋を閉じた。
「もう食べないのかい?」
「え?」
 視線をシュウに遣ると、何故か残念そうな顔をしたシュウが自分を見ていた。
「だって、私だけ食べてるのも・・何て言うか、申し訳なくて」
 シュウは食べることができないのだから申し訳ないこともないのだが、何となく自分だけムシャムシャ食べているのは恥ずかしかったのだ。
 だが、シュウはそんなケイに言った。
「食べてていいよ。何だか、見てると凄いなって思うから」
「え?」
 怪訝そうに問い返されて、シュウは僅かに口ごもりながらも答えた。
「えっと・・・何て言えばいいのかな・・・。えっと・・・、あの。い、生きてるって・・ケイは、生きてるんだなって気がするんだよ」
 それは、返ってくるとは予想もしていなかった答えだった。
 ケイはきょとんと目を瞠り、僅かに首を傾げた。
「僕たちは何も食べないんだよ。僕たちには、死というものがないから」
「そうなの!?」
 今度は驚きに目を瞠るケイに、シュウは頷いてみせる。
「そう。だから、時々分からなくなるんだよ。僕たちは何のために生きているんだろう? 終わりのないこの命は・・この体は、何のために存在して居るんだろう? って」
 視線を傍らの赤い花に移しシュウは語る。
 冬の寒さに負けず、必死で生きている花。短い命を、懸命に燃やしているその姿は、とても綺麗だと思うのだ。
 それに比べて自分はどうだ。冬になるまでは洞窟の中でじっと眠り、雪が降り始めると同時に冬の森の中を歩き回る。何の目的もなく。時折、仲間と語り合い、雪とお喋りをする。あとは、何もない。何もしないまま、永遠とも思える時間をただ生きていく。何を成すこともなく、ただただ生きるだけ。それは、生きていると言えるのだろうか。そんな自分に、存在意義があるのだろうか。分からなくなる。
 けれど、ケイはどうだ。彼女は、生きている。生きるために、食べている。生きたいと思うから食べる。存在の意味があるから、生きていたいと思うのだろう。
 自分とは違う。生きていることを確かめられない自分とは違う。
「・・・生きるために食べるケイの姿は・・・とても強くて・・綺麗だと、僕は思ったんだ」
 それは、羨望でもあったかもしれない。
 食べることで命を繋いでいくことができる、目的があるから、繋いでいこうと思える、食べようと思える。そんな彼女が羨ましくもあり、そして何より、傍らの花のように、美しく見えた。
 口を閉ざしたシュウ。
 黙ったままシュウの言葉を聞いていたケイは、何も言わず一度は閉じたバスケットから再びタルトを取りだした。そして、頬張る。そして、シュウに微笑んで言った。
「初めて言われたわ。食べてる姿が綺麗だなんて」
「そう?」
「そうよ」
 もう一口、頬張る。飲み込む。また、頬張る。シュウはその様子をじっと見つめている。その表情は柔らかい。それをみてケイはいつもの明るい笑みを浮かべた。
「じゃあ、食べてるわ。私がばくばく食べてると、いつも太るぞって言われるのに、シュウは綺麗だって言ってくれるなんて、儲けものだもの。どんどん食べようっと♪」
「ああ。そうしてくれ」
 言って、シュウは笑った。
 シュウが、笑った。
 ケイは見逃さなかった。口の中に含んでいたタルトを吐き出すのではないかと思われるほどの勢いで彼女は声を上げていた。
「あ!!」
「な、何だい?」
 唐突に声を荒げたケイに、シュウがパチパチと目を瞬く。
 ケイはと言うと、彼の問いに答える前に、手を叩いて「やった」と笑みを浮かべた。
「笑った!」
「え?」
「シュウ、初めて笑ったわ!」
 言ってケイは、再び手を叩いて喜んでいる。シュウには、何が何だか分からない。首を傾げている。
「嬉しい」
 零れる笑みを止められないのか、ずっとニコニコニコニコ笑っているケイに、シュウは再度首を傾げる。
「・・僕が笑ったことが?」
 確かに、笑ったかもしれない。彼女のセリフが愛らしかったので、頬が緩んだことは分かった。だが、誰かと笑い合うと言うことを好まない自分が笑みを浮かべたのかどうかまでは分からなかった。だが、ケイ曰く、笑っていたらしい。そしてケイは、それをとても喜んでいる。
「嬉しいわ。だって、私に心を許し始めてくれてるってことでしょ? だから嬉しいの」
 無邪気にケイは言った。
 そのセリフを、シュウは黙って聞いていた。今も、黙って彼女のセリフを反芻している。
 ケイが、自分の笑顔を、こんなにも喜んでくれるなんて思いもしなかった。
 自分がケイの笑顔を見て、温かな気持ちになるように、彼女も自分の笑顔を喜んでくれているということだろうか。
 いつもは向けられてばかりだった笑顔。それを自分はただ受け止めているだけだったが、彼女にとっては、笑顔を向けられるということに、そんな思いを抱いていたのだ。ということは、彼女が自分に笑顔を向けてくれるのは?
「・・・ケイはよく笑うけど、それって・・・」
 最後まで紡がれることはなかったけれど、ケイはシュウの問いを理解したようだった。
「もちろん、許してるわ。だって、心を許さないと、仲良くなれないでしょ?」
 そしてまたシュウに向けられる笑み。
 ―――また、温度が上がる。
 溶けてしまうかもしれない。彼女が微笑むたびに上がっていく、温かな感情の温度に。
 だがそれはきっと幸せな感覚に違いない。
 そして更に紡がれたケイの言葉は、シュウの中にある感情を、より一層温める。
「私ね、シュウと仲良くなりたいの。シュウのこと、もっと知りたいの」
「―――」
 それはまるで、愛の告白のようなセリフ。
 けれど、ケイにはそんなつもりは全くないらしい。頬を赤らめもせず、シュウに笑顔を向けている。
 シュウはと言うと、彼女のセリフに、そんな気持ちがないことは分かっている。それでも、嬉しいのは事実。僅かに染めた頬で、照れくさそうにしながらも、笑い返した。自らの意志で笑うのは、未だ慣れなかったが、それでも、彼女のために笑ってみせる。その笑みはぎこちないものになっていたかもしれないけれど、彼女なら、きっと分かってくれるだろう。
「・・・僕もだよ。僕も、君のことをもっと知りたい」
 それは、告白。
 けれど、やはりケイには伝わらない。
「嬉しい」
 言葉通り、嬉しそうに笑ったケイに、シュウは自然と笑みが零れるのを感じていた。
 ケイのセリフに便乗しての告白だったのだが、彼女には伝わらなかったらしい。けれど、落胆はしていない。また、いつか彼女に伝わればいい。この未だ淡い色をした、けれど次第に温度を上げていく、この感情のことを。












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