37 ☆やまない雨


 しとしとと降り注ぐ雨に濡れて、silvery cityはいつもよりひっそりと朝を迎える。
 常には家々を眩しく照らす真っ白な朝日も、今ばかりは薄い雲の向こう。
 cityを歩く人の影はまばら。
 その中の二つの影が、cafeEDENの入口に吊り下げられたベルを鳴らした。
  カラン、カラン。
 その音に弾かれたように顔を上げたのは、カウンターに座っていたサヤだった。
「シャオさん! レヴィ!」
 見れば、シャオが床に落としたグラスはキレイに片付けられ、サヤ自身も寝間着から普段着へと着替えを終えている。
 目元の影が、あれから彼女が眠らずに二人を待っていたことを告げていた。
 入口の鐘の音に、朝食の用意をしていたらしいリコが厨房からちょこんと顔を出し、ずぶ濡れになっているシャオとレヴィの姿に目を丸くする。二人が出かけていることは知らされていたが、まさか傘も持たずに出かけているとは当然思っていなかった。パタパタと厨房から駆けて出てきたリコの手には、彼らに渡すためだろう、白いタオルが握られていた。
 そんな彼女よりも先に、彼らの元へと駆け寄ったのはサヤだった。
「お帰りなさい。レヴィ!」
 安堵の表情を浮かべ、転がるようにイスから降りて駆け寄ってきたサヤの様子に、レヴィは察する。どうやら彼女は、自分がシャオと喧嘩をして、家をこっそり飛び出したことを知っているらしい。
 そして、どうやら心配を掛けてしまっていたらしい。
 そのことに対する罪悪感よりも、シャオと喧嘩をして家を飛び出すという、子供っぽいことをしてしまったという恥ずかしさの方が勝った。
「た、ただいま/////」
 真っ直ぐにサヤの目を見つめ返すことが出来ず、床に視線を落としたレヴィの頬は、僅かに赤い。
 そんな彼の顔を見遣り、サヤは小さく笑って言った。 
「ね? 特別だったでしょ? シャオさんにとっても」
 そんなサヤの台詞に、レヴィは僅かに目を瞠る。
 特別な存在を作るのが怖いのだと、サヤに告げた。だが、彼女によって知らされた。すでにこのEDENという場所は、自分にとっては特別な、温かい場所だったのだということを。一緒に居てくれる仲間たちの存在は、自分が気付こうとしなかっただけで、すでに特別なものだったのだということを。
 そして、彼女は言った。
「シャオさんにとっても、レヴィはきっと特別なのよ」
 その言葉に、「そんなことはないだろう」と返したレヴィに、
「特別じゃなくちゃ、血の繋がりもないのに一緒に暮らすなんて出来ないわ」
 そう言って笑ったサヤ。
 そんなものだろうか、とあの時は首を傾げたが、今は
「迎えに来てくれたでしょ。シャオさん」
 自分が言ったとおり、シャオにとってもレヴィは特別だということが、これで分かったでしょう? と、満足げに微笑んで自分の答えを待つサヤに、レヴィはバツが悪いのか、赤い顔のままポリポリと頬をかく。
「・・・雪は無理だけど、雨の中なら迎えに行ってもいいくらいには、特別らしい」
 その答えに、サヤは笑った。
「ふふふ。じゃあ、レヴィは?」
「連れに来てくれるなら、お持ち帰りされてやってもいいかなってレベルには、特別かな」
「二人ともひねくれてるのね」
「なんたって兄弟だからな」
 開き直って胸を張るレヴィに、くすくすとサヤは笑う。
 そんな二人の隣で、リコから受け取ったタオルでガシガシと雨に濡れた髪を掻き回しているシャオの顔も、僅かに赤い。
 その隣では、レヴィに渡すべしのタオルを握りしめたまま、呆然と立ち尽くしているリコの姿があった。
な、な、な、何!? 何、あの会話!! 何この雰囲気!?」
 レヴィとサヤの意味深すぎる会話。
 はっきり言って、今の二人の会話では、一体何のことを言っているのか、リコには全くもって分からなかった。しかし、短いこのやりとりで、二人は全てを分かち合っているようだった。
 くすくすと笑うサヤと、そんな彼女の前で照れくさそうに頬を染めるレヴィ。
 一言で言えば、
(イイ雰囲気じゃんっっっ!!!?)
 そう。イイ雰囲気。そして、美男美女でお似合いなのだ。悔しいが。
(な、ななななななな、何!! 何なの!! どうして!!? サヤちゃんはシャオにホの字だったはず!? やっぱり鞍替えしたの !?)
 知らず手に持ったタオルを、未だ水分を吸っているわけでもないのに、これでもかと絞りまくる。
「ね、ねぇ、シャオ!! 何かあったの!?」
 たまたずリコは、隣に立つシャオの腕をむんずと掴み、彼に問い詰めるが、
べ、別に、何も・・・」
「!!!」
 さも「あった」と言わんばかりの歯切れの悪さ!!
 リコは顔を青ざめさせる。
 そんなリコの隣で、シャオは雨粒を拭うふりをしてタオルで顔を覆い隠した。
(・・・知られてたまるか)
 シャオの返答に歯切れがなかったのには、彼なりの理由がある。
 大好きなリコには、決して知られたくなかったから。
 サヤと付き合って欲しいというリコの言葉に傷付いて、自分が大人げなくレヴィに当たり散らしてしまったのだということは。
「え! え? ね、ねえ、シャオ!!」
「だ、だから、何もないんだ、リコ。着替えてくる。おい、レヴィ。お前も行くぞ。風邪引く」
「お、そうだな」
 リコの追求の言葉を遮り、シャオはレヴィの腕を引いてフロアからさっさと姿を消してしまった。
 逃げるように自分の前から姿を消してしまったシャオ。しかも、肝心のレヴィまで連れて行ってしまった。
 どうしたって自分に事情を話したくないらしいシャオの様子に、リコのイヤな想像がムクムクと膨らんでいく。
「な、何かあったんだ !! どぉしよ っ!!」
 自分を除け者にして、知らないところで事情が変わっていく。
 しかも、大好きなレヴィと、今最も危険人物としてリコが認知しているサヤとの距離が、ぐんぐんぐんぐん近付いているという、素敵に最っ悪な感じに変わっていっているような気がするのだ。
 すり切れそうなほどに絞りまくったタオルを手にしたまま、リコは唇を噛みしめる。
 胸が、ジリジリする。
「ヤだ・・」
 絶対に、イヤ。
(ボスを、取られたくない・・・!!)
 焦燥感ばかりが、胸を支配していく。
 薄い雲が覆う、今の空と一緒。追い払い方が分からない。
 止まない雨と一緒。止め方が分からない。
 ただ今は黙って、胸をジリジリと焦がす激情が過ぎるのを待つしかない。
 リコはただ、立ち尽くすしかなかった。


 しとしととcityを濡らしていた雨も、昼を過ぎた頃にはすっかりと上がっていた。
 薄い雲に覆われていた空も、今は遙か彼方。いつものようにオレンジ色の太陽がcityを照らし始めていた。
 しかし、リコの胸の中のイヤなものは、未だに彼女の小さな胸の中にとどまったまま。
 アフタヌーンティーを楽しむ女性客のざわめきで華やいでいるEDENの中、リコの表情はどんよりと暗い。
「・・・・・」
 フロアの隅、厨房に一番近い位置に、リコは佇んでいた。
 小さなトレイを胸の前でぎゅっと握りしめながら、リコは厨房の様子を窺っていた。
 視線は自分の足下。ただ、耳は完全に厨房に向けられている。お客さんに注意を向けていなければならないウエイトレスとしては、0点! だが、そうせざるを得ない理由が、今はある。
(だって、気になるんだもん!)
 今、厨房の中には、いつも通りお菓子を作っているサヤと、リコが大好きなレヴィが二人きりで居るのだから。
 二人が仲良くしている姿を目にするのは、イヤ。
 しかし、自分の知らないところで二人きりで何をしているのか、それを知らないのはもっとイヤ。
 今朝が、そうだった。
 二人にしか分からない会話。少ない言葉で分かり合う空気。
 それを目の当たりにしたときの、胸の痛み。それは今でもチクチクとリコの胸をつついている。
 だから、目線は足下、耳は厨房。見たくはないけれど、知らないのもイヤ。
 リコは二人の会話に耳を澄ませていた。
 そんなリコを横目で見遣り、
「はぁ」
 小さく溜息をつくのは、カウンターに立っているシャオ。
 そして、
「…ふ〜ん」
 シャオとリコとを興味深げに眺めているのは、店の隅のテーブルでちびちびとコーヒーを啜っていたお隣のDr.ウォン。そのめがねの奥の瞳がキランと光り、
「いろいろ進展してるのかな?」
 くすっと楽しそうに笑う。勿論、自分に対して目を光らせているシャオには気付かれないよう、手のひらで口元を隠しつつ。
「ねえ、レヴィ」
 リコが様子を窺う厨房の中では、休憩の為に厨房を訪れていたレヴィをサヤが呼んでいた。
 それに反応したのは、
「なに?」
「!」
 当然、名前を呼ばれたレヴィと、中の様子を窺っていたリコの二人。
「申し訳ないんだけど、あれ、取ってもらってもいい?」
 手招いたサヤが指さすのは、高い棚に入れられている大皿。どうやらあれを取って欲しいらしい。
「おう。いいよ」
 お安いご用だと、サヤが示した皿を手に取ると、彼女に手渡す。
「はい。どーぞ」
「ありがと。ごめんね、使っちゃって」
 スツールを持ってくればいいんだけど、面倒で。と言って笑ったサヤに、レヴィも「良いって」と笑みを返す。
「いつでも言えよ」
「うん。ありがとう」
 甘いお菓子の匂いに包まれた、穏やかな空気。
「…う゛
 見るまでもなく感じることの出来る、二人の間に流れている何とも言えずイイ感じな雰囲気に、フロアのリコが唸る。
 今までだって、ああしてレヴィとサヤが二人きりで話す機会は何度でもあった。そのシーンをリコだって何度も見てきた。今みたいに、物を取って欲しいと頼まれて、それをレヴィが叶える、なんてのは、何ら特筆すべきことではなかったはずだ。気にするべくもない、ただの日常のワンシーンであったはずだ。
 それなのに、今はその日常の光景でさえ、相手がサヤだと思うだけで、
「む
 唸らずにはいられないのだ。
 胸の前にトレイを抱え込んだまま、眉根にこれでもかと皺を刻んでいるリコをフロアから呼ぶ声があった。
「リコちゃん、リコちゃん」
 ちょいちょいと手招きをしているのは、顔なじみのウォンだった。
 それを確認し、リコは重い足取りでウォンの座るテーブルへと向かう。他のお客様ならいざしらず、ウォンであれば無理に営業スマイルを浮かべる必要もない。
「何ですか?」
「わぁ、見事に不機嫌だね
 鬱々とした顔のままやってきたリコに、ウォンは苦笑する。
 しかし、ウォンがその理由を聞くことはない。聞かなくても、彼は知っている。
 嫉妬。
 彼女はサヤに嫉妬をしている。そして、彼女自身、その感情に気付いている。気付いているけれど、だからと言って胸の内に納めておけるほど、彼女は大人ではなかった。
 顔に不機嫌さを120%出してしまっているリコに、ウォンは苦笑する。
「レヴィとサヤちゃんが仲良しなのが、イヤなんでしょう?」
「…うん。イヤ」
 素直に頷いたリコに、ウォンは「そっか」と相槌を打ち、ずれてもいない眼鏡の縁をぐいっと指で押し上げる。
 それは、考え事をしている時の彼の癖。
 リコに、「サヤちゃんと付き合うように、シャオに勧めてみたら?」と、悪魔の提案をしてみたのは、昨日のこと。
 どうやら昨日の内にリコは実行に移したようだったが、リコの提案通りに言った様子はない。
 勿論ウォンも、シャオが「うん。分かった」と二つ返事をするとは思っていなかった。そもそも期待もしていなかったので、結果が伴わなくても一向に構いはしない。ただ、死ぬほど落ち込んで酒に走り、レヴィに当たり散らすシャオの姿はなかなかの見物だった。
  やはり彼は見逃していなかったらしい。
「ふふふ」
 突然笑ったウォンに、リコが首を傾げる。
 そんな彼女に「何でもないよ」と言って手を振って見せる。
「リコちゃん、シャオには言ってみたんでしょ?」
「うん」
「じゃあさ、サヤちゃんにも正直に言ってみたら? レヴィのこと好きだから仲良くしないでって」
「・・・・」
 どうやら、それは出来ないらしい。
 自分に好意を抱いているシャオに対しては、知らないとは言え、自分のライバルを片付けるため、しゃあしゃあと「別の女の子と付き合って」と言ってのけるリコなのに、サヤとレヴィの間に割って入ることは出来ないらしい。
(複雑なんだねー、乙女心って)
 大変だな−、と完全に他人事な感想を漏らしながら、ウォンはちょいちょいとリコを手招くと、彼女の耳元でそっと囁く。
「負けちゃダメだよ。リコちゃん! GO!!」
 そして、彼女の目の前で、パチン、と指を鳴らす。
 すると、
「ハイ!!」
 リコは良い子なお返事をするなりくるりと踵を返し、ウォンの前から姿を消していった。
「うん。その意気その意気♪」
 脱兎のごとくフロアを飛び出して行ったリコの後ろ姿を見送り、ウォンは満足げに微笑む。カップに残った冷め切ったコーヒーを喉に流し込むと、ウォンは席を立ち、EDENを後にしたのだった。

 






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