34 ☆撃沈お兄ちゃん


「あーあ」
 トントントンと、階段を下りる足音は軽やか。けれど、その足取りは、重い。そして、自然と唇から零れ落ちるのは、これまた重い溜息。


  あたしとサヤちゃん、どっちが好き?


 大好きな人に突きつけた問い。
 大好きな人が自分ではない別の女の子と仲良くしているその様子を見ているのに、胸が焦げ付きそうなほどイヤな気持ちになった。
 この感情の名に気づかないほど子供ではない。
 嫉妬。
 どれだけ抱えたって仕方のない感情だということは分かっているし、これを表に出すことがどんなに子供っぽいことなのかもよく分かっている。
 けれど、溢れて溢れて、止まってくれない感情。
 止める方法は、ただ一つ。


  あたしとサヤちゃん、どっちが好き?
 

 この答えが、己の望むものであれば、きっと、止んだはず。
 しかし、答えは貰えなかった。
(・・・欲しかったような、欲しくなかったような)
 その答えが、自分の名前であれば、欲しかった。
 そうでないなら、聞かなくて、良かった。
(あたしってば、ワガママー)
 思わず苦笑する。
 しかし、その笑みもすぐに消える。
 階段を下りきったところで、足が止まる。
 廊下を抜ければ、cafeEDENのフロア。その手前には、厨房への入り口がある。
 そこからは、いつも甘い匂いが溢れていた。
 今も、そう。
 いつもは大好きなその匂いが、今はまた胸をうずかせる。その匂いの間から、大好きなあの人と、自分ではない女の子の笑声が聞こえてくれば、それも仕方のないこと。
 レヴィとサヤの話し声が聞こえてくる。

 リコは、きゅっと唇を噛みしめる。
 そして、後悔する。
(さっき、言ってれば良かった・・)
 唐突な自分の問いに戸惑い、けれどもひたすらに優しくて温かい手で頭を撫でてくれたレヴィ。
「・・好き。ボス、好き」
 さっきは言えなかったこの言葉。
 もしも彼に伝えることができていたら、何か変わっていたかもしれない。
 あの優しい手の温もりが自分のものになっていたかもしれない。
「好きなの」
 正直に言っていたら、どんな言葉を返してくれていたのだろう。
 ボスが、あたしの全て
 ボスに拾われて救われたあたしには、彼が全て。
 だから、絶対に言いたくなかった。
 拒絶されたら生きていけない。だから、言ってはいけない言葉だったはずなのに
 言えないことが、今はもどかしい。
 また、胸がジリジリと痛くなる。
 その痛みを振り払うように、リコは首を振る。ふわふわとしたブラウンの髪が大きく跳ねた。
「・・・お店、出なきゃ」
 地面に縫い付けられてしまったかのように重くなってしまった足を、どうにか歩ませる。
 壁に口を開けた厨房への入り口を通り過ぎる間際、

 また、足が止まる。
 大好きなレヴィと、サヤの声。
「・・ダメ」
 分かっているのに、己の意志に逆らって視線がそちらへと吸い寄せられる。そして、また後悔する。
 見なければ、嫉妬することもないのに。
 厨房の中では、レヴィがサヤのケーキ作りを手伝っていた。
 それは、いつだって厨房の中にある光景。
 でも、今は、胸の痛みなくしては見ることが出来ない。
 出来ることならば、突入してぶち壊してしまいたい空間だった。
 リコに背を向けている二人には、そんなリコの物騒な視線になど気付けないでいた。
「レヴィ、ごめん。あれ取ってくれる?」
「はいよ」
 レヴィのお手伝いは、これくらい。レヴィがスイーツ作りで手伝えることはほとんどない。
 フロアが暇な時に、フラリとやってきてはイスに腰掛けてサヤのケーキ作りを眺め、時々手伝うだけ。
 すでに時刻は夕刻を迎え、外もうっすらと夕闇に包まれ始めている。
 新しい客がくる気配もなく、すでに空腹を満たした客は、コーヒーをすすりながらお喋りに興じていた。
 客の呼び声が届くようにカウンターからほど近い厨房の入り口に立ち、レヴィはサヤといつものように喋っていた。
「はい、サヤ」
 取って欲しいと頼まれたフォークを、差し出されたサヤの手のひらに乗せる。
「あっ」
 突然、サヤが小さく声を上げて、フォークを床へと滑らせた。
 カシャン、とフォークが床で跳ねるのを見遣り、それを拾い上げる。
「なんだ? 静電気?」
「ご、ごめん
 手のひらを己の胸元に引き戻し、ぎゅっと握りしめる。
 ビリッと来たのは、本当。
 でも、それはきっと静電気ではない。不意に手のひらに触れたレヴィの指の温もりに、反応してしまっただけ。
(な、何だろ、これ・・)
 ドキドキと鳴る胸の鼓動にサヤは狼狽える。
 これではまるで、
(恋してるみたいじゃない
 自分で閃いたその可能性に、カアッと頬が熱くなる。
「大丈夫かよ。ほら」
 床に落ちたフォークの代わりに、別のフォークを手に取り、レヴィがサヤに手渡す。今度はサヤが取り落とすことのないように、
「落とすなよ」
 両手でサヤの手を握り込み、フォークをしっかりと握らせる。
「/////あ、ありがと
「おう」
 どういたしましてと笑うレヴィを、サヤは見ることが出来ない。
 頬が熱い。
「すいませ ん」
「は い。今行きます!」
 フロアからの声に、ぱっと身を翻し、レヴィが厨房から姿を消した。
 ほっと息をつくのは、厨房に残されたサヤと、廊下から二人の姿を見つめていたリコ。


 ジリジリ、する。
 胸の痛みを、リコは再び唇を噛みしめながら、耐える。
 視線の先には、レヴィに触れられた手を胸に抱くサヤの姿。
・・・」
 たまらない。
 さっきまで自分の頭を撫でてくれていた手が、サヤの手に触れている。
 先ほどまではどうしても動こうとしなかった足が、今は勝手に歩き出す。逃げ出すように、リコはその場を後にしてフロアに飛び出していた。
 レジ前で、レヴィが笑顔で客を送り出していた。
 そんな彼の横顔を、じっと見つめる。
「・・ヤだ」
 あの手を、あの温もりを、あの人を、誰にも渡したくない。
 と、立ち尽くすリコの肩を、そっと叩く者がいた。
「どうしたの、リコちゃん」
 2階から下りてきたウォンだった。
 いつも通りのゆったりとした笑みを浮かべているウォンの姿に、リコは思わず瞳をうるませる。
「ウォンさ ん!!」
「な、なになになになに!!?」
 突然絶叫をかましたリコに、客の視線が一斉に集まる。その視線をものともせず、リコは目を白黒させているウォンの腕を引っ掴み、EDENを飛び出していた。
 向かうのは、お隣。ウォンの診療所だ。
 診療所に入るなり、リコは再度、
「むき っ!!」
 絶叫した。
「ちょっと
 ウォンが慌てて診療所の扉を閉める。
「どうしたの、リコちゃん」
「もう、胸が・・・かきむしりにむしりまくってしまいたいくらいイライラする っっっ!!」
「どうどうどう。まあ、座りなよ」
 両手で頭をかきむしるリコの奇行に臆することなく─というかもう慣れっこ─ウォンはリコにイスを勧め、手際よく準備した水を彼女に手渡す。
「ふぅ」
「落ち着いた?」
「うん」
 ありがとうとグラスを返してきたリコに、どういたしましてと返しながら、ウォンはいつもそうしているようにデスクの前の回転イスに腰を下ろした。そして、ズバリリコに言った。
「レヴィのことでしょ。今度はどうしたの」
 いつだってウォンはリコの相談相手。一番のお兄ちゃんだ。
 彼には細かなことを説明しなくても分かってくれる。それに甘えて、リコはウォンにポツポツと語った。
「あのね、ウォンさん」
「うん」
「最近、ボスとサヤちゃんが仲良いの。ソレ見てたらもう、キ ッ!! ってなっちゃうの」
「そっか」
「ヤだな−。これが世に言う醜い女の嫉妬ってヤツでしょ!? ヤだ っ!!」
 再び頭をかきむしるリコに、ウォンは小さく笑って言った。
「それだけ真剣に、レヴィが好きってことなんだね」
 ウォンの言葉に、リコはぴたりと腕を止めて、小さく「うん」と頷いた。そして、僅かに唇を尖らせながら口を開く。
「・・・あたし、サヤちゃんはシャオのことが好きだと思ってたのに」
「へー。さすが女子! レヴィとは違うね」
 気付いてたんだ、とほめるウォンに、リコがカッと両目を見開く。
「ああああああああああああああああああんなニブ男と一緒にしないでくださいっっっ!!」
 リコの心からの絶叫とその形相に気圧され、
「ご、ごめん。真剣に反省するよ」
 珍しく心の底からの詫びを口にしたウォンにリコも怒りを収めたようだった。
「・・・サヤちゃん、シャオのこと諦めて、ボスにしたのかな」
 その台詞に、ウォンは気付く。
(リコちゃんは、シャオの気持ちが自分に向いていることには気付いてないわけか)
 自分に向けられる気持ちには、無頓着らしい。
 そこは、レヴィと一緒。
 だが、それを言ってしまったらまた怒られるので、お口チャック★
「あ 何でボスなの あんなののドコがいいの!? 顔だけじゃん。中身イケてないじゃん」
「・・・そこまで言うかな」
 かわいさ余って憎さ百倍。
 苦笑するウォンに、リコが畳みかける。
「だって、誰にでも優しいのに鈍いし、カッコイイのにオシャレには無頓着で鈍いし、見た目キレイなのに男気あるけど鈍いし、スタイルいいのに鈍いし、憂いある横顔が超色っぽいのに鈍いし、こんだけモテてるのに1mmも気付けないニブちんだし、とにかく鈍いのに!!」
「随所にちりばめられた鈍さアピールが尋常じゃないよ」
「だって尋常じゃなく鈍いんだもん」
「うん。否定できないよ
「あーあ。シャオとサヤちゃんがくっついてくれればひとまず安心なんだけどな」
 一番身近で、一番手強い敵が片付くのに。
 と呟いたリコに、ウォンがニタリと笑った。勿論、リコの視線が自分に向けられていないことは把握済みだ。
 次にリコがウォンに視線を向けた時には、その恐ろしい笑みはナリを潜め、いつもどおりの穏やかな笑みが彼の顔には浮かんでいた。
 そして、彼は言った。
「リコちゃん、言ってみたら?」
「何を?」
 きょとんと目を瞠って首をひねったリコに、ウォンが告げる。
「シャオにそう言ってさりげなく勧めてみたらどう?」
 に っこりと人のいい顔で、最低最悪な提案。
 念のため再度お知らせしておきますが、この男は知ってますよ。シャオがリコに恋心を抱いていることを知っているんですよ。
 それでも、彼はとっておきの笑みを浮かべながら、リコに言い聞かせる。
「シャオはお兄ちゃんなんだから、何でも話せるだろ? 言ってごらんよ」
 それこそ一番のお兄ちゃんで、リコにとっては唯一身近な大人であるウォンからの進言に、リコはそれを素直に受け入れることにしたらしい。
「・・・・そっか。あたしから勧めればもしかしたらうまくいっちゃうかも。サヤちゃん良い子だし、シャオもきっとその気になるよね」
 まんまとノって来たリコに、ウォンは内心ほくそ笑みつつ、大きく頷いて見せる。
「うんうん。そうだよ。さあ、善は急げ、だ!!」
 言うなりウォンは、パチン! と指を鳴らした。
「ハイ!!」
 とっても良いお返事とともに、リコはウォンの診療所を飛び出して行った。
 そして、素直なリコは、ウォンに言われたとおり、シャオを捕まえると無邪気に言い放った。
「シャオ。サヤちゃんがボスに惚れそうだから、シャオ、サヤちゃんと付き合って」
 ドストレ────────ト!! クリティカルヒ───────ット★


 シャオが死ぬほど落ち込んだのは言うまでもない。


 そしてその様子を盗み見て、ほくそ笑むウォンの姿があったことも、言うまでもないだろう。
 シャオ。  アーメン。






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