鬱々とした気分を引きずったまま、診療所を出たシャオはEDENの扉を押し開いた。 彼の気持ちとは裏腹に、カランカランと軽やかな鐘の音が店内に響き渡り、続いてシャオを出迎えたのは、甲高いリコの声だった。 「あ。シャオ! もう、何処行ってたのー!!?」 どうやら一人でフロアを任されたことに怒っているらしいリコ。 ぷくっと膨らまされた頬と、つんと尖らされたピンク色の唇が可愛らしい。怒られているにも関わらず、一瞬、頬が弛みかけた。 だが、それもすぐに消える。今笑ってはリコがブチギレるだろうという配慮からではない。 もしもウォンがレヴィに、リコが抱えている想いを告げたら ? リコは、一体どんな顔をするのだろう。 それを思うと、弛みかけた頬は引きつってしまっていた。 そして、シャオの脳裏をよぎったのは、あの日の、リコ。 雨が降っていた6年前のあの日、レヴィに手を引かれこのEDENの扉をくぐったリコの顔。その中央に嵌っていた、冷たい瞳。まるで何も写していないかのような、感情を宿していないそれは、ただのガラス玉。僅かに青ざめているけれど、薄紅色をした柔らかそうな唇は、固く真一文字に引き結ばれていた。 心を殺してしまった可哀相な少女。 ( アレは、無理だ・・・) ズキンと、胸が痛む。あんな顔を見ることは、今の自分には出来そうにない。 あのずぶ濡れだった少女が時間をかけて笑顔を取り戻し、このEDENの誰よりも明るい顔で笑うようになった今 そして、その少女が誰よりも自分の大切な人になってしまった今、もう、あんな顔を見ていることは出来ない。 胸が痛くて痛くて、死んでしまうかも知れない。 あんな表情を見せるくらいなら、いっそ泣きわめいてくれたほうが良い。泣けば頭を撫でてやろう。恥ずかしいけれど、一緒に大声で泣いてやってもいい。 けれど、あんな顔をされたら、きっと自分は何も出来ないだろう。触れることも、声をかけることも、出来ない。何も出来ず、ただ見ていることしかできないだろう。 また、溜息が落ちた。 (もう、今日は無理だ・・・) 重い足取りで何とかカウンターに戻る。今は仕事中だからと気持ちを切り替えようとしたが、沈んだ気持ちが浮上する気配はない。もう今日は仕事にならないだろう。 再び溜息を零してから、店内を見渡す。 客は、あと一組。 それを認めたシャオは、「よし」と決意を声に出すと、リコを呼んで小声で宣言した。 「リコ。あの客が帰ったら今日は閉めるぞ」 「え。早くない!?」 まだ時刻は4時過ぎ。 確かにEDENが通常の営業時間いっぱいまで店を開けていることは少ないけれど、これは早過ぎやしないかと目を丸くするリコに、シャオは首を左右に振った。 「いや。今日はもうムリだ。俺的に」 「りょ、了解」 告げる目は、マジ。 真剣なギブアップ宣言に、リコは目を瞬きながらもシャオの言葉に従うことにしたらしい。首を捻りながらも、トコトコとフロアを横切ってEDENの表に出ると、扉にclosedの札を掲げ、店先の看板も店内に入れた。 程なくして、最後の客が会計を終え、軽やかな鐘の音を伴ってEDENから姿を消した。 「ありがとうございました 」 リコが愛らしい笑顔で最後の客を送り出し、シャオはさっさと店のブラインドを下ろしにかかる。 が、 カランカラン♪ 既にclosedの看板がかかっているはずの扉が押し開かれ、鐘が鳴る。閉店に気付かなかった客が間違って入ってきたのだろうと入口を振り返ったシャオは、 「あ。すいません。今日はもう って、レヴィ?」 そこにレヴィが立っていることを知る。 「あ。ボス! もう、どこに行ってたんですか〜?」 カウンターの中で片付けをしていたリコが鐘の音に顔を上げ、そこに居るのがレヴィであることを認めると、文句を言いながらも表情を輝かせた。 って、さっきまでナイフ片手にぶすっと殺るつもり満々だったのはドコのどいつだ。コラ。 その笑みを複雑な思いで見遣りながら、シャオは不意に眉根を寄せる。 EDENの扉を押し開き、フロアに足を踏み入れたきり歩き出そうとしないレヴィ。視線を己の足下に落としたまま、何故か立ち尽くしている。 「おい。レヴィ、大丈夫か?」 リコの嫉妬の刃から救うためだとは言え、かなり本気でレヴィをぶっ飛ばした自覚のあるシャオは僅かに心配になる。意識は戻ったようだが、何処か打ち所が悪く痛みが残ってしまっているのだろうか。 「おい、レヴィ?」 大丈夫かと肩に手を遣ると、ようやくレヴィが顔を上げる。そして、澄んだアメジストの瞳は、声を掛けてきたシャオにではなく、カウンターの奥でやはり様子のおかしいレヴィにきょとんとしているリコへと、真っ直ぐに向けられていた。 「 レヴィ?」 固く引き結ばれた唇と、真剣な光を瞳に宿しリコを見つめるレヴィの横顔に、シャオは悟る。 (・・・・・聞いた、のか) ウォンから、聞いたに違いない、と。 妹のように思っていたリコが自分に対して向けている切なく、熱い想いの名を、ついにレヴィが知ってしまった。そして、今までリコが自分の言葉に何故涙したのか、怒ったのか、ようやくレヴィはその理由を知ったのだろう。 「 ッ」 シャオの胸が、ツキンと痛む。 リコの恋が、終わる。 レヴィが思いを寄せているのは、どう考えてもリコではないのだから。 それを思うと、胸が痛む。 けれど、その痛みの影で、ほっと安堵する自分もいる。 リコの恋が終われば、自分のこの醜い嫉妬も、少しは収まってくれるのだろう。そう思うと、リコを可哀相に思いながらも、安堵する自分がいる。 弟分であるレヴィに嫉妬する醜い自分が、これでようやく居なくなる。 そして何より、レヴィへの恋を終えたリコに、今度は自分が堂々とアタックできる。 (・・・・サイテーだな、俺) リコの失恋をチャンスだと思ってしまう自分がいる。 それを許せなくも思うが、やはり僅かに胸に産まれた期待の芽を摘むことは出来なかった。 「あら。レヴィ、帰ってきたの?」 厨房の奥から、サヤが顔を覗かせる。 チラリとサヤの方へと視線をやったレヴィが、何を思ったかツカツカと歩き出す。 「おい、レヴィ!?」 それまで、まるで地に根をはってしまったのではないかと思うほどにじっと立ち尽くしていたレヴィが、力強い足取りで向かう先に居るのは、リコ。 それに気付いたシャオが、慌ててレヴィの肩を掴み制止しようとするが、その手を逃れて、レヴィがカウンター越しに、リコの前に立った。 きょとんと目を瞠るリコ。 厨房から顔を覗かせたサヤも、常とは違うレヴィの様子に目を瞬かせている。 「ちょっと待て、レヴィ!」 まさかここでリコに自分の思いを告げる気なのかと、シャオは慌てる。 ここには自分も居るし、サヤも居る。二人きりの時に振るのがせめてもの優しさではないか。 「おい、レヴィ 」 それを遮ったのは、レヴィの真剣な声だった。 「 リコ」 「はい?」 突然自分の目の前に立ち、いつになく真剣な声音で自分の名を呼ぶレヴィに、リコはきょとんと瞠った目をパチパチと瞬かせる。 これから何を言われるのか、全く分かっていないらしい。 まさか、これから自分の恋が散ろうとしていることなど、微塵も感じてはいないのだろう。彼女は未だ、自分の思いを彼が知っていることを、知らないのだから。 この場からダッシュで去るべきか、もしかしたら想像に反して逆ギレして大暴れするかも知れないリコを止めるため、この場に残るべきか決めあぐねている内に、再びレヴィが口を開いた。 (うおおおおおおおおおおおおお、マジでか、レヴィ!!!) 本当に今ここでリコを振ろうとしてるらしい─とシャオが思っている─レヴィに、シャオが顔を青ざめさせ、思わず両手で耳を塞ごうとした、その時。 「リコ、──だ」 「 」 「はい?」 シャオの手が、ピタリと止まる。耳に飛び込んできた単語を理解することが出来ず、シャオはそのまま固まる。 告げられたリコも、思わず聞き返していた。 声量が小さかったわけではない。耳にはしっかり入ったし、おそらく脳にも正確に伝達されたはずだ。が、理解ができなかった。 レヴィが告げたのは、シャオが想像していた言葉と180度──否、もはや360度ぐるっと回って帰ってきたもののゴガッと道を踏み外して別次元に迷い込んでしまったのでは、もしくはありきたりな表現ではあるが本当に耳が腐って落ちて代わりに猫耳なんかがくっついちゃって聞き間違えちゃったのでは、と耳を疑いたくなるほどに、想像もしていなかった言葉だった。 「リコ、スキダ」 「「「 」」」 沈黙は、三つ。 「「「 は?」」」 聞き返す声も、三つ。 それに答える声は、ひたすらに真剣に愛の言葉を紡ぐ。 あ、愛の!? 言葉あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!? 「スキだ。リコ」 聞き間違いでは、なかったらしい。 「え」 と頬を染め、思わず涙ぐむリコ。 「え」 と頬を引きつらせ、目玉を零しそうに見開くシャオ。 「え」 と頬をひくつかせ、ギラリと剣呑な光を瞳に宿すサヤ。 そんなことなど露知らず、 「リコ。好きだ」 繰り返したレヴィに、 「ボス !! あたしも好きです っ」 満面の笑みでレヴィに抱きつこうと、お行儀悪くカウンターの上に飛び乗るリコ。 「お願い、死んで、レヴィ!!! 成仏しなくてイイからとりあえず死んで!!!!」 どこから取り出したのか、手にしたパンナイフを片手に、こちらも獲物を狙う猛獣が如くカウンターに飛び乗るサヤ。 そして、二人が同時にカウンターを蹴り、レヴィに飛びかかったその瞬間、 「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお前ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!??」 何を言いたかったのか全く分からないが、取り敢えず絶叫をかましたシャオが、 「ん?」 きょとんと一人状況から取り残されているレヴィを、 「どおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおりゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」 「ぐあああああああ!!」 レヴィのくぐもった悲鳴がフロアにこだまする。 本日二度目、シャオのタックルがレヴィの腹部にクリティカルヒット☆ が、先程と違い、レヴィの体が遙か彼方へぶっ飛ばされることはなかった。腹部に凄まじい衝撃を受けてくの字に下り曲がったレヴィの腰に手を回して、 ぶっ飛んでいく前にその体を掴まえると、そのまま肩に抱え上げ、 「ウォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおン!!」 犬の遠吠え? Non、Non♪ お隣のドクターの名前を絶叫し、EDENを飛び出していった。 閉ざされたEDENの扉の向こうでは、リコとサヤの怒号が響き渡っている。ついでに何かが盛大に割れる音もする。 自分に好意を持ってくれていると思っていた男が別の女に告白する様を目の当たりにして殺意を抑えきれなくなったサヤと、喜びに天にも昇らんとしていたところに水を差されて激昂するリコの壮絶なバトルが繰り広げられているのであろうコトは、想像に難くない。が、想像したくない。 再び意識を失ったレヴィの体を抱えて飛び込んだ診療室では、 「やぁ♪」 ニッコリと笑顔のウォンが待ち構えていた。 隣家から響き渡っている怒号が聞こえていないはずがないのだが、その表情はニコニコと実に楽しげだ。この展開を知っていたに違いないリアクションを目前にしながらも、現在MAXテンパり中のシャオがそれに気付くことはなかった。 「な、な、な、なんだコレ!? 何だよコレはあああああああああ!?」 シャオは絶叫しながら、肩の上に抱え上げていたレヴィの体を、診療台の上に容赦なく躊躇いなく放り投げた。 「ちょ、ちょっと!!!」 先程担ぎ込まれてきた時よりも更に高さをもって放り投げられたレヴィの体に、ウォンがこのときばかりは慌てて手を伸ばす。 スプリングのない診療台の上に、ドン! と大きな音を立てて落ちたレヴィの体は勢いを失わず、診療台の上を転がった。 床へ落っこちそうになるのを、辛うじてウォンの手が止めた。 「ら、乱暴だなァ、もう」 「乱暴なのは、お前だあああああああああああああああああああああああ!! コイツに何をした!!? 何を言った!!? 何だってあんなことになったんだ。ああああああああああああああああああああああん!!?」 最早ヤーサン顔負けの凄まじい形相で自分の襟首を掴み上げているシャオに、けれどウォンは笑顔のまま、しゃーしゃーと言ってのけた。 「え? だって、そうした方が丸 く収まるかなって♪」 「全ッッッ然丸くない!!! 今度はサヤがレヴィを殺りそうだ!!!」 「それは困ったなぁ」 「お前、全然困ってないだろおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」 おっとりと首を傾けるウォンに、シャオは掴んでいたシャオの襟首を前後に揺さぶる。それを慌てるでもなく「まあまあ」と宥めながら、ウォンは盛大にずれてしまった眼鏡を定位置に戻す。 「失敗かァ。レヴィから刃物を逸らすためには 」 と思案に暮れ始めたウォンと、怒りにグツグツと沸騰した頭を何とか冷まそうとしているシャオの耳に、 ガシャ ン!! 凄まじい音が届いた。 二人同時にびくぅっ! と肩を揺らし、そろりと視線をEDENの方へと向ける。 しばしの沈黙の後、徐に口を開いたのはウォンだった。 「・・・戻った方が、良くない??」 「・・・そう、だな」 珍しくウォンの言葉に素直に従い、シャオは慌てて診療所を飛び出していった。が、すぐに舞い戻り、 「おい! それ、頼むぞ」 それ=レヴィ。どんな風に何を吹き込んであんなコトになったのかは知らないが、とにかくよくいい聞かせて思い直させておけと言い置いて、今度こそシャオは姿を消した。その所為で、シャオは知らなかった。 「分かった。任せておいてよ」 真剣な声音で請け負って見せたウォンが、 「ふふふ。さぁて」 ニタリと、不吉な笑みを浮かべてレヴィを見つめていたことを。 |