closed。
時刻は、午後5時を回った頃だろうか。客足が絶えたと同時に、EDENのドアに閉店を知らせる札が掲げられた。 一応、EDENの営業時間は午後7時までなのだが、このcafeが午後7時まできっちりと営業をしたことは、たぶんない。 いつだって、店長であるシャオが、 「うーん。もうそろそろ閉めたいな…」 という気分になり、そこで客が途切れれば、すかさずリコがclosedの札を持って表に走り、閉店を迎える、というのが常だ。 今日もいつもの通りリコがclosedの札をドアに提げ、EDENの営業は終わった。 そうしてブラインドの下げられたEDENの店内では、4人がそれぞれ後片付けに勤しんでいた。 厨房ではサヤが後片付けを終え、明日の準備をしている。そんな厨房へと足を踏み入れたのは、険しい表情をしたリコだった。 きゅっと唇を真一文字に引き結び、いつもはキラキラと輝かせている瞳も、今は己の足下に俯けられている。 静かに厨房に足を踏み入れたので、こちらに背を向けているサヤは、まだ自分の存在に気付いていないらしい。 このまま何も言わずに、厨房を出てしまおうか。 一瞬、迷う。 けれど、 ( 負けちゃダメ!) ここで引き返しては、きっと後で後悔する。彼女に、聞きたいことがある。そして、言いたいことがある。 言ったら、後悔するかもしれない。 けれど、言わなければもっと後悔するかもしれない。 どちらの後悔の方が大きいかなんて、分からない。 でも、言いたいのだから、言わずに後悔するよりも、言ってしまって後悔する方が良いに決まっている。 それを教えてくれたのは、あの人。 自分を拾ってくれた人。 大好きな大好きな、人。 リコはぐっとその場に踏みとどまり、徐に口を開いた。そして、 「・・・ねぇ、サヤちゃん」 小さな小さな声で、サヤを呼んだ。 「どうしたの? リコちゃん」 呼ばれて振り返ったサヤが、暗い表情で自分の背後に佇んでいるリコに、目を瞠る。いつものリコの表情ではない。 何かあったのだろうかと心配になり、作業の途中だった手を止め、真っ直ぐリコに向き直る。 「どうかした?」 汚れていた手を洗い、エプロンで水滴を拭いながら自分の前までやってきたサヤに、リコは視線を上げる。 真っ直ぐにサヤの目を見つめ、リコは強い口調でズバリ問うた。 「サヤちゃんの好きな人って、シャオだよね?」 「え?」 あまりにも唐突過ぎる問いに、サヤはきょとんと目を瞠る。 「リコちゃん? 急にどう 」 「シャオだよね?」 他の答えを許さない、リコの問い。そして、自分を真っ直ぐに見上げているリコの瞳にも、強い光がある。 けれど、自分が彼女の返すことができるのは、 「・・・ううん」 Noの答えのみ。 迷った末、正直に首を左右に振って答えたサヤに、リコの表情がさらに険しくなる。きつく噛みしめた唇から零れたのは、さらに強さを増した問い。 「シャオじゃないなら、ボス?」 その問いに、サヤは口を噤む。 ようやく、リコの表情が険しい理由が分かった。 リコは、レヴィに恋している。 だから、だ。彼女は不安でたまらなくなってしまったのだろう。自分も、レヴィに惹かれ初めているのを敏感に感じとって、怖くてたまらなくなってしまったから、だから、こんなにも険しい顔をしている。 (レヴィのこと・・・?) 簡単に答えは出せない。 きっと、惹かれているのは事実。 あの美しいアメジストの瞳と目が合うと、心がざわめく。手が触れると、高鳴る胸。瞳を閉じれば瞼の裏に閃くのは、金。 それを、恋と呼ぶか、否か 。 「レヴィのことは好きだけど・・・」 答えを出せぬまま、曖昧に濁すつもりの答えを、 「シャオがダメだったら、次はボスなの?」 「・・・・」 リコに遮られる。そして、 「ボスはあたしのボスなのっ!!」 大きな瞳に涙を溜めて、リコは真っ直ぐにサヤを見つめたままでいた。瞳を逸らせば負けるのだと、そう思っているかのように、じっとサヤの瞳を睨んだままでいる。 「・・うん」 サヤは、力なく頷く。ここで彼女に逆らってみても、どうしようもない。 レヴィが誰のものか、なんて、そんなことは分からない。 けれど、それをリコに伝えてみても、彼女の心が安まらないのだということは分かっている。だから、ただ、頷くしかない。 意味のない、相槌。 「あたしの方がずっとずっと前から好きだったの!」 知っている。 彼女がいったいいつからレヴィに恋をしているのかは分からない。けれど、自分が彼に惹かれるよりもずっと前から、彼女がレヴィを見つめていたのは知っている。 だから、否定はしない。 黙って、彼女の激情を受け止める。 「サヤちゃんには渡さない! 誰にも渡さない! あの人はあたしのボスなんだから!!」 ぽろっと、リコの瞳に溜まっていた涙が、一滴、彼女の滑らかな頬を伝っていった。 「 」 サヤは、何も答えない。いや、何も答えられない。 チクリ、と痛んだ胸。 彼女の気持ちは良く分かる。 好きで好きで好きで、どうしようもないのだ。彼女にとって、きっとこれが初めての恋。彼女は小さな体で、その全身で恋をしている。 そんな彼女の気持ちが、サヤにも分かるから、何も言えない。 同じ女なのだから、よく分かるのだ。 醜いのだと分かっていて、止めたいと願っていてもどうしても止まらない、イヤな感情に支配される胸の痛み。 (分かるわ、リコちゃん) 激しい感情を向けられることへの理不尽さよりも、彼女を今締め付けている胸の痛みを思うと、こちらまで苦しくなる。 サヤは、口を噤むしかなかった。 そんな沈鬱な空気が垂れ込めている厨房の入口では、 ( は、入れない・・っ!) 石のように固まっているシャオの姿があった。 厨房にグラスをしまおうとやってきたのだが、どうやら最悪のタイミングで来てしまったようだ。 聞くつもりはなくても聞こえてしまった、リコの声。そして、まだ足を踏み入れてもいないのに感じる、厨房内の凍り付くような冷た い空気に、シャオは立ち尽くすしかない。勿論、これ以上厨房内に踏み込むこともできないし、かと言って知らんぷりをして立ち去ることも出来かねる。 (ど、どうしたらいいんだ) 途方に暮れるシャオの背に、 「おーい、シャオ。どうかしたのかよ」 脳天気なレヴィの声。しかも、デカい。 (コイツ) と、額に青筋を立てるシャオの横を、彼と同様に厨房に片付けるための皿を手にしたレヴィがすいっと通り過ぎていく。 「あ、おいっ」 厨房に入ろうとするレヴィに、慌てて彼を止めようと手を伸ばしたが、時すでに遅し。 「何だよ、シャオ って、どうかしたのか?」 厨房に足を踏み入れ、ようやくレヴィも異変に気付いたようだ。 レヴィを止めるため彼の肩にかけた手に、逆に引っ張られる形になり、レヴィと一緒に厨房に突入することになったシャオは、ギクリとする。こちらを振り向いたリコの瞳に、涙が光っていることに気付いたから。 「あ。な、何でもないの」 慌ててサヤがその場を取り繕うようにぎこちない笑みを顔にはりつけ、ひらひらと手を振って見せた。 けれど、 「あ! リコちゃん!」 くるりと踵を返したリコは、一目散に厨房の外へと向かう。 何も言わず、厨房の入口に立つシャオと、そしてレヴィとを押しのけ、レヴィの横を通り過ぎざま、 「いーだ!!」 「はァ? 何だよ」 思いっきり歯をむかれ、ムッとするレヴィに構うことなく、リコはそのまま走り去っていってしまった。 「何だ、あれ」 「・・・さあ、な」 その場に残された三人の間に沈黙が落ちる直前に、 「あ、お皿ね。片付けるわ。シャオさんのも」 「お、おう。サンキュ」 「あ、ありがとう」 サヤは、何があったのか問われることを拒むように、レヴィとシャオの手から皿とグラスとを奪い取ると、すぐさま二人に背を向け、厨房の奥へと姿を消してしまった。 「・・・なあ、なんか・・・喧嘩?」 激しく鈍いレヴィでも、さすがにこれは気付かずにはいられなかったらしい。 立ち尽くしたまま、レヴィが隣に立つシャオに問う。 「みたいだな」 「こ、怖ェ 何、コレ。まだ殴り合いの方がすっきりしてイイんじゃねーの?」 厨房に踏み入った瞬間のあの凍り付くような空気。フロアには特に大声が聞こえてきたわけではなかったから、きっと厨房の中で静かで冷ややかな攻防があったに違いないと思うと、空恐ろしい。いっそ男同士の喧嘩のように、一発ドカンとやり合う方がわかりやすくて気持ちいいのではないかと呟いたレヴィに、シャオは頬をひくつかせる。 「 誰のせいだ、誰の」 会話の全てを聞いていたわけではないが、シャオにはこの原因が誰でもなくこの目の前の男にあることが分かっていた。 が、 「え? 誰?」 きょとんと首を捻るレヴィ。残念ながらしらばっくれているワケではなく、100%分かっていない、いっそ純粋な目で答えを求めてくるレヴィに、シャオは激しくイラッとする。 「 一回、死ね」 思わず口をついて出た台詞に、レヴィが目をむく。 「はァ!? んだよ、それ!! ホントに死ぬぞ!?」 ひでー!! と絶叫するレヴィに、シャオは溜息を漏らす。 「何で急にオレがいじめられなきゃならないんだよ。納得いかねー!」 「うるさい! お前に限ってあり得ないから言ってんだろ、アホ」 子供のようにぎゃーぎゃー喚いているレヴィを、本気じゃないからと宥め、ついでにぺしっと彼の頭を一発はたく。 「いてっ」 「もう、忘れろ」 見たことは忘れろと言って厨房から去っていったシャオの背を見送り、 「ちぇー」 はたかれた頭をさすりながら、レヴィは口を尖らせる。 彼は、きっと全て分かっているのだ。 何も分からないのは、自分だけ。どんなに考えたって、自分には分からないのだ。 だから、ムダに頭を働かせるのはやめてもう忘れろ、と彼は言ったのだ。 いつだって、こう。 自分が知らないことを、彼は知っていて、「お前は知らなくていい」と勝手に決めつけて、教えてくれない。 (もうガキじゃないのに・・・) 小さな溜息がレヴィの唇から零れ落ちた。 |