36 ☆in the RAIN


 

 明け始めた空からは、ハラハラと雨が零れ落ちている。
 金糸の髪を、細い肩を濡らす、冷たい雨。
「・・・寒い」
 シャツ一枚の軽装でEDENを出てきたことを、レヴィは後悔する。けれど、戻る気にはなれなかった。
 衝動的に、EDENを飛び出して来てしまった。
 目指す場所などない。『母』に拾われた自分には、何処にも行くあてなどないのに、足は止まらない。
 それならば、この足は一体何処に向かっているのか。
 それはまるで、あの日と同じ。
 あてもなく、ただ大嫌いだった場所から遠ざかるため、逃げるためだけに歩を進めていたあの日と同じ。
 そういえば、あの日も冷たい雨が降っていた。
「はぁ」
 一つ、溜息を吐き出す。
 そして、自嘲気味に呟いた。
「かっこ悪ィ。これって家出ってやつ?」
 ハッと笑声が唇を割って出たけれど、それもすぐに消えた。
 そして、ふと思い出す。
 拾ってくれた『母』が居なくなったEDENに、自分が居る理由。


『お母さんはもう居ないのに、ボスはここにいるの?』


 あれは、唐突にリコが問いかけてきた問いだった。
 その問いに、自分は何と答えたのだったろうか。
「・・はは」
 思い出して、レヴィは再び苦笑する。
 自分は、よりにもよって、


 母さんはいなくなったけど、ずっとシャオがいるじゃないか。


 自分を拾ってくれた人がいなくなっても、それでも自分と一緒に『母』のもとで育ってきたシャオがいるから、EDENに居るのだと、そう答えたのだった。
 そして、
アイツ、知ってたのか・・?」
 思い出してレヴィは盛大に眉をしかめる。
 なぜなら、続けてリコが自分に向けてきた問いが、


『じゃあ、シャオに出て行けって言われたら?』


 まさに今言われちゃったんですけど? ってなモノだったのだから。
 しかもその問いに自分は、
居座ってないじゃん」
 また、苦笑。
 居座ると答えたくせに、今自分は、雨の中。
 あの時は考えもしなかったのだ。まさか本当に自分がシャオから拒絶されるなんて。そしてそれが、こうして何も考えずEDENを飛び出してしまうほど怖いものだなんて、思っていなかったから。
・・」
 いつの間にか、足は止まってしまっていた。
 そこは、灰色の大地が広がるcityの郊外。振り返れば、少し離れたところに、住み慣れたsilvery city。
 cityを出るのは、いつぶりのことだろうか。
 しかも一人きりで、こんな雨の中。
 勿論、人の姿などない。
 比較的大きなfall cityであるsilvery cityには、かろうじて自治が根付き始めていたが、そのcityを一歩出れば、そこは無法地帯。
 一人きりでそんな場所を歩こうという物好きはいない。レヴィ以外は。
 前髪を伝った雨の雫が、ツツッと頬を伝って落ちる。自分が泣いているようで恥ずかしくなり、慌てて雨の雫を手のひらで拭う。

 その雫は、思った以上に冷たい。
「はぁ」
 零れる吐息は、僅かに震えていた。
「あーあ。どうすっかなァ」
 何も考えずにEDENを出てきてしまった。何も持たず、着の身着のまま。
 このままEDENを離れることまではさすがに考えてはいないのだが、かと言って帰る勇気が今は生まれてこない。
  帰って、また拒まれたら?
 その恐怖が、レヴィに踵を返すことを許さない。
 こんなにもあの場所は自分にとって特別なものになってしまっていたのだ。失うなんて考えたこともなかった所為で、気付かなかっただけで。
 いつだったか、サヤが言っていた。
  シャオさんにとっても、レヴィはきっと特別なのよ。特別じゃなくちゃ、血の繋がりもないのに一緒に暮らすなんて出来ないわ。
 あの時は、「そうなのかなァ」なんて、照れくさく思いながらも、それでも少しは嬉しく思ったりもしたのに。
「おいおい。違ったぞ、サヤ」
 力なく、ツッコむ。 
 きっと彼にとって自分は特別なんかじゃない。簡単に出て行けと言ってしまえるのだから。
「アイツがオレのこと特別なわけねーじゃん」
 自分で呟いたその言葉に、また傷付く。
 歩き出す気にも、戻る気にもなれず、その場にしゃがみ込む。
 雨はまだ、しとしとと降り続き、レヴィの体を濡らしていた。
 そんなレヴィの背に、唐突に降りかかってきたのは、思いもかけぬ声だった。
「おい」
 人など歩いているはずもないその場所で唐突に背中から声を掛けられたレヴィは、まずそのことに驚いて振り返る。警戒心がまず先に立ったが、すぐにその声が聞き慣れたものであることに気付く。
 仏頂面で自分を見下ろしているのは、シャオだった。
「そんな所に居ても、母さんはもう来てくれないぞ」
 口調も、ぶっきらぼう。
シャオ」
 まだ怒っているのだろうか。けれど、こうしてわざわざやってきた。
(え? 何? 怒り足りないわけ??)
 きょとんとしながら、若干怯えつつ自分を見上げているレヴィに、シャオは小さく溜息を漏らす。どうやら自分がやってきた理由を、おバカな頭をフル回転させつつ考えているらしい。きっと見当違いなことを考えているに違いない。
 そんなレヴィの様子を見て、シャオは再び溜息を漏らした。今度の溜息は先ほどのものよりも若干大きい。
 それは、諦め。
(もう、いいか)
 レヴィのおバカさに、肩に入っていた力が抜けた。
 サヤに背中を押されて追いかけてきたはいいものの、「悪かった」と素直に謝るのは何だかしゃくである。というか、恥ずかしい。
 自分に非があることは分かっている。それも100:0の割合で自分に非があることも理解している。けれど、兄貴分としてのプライドが邪魔をする。弟分であるレヴィに頭を下げるのはどうにも照れくさくて、ついつい口調もぶっきらぼうになっていたのだが、もういいか、と観念する。
 いつだってそうだったではないか。
 喧嘩をした時には、いつだって自分が折れてやっていた。
 コイツには何を言ってもムダだ、というのが大半の理由ではあったが、自分の方が大人なのだから折れてやろうという気持ちもあった。
(俺の方が大人だしな。コイツ、アホだしな)
 と自分を言い聞かせることで、素直になることを邪魔しているプライドを押し込める。
「おい」
 もう一度呼びかけると、しゃがみこんだままのレヴィがビクッと肩を揺らして僅かに身構えたのが分かった。
 どうやらまた怒鳴られるのではないかと怯えているらしい。
 そんなレヴィの様子に、自分がどんな風に彼に当たり散らしたのかを思い出し、恥ずかしくなってレヴィから視線をそらしながら言った。
「こんな時間にこんな所をフラフラするな」
「・・・・」
 てっきりまた怒られるのだろうと思っていたが、意外にも向けられた言葉は自分を心配したもので、レヴィはきょとんとする。
 そんなレヴィに、シャオはさらに言葉を続ける。
「cityの外は危ない。変態さんに拾われても知らないぞ」
 cityの中でも未だ人攫いが絶えない。cityの外であれば、そのリスクはドカンと上がる。だから、誰も一人でcityを出ようという者はいない。
 今も、そして9年前も、こうして一人で歩いていたレヴィを拾ってくれたのは、幸いにも『母』だった。が、
「・・・母さんも、ある意味変態だったけど」
 ずいぶんと変わった人だった。
 おいおい、とつっこみながらも、シャオもそれを否定はしない。
「せめて変わり者と言え。殺されるぞ」
「もう、いねーもん」
 拾ってくれる人などもういないのだと、やさぐれた気持ちになってレヴィは唇を噛む。
 視線を地面へと落としたレヴィに頭上に、言葉少なにシャオが言った。
・・帰るぞ」
 その言葉に、レヴィはゆっくりと首をもたげ、シャオを見上げる。
 先程まではあんなに怒っていたのに。
「・・・なに? シャオが拾ってくれんの?」
 不思議そうに瞳を瞬いているレヴィにまっすぐな問いを投げかけられ、シャオは僅かに頬を染めながら、それを誤魔化すように不機嫌な口調で答えた。
「お前みたいなアホを野放しに出来るか。母さんが化けて出る」
「何だよ、それ」
 力なく反論するレヴィに、シャオは溜息を漏らす。そして、ついに観念する。
「・・・悪かった」
 思わぬシャオからの謝罪の言葉に、レヴィは驚きの眼差しでシャオを見上げる。
 今度はシャオも真っ直ぐ視線を逸らさずに言った。
「完全な八つ当たりだった。もう、忘れろ」
 シャオの詫びの言葉に、レヴィが肩から力を抜く。
 何が何だか分からないが、とりあえずシャオの怒りは解けたらしいし、八つ当たりというからには、何か自分がとんでもないことをしたが為に彼を激怒させたわけでもないらしい。
 ほっと安堵したところで胸に沸いてきたのは、ちょっとした不服。
結構、キたぞ」
「悪かったって。家出とか、やめろよな。ガキじゃないんだから」
「オレはガキだ」
「威張るなよ
「だって、人を好きになることもできねーんだもん」
「・・・何だ、それ」
 いったいどういうことだとシャオが首を捻ると、口を尖らせたままレヴィが言葉を紡いだ。
「だって、お前にもリコにもサヤにも好きな人が居て、それを悩んでんだろ。オレにはその気持ち、分かんねーもん。特別に誰かを好きになる気持ち」
 自分でも気付いていなかっただけで、特別に大切だと思える人が、場所があることは分かった。けれど、やはりシャオやリコ、サヤが抱えている、誰かを愛する熱い気持ちがどんなものなのかは分からない。
 だからきっと、シャオの気持ちが分からずに、自分は彼を苛立たせるのだろう。
 彼は八つ当たりだと言っていたが、原因にはきっと自分も絡んでいるはずだ。だから、あんなにまで彼は自分に対して怒りを露わにしたのだろうから。
「・・・オレだけが蚊帳の外じゃん」
 唇を噛んで俯いたレヴィに、シャオは盛大に眉をひそめて呟く。
今もうすでにバリバリ渦中の人物なんだけどな、お前は」
 蚊帳の外だと思っているのは、レヴィだけ。
「は?」
 何か言ったかと顔を上げたレヴィに、シャオはかぶりを振る。
「何でもない。お子様」
「うるせー」
「・・・お前は今のままでいい。変わるな」
 これまた意外な台詞に驚きながら、レヴィは「でも」と口を開く。
「変わらないと、お前はまた苛立つんだろ」
 その言葉にシャオは間髪いれずに否やを唱えた。
「いや、やめろ!! 下手に変わられるとそれはそれで苛立ち通り越して殺意を覚えてしまう状態に陥るかもしれないから、変わってくれるな!!」
 もしもレヴィが変わったら?
 彼が"大人"になってリコの想いに気付き、大人な態度でその想いをそっと断ってくれるのであれば、good!
 んがしかし、もしもレヴィが大人の階段を一つ上り、恋に目覚めたら? そのお相手が、よりにもよってリコだったら!?
 おそらく今回の非ではないくらいに彼に怒鳴り散らしてしまうだろうし、リコでなく彼の恋のお相手がサヤだったとしても、涙するリコの姿を見ていられなくて、きっとレヴィに当たり散らしてしまうだろう。
 変わらないで居てくれるのならその方が良い。
「いいな。絶対に変わるなよ!!」
 レヴィの両肩をむんずと掴み、ちょっと近すぎですよ的な距離で、懇願というよりはもはや命令な口調で迫られたレヴィは、
「お、おう
と、シャオのあまりにも必死な様に気圧されて、取り敢えず首を縦に振っていた。
 そんなレヴィに、シャオも落ち着きを取り戻したようだった。
 どん引きしているレヴィの肩を解放し、立ち上がる。
「そんなお前じゃなかったら、とっくに追い出してる」
「は? そんなってどんなだよ」
「おバカ」
「はぁ!?」
 突然、失礼すぎることをドストレートに言われ、レヴィは憤慨して立ち上がる。が、そんなレヴィの頭をシャオはポンと叩いた。
「ほら、バカな子ほど可愛いって言うだろ。だから、また大人げなく俺がキレても、居座れよ。本心なわけないんだから」
「・・・・」
 どうやら自分をからかおうとしているわけでもいじめようとしているわけでもなく、これも彼なりの詫びの続きらしいと気付き、レヴィは文句を言おうと開いた唇を閉ざした。
「こんなところを一人で歩いて、何かあったらどうするんだよ。母さんに祟られたくないし、雨の中は結構寒いだろ。家出はやめて、逆に立て籠もりとかにしろ」
 照れくささの所為なのか、一気に言い募ったシャオに、レヴィは思わず吹き出す。
「はは。何言ってんの」
 普段口数の少ない彼が、頬を染めながら息つく間もなく喋る姿など初めて目にする。
「饒舌だな、珍しい」
 思わず吹き出したレヴィに、バツが悪そうに前髪を掻き上げながら、ポツリとシャオは言った。
 それはいつも通り、ポツリと一言だけだったが、
「必死なんだ」

 重い、一言。
 必死で、自分を繋ぎ止めようとしているシャオの言葉に、レヴィは目を瞠る。
 彼も、一緒なのだ。
 自分がEDENを出て行かなければならない日が来ることなど考えもしなかったように、彼もまた、共に成長してきた弟分がEDENからいなくなる日のことなど考えたこともなかったのだ。
 そして、初めて考えて、怖くなったのだろう。
(・・・ビックリ、した)
 パチパチと紫色の瞳を瞬かせる。
 てっきり、彼にとっては自分などEDENにいてもいなくても何の影響もない存在なのだと思っていたのだから、驚いた。
「帰るぞ。レヴィ」
「・・・」
 未だ驚き醒めやらず、レヴィはEDENに向かって歩き出したシャオの後ろに続くことができなかった。
 そのことに気付いたシャオが歩みを止め、振り返る。その表情は不服そうだ。
「なんだ。これだけ口説いてるのに、まだ不満か」
「いや、なんか・・意外で そんなにオレのこと・・・」
 モゴモゴと口ごもるレヴィに、けれどシャオははっきりと言い切った。
「お前は他人にも興味ないし、自分にももっと興味がないんだろ。けどな、お前が思ってる以上にお前を特別に大切に想ってるヤツは多いんだ。それを分かっておけ。じゃないと、お前を特別に思ってるヤツが傷付くんだ」
 分かったか、と明らかにイエス以外の答えを許さないシャオの台詞に、レヴィは僅かに苦笑した後、
オレ、特別?」
思い切って、シャオに訊ねてみる。
 その問いへの答えは、若干の間の後、
「・・・・・まあ、雨の中でも拾いに行ってやるくらいにはな」
 素直じゃないけれども、イエスの答え。
 自分にとって兄貴分であるシャオは特別な存在であり、同じくシャオにとっても自分の存在は、特別なのだという。
  同じ、だ。
 兄を特別に想うように、弟を特別に想ってくれるように。幼かったあの日と同じ。けれど、それは温かさとは別の、冷たい過去を蘇らせる。
誰の特別でもなければ、誰もオレのために傷付かなくていい」
 傷付いた兄の姿が瞼裏をチラつく。その台詞は、我知らずレヴィの唇を割って零れ落ちていた。
「・・・それがお前の持論か」
 誰に聞かせるでもなくポツリと零されたその言葉を、シャオが拾う。
 そして、笑い飛ばして言った。
「安心しろ。オレの特別は、そんなにレベル高くないぞ」
「レベル?」
 どういうことだと眉をしかめたレヴィに、シャオは僅かに笑いながら言った。
「これが雪の中だったら、拾いには来てないレベルだ」
「・・・」
 シャオのその台詞をどう受け止めようかと迷っていると、さらにシャオが言葉を紡いだ。
「重すぎず、でいいだろ?」
 その軽い調子に、気付けばレヴィもつられて笑ってしまっていた。
「はは。だな」
 何だか、深く考え込んでしまっている自分がバカみたいな気がしてきた。
 笑っているレヴィの肩を、ぽんと叩いてシャオは再び歩き出す。
「お前は変なことを深く考えすぎなんだよ」
「かもな」
 シャオにそういわれると、そんな気がしてくるから、不思議。
 またレヴィは笑った。
 そして、歩き出したシャオの背を見遣る。
 遠ざかって行く雨の中の背中。
 蘇るのは、幼い日の記憶。
 silvery cityの郊外をただ一人きりで歩いていたあの雨の日、『母』に出会った。


  行くところがないのなら、おいで。


 そう言って差し伸べられた手を、すぐには取ることが出来なかった。優しい顔をした怖い大人の姿を、イヤというほど見てきたから。
 そんなレヴィに、彼女は言った。


  あたしは無理には連れて行かないよ。全ては自分の責任だ。ついてくるか、どうか、自分で決めな。


 9歳の子供に向けるには厳しすぎる言葉を残して離れていく背中。
 どうしたらいいのだろうかと途方に暮れその背を見つめるしかなかった自分に掛けられた、もう一つの声。
 『母』の隣で黙って立っているだけだった自分と同じくらいの年の少年が、立ち止まって自分を見ていた。不思議そうな瞳で、彼は訊ねてきた。


  寒いのが好きなのか?


 嫌いだと答えた自分に、
  なら、来ればいい。


 簡単なことじゃないかと言って、差し出された手。
 ああ、そうなのか。簡単なことなのか。
 何故か納得して、その手を取った。
 EDENへと導かれた、遠い日の思い出。あの日と同じ瞳で、シャオが問う。
「おい、寒くないか?」
「・・寒い」
 あの日と同じように、また、EDENへ。
「だろ。だから、帰るぞ」
「・・・おう!」
 取りあえず、寒いので帰ればいいらしい。
 何故か、また納得。
(ま、いいか。今回も納得してやるか)
 EDENへの道を、あの日とは違って、今度は二人で。
 いつの間にか頬に当たる雨を温かく感じていたのは、あの日と同じだった。
   






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