35 ☆お兄ちゃんの八つ当たり


 夜明けを間近に控えた、Silvery city。
 そのcityの中央、いつもcity中にコーヒーと甘いお菓子の香りを振りまくcafeEDENの入口には、当然のごとく未だclosedの看板が揺れている。
 んがしかし、店内にはすでに人の姿がある。
 1階のフロアの奥、未だ開店の準備をするには早すぎる店内にいたのは、がっくりと盛大に項垂れているシャオ。
 いつもEDENの住民が食事をするテーブル上には、ゆらゆらと揺らめくろうそくの明かり。
 それに照らされるシャオの表情は、これでもかと暗い。
 テーブルに両肘を付き、その両手の甲に額を当て、シャオはがっくりと項垂れていた。そうしてどれくらいの時間が経ったのだろうか。
 夜、いつも通りの時間、いつも通りにベッドに入った。入ったはいいが、一向に眠気は訪れてくれなかった。
 眠らなければと思えば思うほど、目は冴えていき、瞼裏まなうらによみがえる、あのシーン。


 キラキラと輝きを溢れさせている眩しいリコの笑顔。
 ピンク色に染まった可愛らしい唇から自分に向けられた残酷すぎる台詞。


  サヤちゃんがボスに惚れそうだから、サヤちゃんと付き合って 


「キッツー・・・」
 思い出して、シャオはさらに深く項垂れる。
 そんな彼の前には、すっかり温くなった酒がある。氷も溶けきったウィスキー。
 ついやけ酒をせずにはいられないほど、ダメージは大きかった。あの台詞の破壊力は大きかった。大きすぎた。
 自分は、リコが好きなのだ。
 好きな人に、自分の恋のために別の女の子とつきあって欲しいと言われた衝撃たるや。
 その後、店を閉め、夕食を食べたはずなのだが、一切記憶がない。
 それなのに、リコに、サヤと付き合って欲しいと告げられたときの記憶だけは鮮明だ。
(いっそ、そこの部分をキレイに消し去ってくれ、俺の脳)
 思わずそう願わずにはいられない。
 けれど、瞳に焼き付いたリコの満面の笑みと、耳に刻み込まれたあの台詞は消えてくれない。
「・・・・はぁああああ」
 魂までをも吐き出すかのような、長く深 い溜息がテーブルの上に零れ落ちる。
 ついでにバタンとテーブルの上に上半身を投げ出した拍子に、
 ガシャン。
 すっかり存在を忘れていたウィスキーのグラスが、テーブルからその身を投げた。
「あー・・」
 しまった。片付けなければ、と思いながらも、体は動かない。
 酒で思考がのろくなっているのか、あまりのショックに、心が麻痺してしまっているのだろうか。
絶対このグラスより、俺の心の方がバラバラだ)
 肩肘をつき、そこに頬を乗せながら、床に散らばったグラスの破片を眺める。
「はぁ」
 また、溜息が零れる。
 その後には、また静寂がフロアを包みこんだ。
 そして、耳の奥に蘇るリコの声。

 残酷な台詞。
 再び唇から溜息から溢れそうになったそのとき、不意にフロアに足音が響く。
 誰だとフロアの入口へと視線を遣れば、

 最悪のタイミング。
「おわっ またかよ」
 真っ暗なフロアの中、ろうそくの明かりのみに照らされそこにいるシャオの姿に驚きの声を上げたのは、レヴィ。
 その手には、大きなフライパンが握られている。
 物音に気付き、泥棒でも入り込んでいるのではと警戒して武器を持参したようだった。
 そこにあるのがシャオの姿だと気付いたレヴィは、ほっと安堵したらしく、フライパンをカウンターの上に置く。
「どうしたんだよ。また何か考え事?」
 この間も、夜中に一人でフロアで考え込んでいたシャオ。
 どうしたんだと心配するレヴィに、けれどシャオはすいっと視線を逸らして答えた。
「何でもない。悪いけど、そっとしておいてくれ」
 今、一番見たくないのが、レヴィの顔。
 早く立ち去ってくれとの願いを込めた所為で、口調は刺々しい。
「でも
「いいから。早く行けよ」
 勝手なことを言っているのは分かっている。
 ロナという少女の想いに答えるべきか、リコへの想いを貫くべきか迷っていた、あの夜。あの時には何の事情も伝えないまま、意見を求めたくせに、今度はさっさと追い払おうとしている。
 レヴィは、純粋に自分を心配してくれているのだろう。それは分かっている。けれど、今は心の余裕がない。
 早く遠ざけないと、傷つけてしまう。
 それは本意ではない。
 けれど、レヴィは立ち去ってくれなかった。ゆっくりと歩を進めてくる。
 彼の視線がテーブルの下の割れたグラスに注がれ、辺りに漂うアルコールの香りに僅かに眉根に皺を刻み、シャオを見遣った。
 こんな風に酒を飲むシャオの姿は、初めて見る。
 放っておいて欲しいと言われたが、これではますます立ち去るに立ち去れなくなってしまった。
「・・・何だよ。また悩んでんのか?」
 遠慮がちなレヴィの問いに、返すシャオの言葉は冷たい。
「そうだよ。だから、早く行けよ」
 いつにない拒絶の言葉に、レヴィは目を瞬かせた後、殊更明るい声でシャオに話しかける。彼なりに、シャオの気持ちを浮上させようという意図だったのだが、それは見事なまでに功を奏しなかった。
「悩み多きお年頃だなー。あんまり悩みすぎてると、ハゲるぞ
「お前が何も分かってないから俺が悩んでんだ!!」
 普段物静かな彼からは想像もつかないほどの大音声。そして、乱暴に捕まれた己の胸ぐらに、レヴィは、唖然とする。
ハゲは逆鱗だったか?)
 と首を傾げたが、今回ばかりは、彼もお気楽な思考のままでいるわけにはいかなかった。
なに? オレの所為?」
「そうだよ! お前だよ!!」
「・・・・・」
 激しい口調のまま怒鳴りつけられ、レヴィは口を噤んだ。
 こんなにまで彼が怒っている理由が、レヴィには分からない。分からないが、その理由を、今シャオに問うことはできなかった。
 シャオがレヴィに問うことを許さなかったから。
「何でだよ! 何でお前なんだよ!! 俺の方がずっとずっとアイツを想ってきたのに、なんで今更お前なんかに取られなくちゃなんねーんだ! 納得いくわけねーだろ!!」
 レヴィの胸ぐらを掴んだまま、シャオは一息に言い放った。
 次に訪れた沈黙の中には、昂ぶらせすぎて上がったシャオの息遣いだけが響く。
 それを聞きながら、レヴィは小さな声で問う。
「・・・何の話だよ」
 シャオが何を言っているのか、全く分からない。
 シャオのあまりの激情に驚いてしまって、彼の言っていることがほとんど頭の中に入ってこなかった所為もあるが、純粋に、彼が何のことを言っているのか分からない。
 自分が彼から何を奪ったと?
 困惑に眉をひそめるレヴィを見遣り、シャオは乱暴に舌打ちをすると、突き放すように彼の胸ぐらを解放した。
 その勢いによろめくレヴィに、シャオは再度怒鳴った。
「そうやって何も分かってないくせに、分かってない内に攫っていきやがって! そういうのが一番腹立つんだよ!!」

 レヴィには、目を瞬かせることしかできない。もう、何も答えることも問うこともできなかった。
 口を噤んだレヴィに、けれどシャオは止まらない。
 この激情を止める方法が今の彼には分からない。
「何なんだよ、お前は! どうしたらいいんだよ、俺は!! 畜生!!」
 ドン!! と大きな音をさせてテーブルに拳を叩き付けたシャオに、レヴィは噤んでいた口をおずおずと開いた。
 こんな風に怒りを爆発させるシャオの姿など、知らない。
 いつだって大人な彼が、自分がどんなにバカなことをしても許してくれていた。それが今は、許しの言葉を告げるチャンスさえも貰えない。理由さえ教えてもらえない。
オレ、居ない方がいいか?」
「だから行ってんだろ! 早く行けよ!!」
 完全な拒絶。
 一瞬、息が止まる。
 ずっと一緒に暮らしてきた。『母』の下で、一緒に育ってきた。
 いつだって怒らせるのは自分で、許してくれるのは彼。
 今だって、怒らせたのはたぶん自分で、でも、もう彼は許してくれない。

 先ほど胸ぐらを押された時よりも、痛む、胸。
(オカシイな、オレ)
 こんなの、おかしい。
(何で、こんなにくらっちゃってんの)
 痛む胸と、案外に冷静な自分。
 いつもなら、笑って言えた。
「もう、怒らない怒らない。ごめんってばー
 なんて言って、結局、シャオが許してくれていた。
 でも、今は言えない。
(だって、怖ェじゃん)
 これ以上シャオに拒絶されることが、怖い。
(・・・ほら、やっぱり死ぬほど怖いじゃん)
 それは、いつだったかサヤに言ったこと。


 特別 だから、怖い。


 だから、もう、要らないと思った。
 もう特別な存在なんていらないし、特別な存在にならなくてもいい、と。
 わざわざ特別な存在を作って、余計に傷付きたくないから。
 やはり、そうだった。正解だったのだ。
 特別な人の言葉でなければ、こんなに痛いわけがない。
(特別じゃなければ・・・って、あ)
 そして、レヴィは気付く。
(特別だって認めちゃってんじゃん、オレ)
 冷たい雨の中からEDENに攫われて、そこから今まで自分を育ててくれていたこの場所の温かさは、やはり特別なものだったのだ。
 手を差し伸べてくれた『母』、一緒に育ってきたシャオ、拾われてくれたリコ、新しく家族になってくれたサヤ、いつも一緒に遊んでくれたウォン。
特別、だったんだ・・・)
 気付かなかっただけで、気付こうとしなかっただけで、とっくに自分にとってEDENは特別な場所だった。
 そして、シャオは、特別だったのだ。
 だから、今、こんなに 痛い。
 唇から、ハッと息が漏れた。
 それは、止まっていた呼吸が戻った音だったのか、自嘲の笑いだったのか。
ごめん」
 小さな小さな声で、それだけをシャオに告げ、レヴィは踵を返した。
 これ以上の拒絶の言葉は聞きたくない。
 トントントン。
 ゆっくりとした足取りで、2階へと上がって行くレヴィの足音を、シャオはきつく目を閉じて聞いていた。
 やがて、扉を閉ざす音がかすかに聞こえたところで、シャオはゆっくりと瞼を持ち上げた。その唇から、
「はぁ」
溜息が零れる。
 瞳を閉ざし、見ないように努めていたけれど、それでも気になって垣間見たレヴィの表情は、これまでにシャオが見たことのないものだった。
 どうしていいのか分からないと途方にくれ、雨に濡れているような顔。
 それは、9年前、『母』が彼を拾ったあの日のレヴィを思い出させた。
「ついてくるか、どうか、自分で決めな」
 そういって歩き出した『母』の背中を見つめて、レヴィはどうしたら良いものかと途方に暮れていた。しかし、それでもそのアメジストの大きな瞳の中には、僅かに希望の光があった。
 しかし今、あの美しいアメジストにあったのは、絶望の光だけ。
 その哀しい光を灯させたのが自分だということに、激しい自己嫌悪が募る。
「大人げないな、俺」
 あれは、完全な八つ当たりだった。後悔することは分かっていたのに、どうしても止められなかった。
 あんな顔をさせるつもりはなかった。
「ああああああああああ、最悪だ」
 両手で頭を抱える。
 そうして訪れた沈黙の中、かすかに響くのは、雨音。
 顔を上げて、シャオはEDENの入口へと視線を遣る。固く閉ざされたそこから外をうかがうことは出来なかったが、僅かに空が白んできていることは、ガラス越しにも分かった。
 そして、やはり雨音が耳に付く。
「・・・雨、か」
 久しぶりの雨。
 雨音に耳を傾けていると、再びフロアに足を踏み入れた人物がいた。
「どうかしたんですか?」
「サヤ」
 視線を遣れば、寝間着のままのサヤが心配そうな顔で自分を見つめていた。
「ごめんなさい。知らないふりできなくて・・」
 自分が落としたグラスの所為か、それともレヴィに浴びせた怒声の所為か、サヤを起こしてしまったらしい。
「ごめん。起こしたな」
「いいんです」
 気にしないでと首を左右に振ったサヤだったが、何か言いたげな表情のまま、彼女はフロアの入口に立ち尽くしていた。
 そんなサヤの様子に、シャオは察する。
 おそらく彼女は、自分とレヴィとのやりとりを見ていたのだろう。
「・・・聞いての通りだ。俺がみっともなくレヴィに八つ当たりしただけだ」
 自虐気味に言ったシャオに、サヤはそっと問う。問うまでもなく、答えは分かっていたけれど。
「リコちゃんのことですか?」
「・・・ああ」
 小さく頷いたシャオに、サヤは眉を寄せる。
「レヴィは、何もしてないです」
「ああ」
 そう。レヴィは何もしていない。ただ、リコが彼に恋をしてしまっただけ。それがシャオには耐えられない。
 その気持ちはサヤにも分かる。
 大好きな人に、別に好きな人がいる。サヤも、そんな恋をしていたのだから、よく分かる。
 そして、その好きな人が、自分のよく知る人、ましてや近しい人であるというその事実。シャオの気持ちを推し量れば、彼がああして激昂してしまったのも理解できなくはない。
 けれど、そうして激情をぶつけられたレヴィの哀しい顔を見てしまっては、サヤも黙ってはいられなかった。
「レヴィが望んであなたを苦しめてるわけじゃない」
「・・・分かってる」
「それなら早く行ってください。レヴィにあんな顔させるなんて、シャオさんでも許せない」
 言って、サヤは2階を指さす。
「・・分かった」
 有無を言わせぬサヤに、シャオは腰を上げた。だが、自分が地面へと落としたグラスを目にして、一瞬足が止まる。
 そのことに気付いたサヤが、「いいから」と彼を急かす。
「私がやっておきますから」
「すまない。頼んだ」
「はい」
 みっともない姿を見られ、挙げ句、こんな後始末まで彼女にさせてしまう情けなさで彼女の顔をまっすぐに見ることができないまま、サヤの横を通り過ぎ、2階への階段を上っていく。
 そんなシャオの姿を見送り、サヤは小さく溜息。
 きっと彼も、レヴィにあんな言葉を投げつけてしまったことを後悔しているに違いない。ただ、兄貴分であるプライドから、すぐには謝りに行けないだけで。
 もう一つ溜息を零してから、サヤは厨房からほうきとちりとりを取ると、テーブルへと足を向ける。
 割れたグラスに近づくと、酒の匂いが鼻についた。
「・・・何があったのかしら?」
 シャオがお酒を飲みたくなるほど、そしてレヴィにあんな風に当たり散らすほどの何があったのだろうかと首を捻る。
 確かに、夕食の時は心ここにあらず、といった感じだった。そんな彼とは対照的に、スカッとした顔をしたリコの姿が印象的だった。
(リコちゃんに何か言われたんだろうけど・・)
 あそこまでシャオを追い詰めるのは、いったいどんな台詞だったのだろう。
 ちょっと興味を引かれつつ、サヤがグラスを片付け始めた時だった。
「あれ?」
 トントントン、と階段を下りてくる足音が近付いてくる。
 誰だろうと視線を向けると、上着を羽織ったシャオが姿を現した。
 まさかレヴィと口論になった挙げ句、家を飛び出そうとしているのだろうかと心配していると、言葉少なにシャオがサヤに告げた。
「レヴィ、拾いに行ってくる」
 どうやら家を飛び出したのはレヴィの方だったらしい。しかも、2階の窓から。
「気を付けて」
「ああ」
 送り出すサヤの声に頷いて見せ、シャオはEDENの扉をくぐり、朝を迎え始めたsilvery cityに足を踏み出していた。







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