例のアイテムを失ってもなお鋭すぎる視線を向けるリコと、それに大いに怯えるレヴィ。シャオは額に嫌な汗を滲ませ、サヤが眉根に若干の皺を刻みながら、本日のEDENはclosed。 EDENの扉が固く閉ざされた頃には、Silvery cityはすっかり夜の闇の中。月明かりに白銀の光を反射させるcityの家々と、そこから零れる橙の光。空を見上げれば、遙か彼方にチラチラと瞬く星の光。 それを、切ない瞳で見上げている少女が居た。 EDENの外。 青い葉を茂らせ夜空へと手を伸ばしている木にその細い体を預け、僅かに冷たい夜風に頬を晒しているのはEDENのパティシエ─サヤだった。 昼間から刻まれたままだった眉間の皺は、今もそこにある。 「はぁ」 唇を越えて零れる溜息は、もう幾つ目のものなのか分からない。 空を見上げる瞳には切ない色。 そんな自分を、ずいぶん前から黙って見つめている者が居ることに、彼女は未だ気付いていなかった。 「サヤちゃん」 驚かせないようにそっと自分を呼ぶ声。声がした方へと視線を向ければ、そこはお隣の診療所だった。 窓から顔を覗かせているのは、 「ウォンさん」 お隣の若きDr.ウォンだった。 ずっと空を見上げていた所為で気付かなかったらしい。いつの間にか、ウォンが顔を覗かせている窓から溢れる光で、足下が橙に照らされていた。 窓枠に肘をつき、ウォンはその面に僅かに笑みを乗せた。 「どうしたの? サヤちゃん。浮かない顔だね」 「・・・ちょっと、眠れなくて」 どうやらこんな時間に家の外で空を見上げている自分を、心配してくれているらしいウォンに、ただそれだけのことなんですと、サヤは笑みを返した。 ウォンはいつもの癖で、眉間にかかる眼鏡の縁を指で押し上げながら、彼女に気付かれないように溜息を漏らす。 何でもないんですと訴えるサヤ笑顔。それは、いつも彼女が浮かべているものとは明らかに違う。EDENに来て間もない彼女だったけれど、ウォンにもそれくらいのことは分かった。 再度溜息を漏らした後、ウォンはニッコリ微笑んでサヤを手招いた。 「眠れないのなら、おいで。温かい紅茶でも淹れてあげるよ」 優しい笑みに、サヤの心が揺れる。 誰にも言えない気持ち。 でも、誰かに聞いて欲しい気持ち。 この人になら、言っても良いのかもしれない。 そんな風に甘えてしまうのは、彼だけには誰にも言っていないシャオへの淡い恋心と、その結末を知られていたからかも知れない。 迷いは、一瞬。 「・・・ありがとうございます」 小さな声で礼を述べて、サヤはウォンに手招かれるまま、診療所のドアを押し開いていた。 僅かに薬品の匂い漂う診療所内に、今はそれを掻き消そうとするかのように、紅茶の香りが満ちている。 診療台に腰を落ち着け、温かなカップを唇に運ぶサヤの姿を、ウォンがチラリと見遣る。 「美味しいです」 「そう。良かった」 言って微笑みを零したサヤの瞳から、僅かながら憂いの色が消える。 それを見てウォンも微笑む。 彼女の憂いの理由を、彼は知っている。知っているけれど、 「で、何をそんなに悩んでるの?」 改めて問う。 今、彼女に必要なのは、自分からの言葉ではない。彼女が、自身で己の気持ちを吐き出すことが必要だということが分かっていたから。それのみが、彼女の憂鬱な気持ちを和らげる方法。 紅茶を口元に運びながら、ウォンは静かに問うた。 彼女から答えが返るまでには、僅かの時間を必要としたけれど、急かすことはしない。紅茶の香りをゆっくりと楽しみながら、答えを待つ。 そうして、ウォンが再度カップに口を付けたところで、サヤから短い答えが返ってきた。 「・・・自分の気持ちが、分からないんです」 「自分の気持ち?」 視線を足下に落としたサヤが、小さく頷く。そして、今度は間を置かず、その唇が言葉を紡いだ。 「私、リコちゃんにレヴィへの気持ちの表現が間違ってるって言いました」 彼女がリコに何を言ったのかは、ウォンにもすぐに察しが付いた。 「ああ。ナイフ?」 そう。自分が面白がってリコに与えたあのアイテムのことを、どうやらサヤが咎めたらしい。が、そのナイフの出所が自分にあることは、まだサヤは知らないらしい。 (セーフ♪) もしも彼女にそのことを知られていれば、今こうして彼女は自分の目の前にはいないだろう。密かに築き上げた「何でも相談できるお兄さん」像を未だキープ出来ている幸運にウォンが密かに感謝していることなど露知らず、サヤは視線を落としたまま語る。 「止めたことが間違っているとは思いません。あんなの、絶対に違うと思うし。でも──」 「・・・でも?」 「表現の仕方は間違ってても、リコちゃんの想いは本当に強くて真っ直ぐで・・・。それを見てたら──自信が、なくなっちゃって・・」 手に持ったカップを、ぎゅっと両手で握りしめるサヤを、ウォンは黙って見つめる。今は自分が口を挟むべきではないことが、彼には分かっていたから、ただ黙って、彼女の言葉を聞く。 短い沈黙を、サヤの切ない独白が破った。 「私は、あんなに一途に思い続けたことなんてないんです。シャオさんのことだって、何もしないうちに諦めて、今だって何だか・・・中途半端で」 シャオへの淡い気持ち。恋心だと認めることすらせず、叶わないからと諦めてしまった気持ち。 そして、今、この胸の中に巣くってしまった切ない思いにも、まだ名前を付けることができない。 ───付けるのが、怖い。 この思いが破れた時のことを思うと、怖くて名前が付けられない。 (でも、怖いのはリコちゃんも一緒なんだわ。きっと) きっと、怖いのは、あの少女も一緒だろう。 もしも失ってしまったらと思えば、怖くて怖くて仕方がないだろう。それでも彼女は真っ直ぐにレヴィへの想いを持ち続けている。育て続けている。 迷いのない瞳で、ただ、レヴィだけを見つめて、ぶれることなく、愛し続けている。 その強さを、羨ましく思う。 自分もあんな風に、誰かを真っ直ぐに愛してみたい。思い続けてみたい。叶わなかった時のことなんて気にならないくらい、深く溺れてみたい。 「サヤちゃんも、本気の恋がしたくなっちゃった?」 完全に押し黙ってしまったサヤに、ウォンが小さな声で問う。 「・・・・はい」 僅かの逡巡の後、小さく小さくサヤは頷いていた。 その答えに、ウォンは口元を歪ませる。 ニヤリ。 そんな表現の仕方が一番しっくりくるであろう、悪魔の微笑み。 すぐさまその笑みをいつものに〜っこりスマイルで覆い隠したウォンが、ぽんと手を叩き、殊更明るい声で言った。 「よし、それなら、全力で恋しちゃいなさい♪」 「え?」 それが出来ないからこうして悩んでいるわけなのだが。 思わず俯かせていた顔を上げ、きょとんとウォンを見つめるサヤに、 「そう。僕に任せて♪」 ウォンは胸を叩いて見せた。 「サヤちゃんの恋を応援するオマジナイ」 「・・・おまじない?」 「そう♪」 そう言えば、この前も彼におまじないをしてもらった。・・・・ような気がする。 記憶が曖昧であることに今更ながら気付き、サヤは首を捻る。 (アレ? どんなおまじないだったっけ・・?) 疑問を晴らす間もなく、静寂にそっと溶け込むような耳に心地の良い、ウォンの声が自分の名を呼んだ。 「さあ、サヤちゃん。これを見て」 それに導かれて、視線が彼の示す方へと向いていく。 そして、サヤが疑問を晴らす前に、再び彼女の意識は遠のいていった。 前回のおまじないと同じように。 |