トン・トン・トン・・ 「ふあ・・あ」 唇から零れる欠伸を噛み殺すこともせず、ゆっくりとした足取りで2階の寝室から1階のカフェへと降りてくる人物が一人。 くせのない黒髪を撫でつけただけ。既にカフェの制服でもある白いカッターシャツと黒いスーツパンツ、膝を過ぎ、ふくらはぎの辺りまでを隠したエプロンを身につけ、朝食作りのためEDENの住人の誰よりも一番に起き出してきたのは、このEDENの若き経営者 シャオだった。 そこまでは、いつもと変わらない朝。しかし、 「ふぁぁぁぁあ。眠い」 欠伸の数がいつもとは違う。見れば、その目は僅かに充血している。十分な眠りが取れなかったことは一目瞭然だった。 それもそのはず、昨夜の出来事を思えば彼のその様子も納得だろう。 そして、いつもの朝と違うことが、もう一つ。 「・・ん?」 厨房に入ろうとしたシャオが足を止めた。厨房から、物音が聞こえたからだった。 どうやら今日は自分が一番乗りというわけではなかったらしい。では、一体誰だと厨房に足を踏み入れたシャオを迎えたのは、 「お。おはよ♪ シャオ」 シャオと同じくカフェの制服に身を包んだ、レヴィだった。 切れ長の瞳が限界まで見開かれ、顎が外れたのではないかと心配になるほど口を縦に広げたシャオに、しゃあしゃあとレヴィが問いかけた。 「よく眠れたか?」 見りゃ分かんだろーがよ、おい!! と朝っぱらからcityを揺るがすほどの大音声を放ってしまいそうになるのを辛うじて堪えたシャオは、徐に右腕を上げ、 「 」 無言でレヴィの左頬を殴った。勿論、拳で。 「 っっっってェ!! いってェな、おい!!」 あまりにもいきなりすぎるシャオの強襲をくらったレヴィは、よろめいた体を何とか己の足で支え、左頬を押さえシャオを睨みつうける。そのラベンダーの瞳には涙が滲んでいたが。 レヴィを殴った己の拳の痛みと、痛みを訴えるレヴィの様子を認めたシャオは、 「い、痛いのか!? じゃあ、夢じゃないんだな!?」 更に驚きに目を瞠る。 どうやら、レヴィが自分よりも先に起き出してきたことがどうあっても信じられなかったらしい 。夢なのではないかと疑うほどに信じられず、思わずレヴィを殴ってしまったらしい。昨夜の 騒動を巻き起こしたにも関わらず、いつもと変わらぬ能天気な笑顔で朝っぱらから自分を迎えてく れた礼のつもりも、無意識ながら含まれていたのかも知れないけれど。 シャオが夢か否かをレヴィの体でもって確かめたことを察したレヴィは猛然と反発する。 「ひでェ!! 鬼っ!! 鬼シャオっ!! 自分の体で試しやがれ っ!!」 「断固拒否だ」 「はぁあ!? このヤロ っ!」 「昨日の罰だと思え」 「 」 拳を振り上げたレヴィの動きが、ピタリと止む。 あまりにも唐突に静かになったレヴィに、シャオが僅かに目を瞠る。 「・・・レヴィ?」 急にどうしたのかと彼の表情を窺い、シャオは驚いてしまう。シャオに、そんなつもりはなかったのだ。「昨日の罰だ」と、そう口にしたのは、何も彼を責めたかったわけではない。 だが、レヴィは唇を噛みしめ、苦しげに瞳を細めていたのだ。 いつもと何ら変わらぬ態度で自分を迎えておきながら、その実、彼は昨夜のことをシャオよりも気にしていたらしい。 「お、おいおいおい、そんな真剣に 」 逆にシャオの方が慌てて己の言葉を撤回しようとしたのだが、 「悪かった。ホントに」 「レヴィ・・」 ガバッと勢いよくレヴィが頭を下げた。 「オレ、みんなを傷付けた。オレはお前のためだって思って、それで・・リコに・・。だけど、結局リコのことも、サヤのことも、お前のことも傷付けただけだった」 それはレヴィの心からの謝罪のようだった。初めて聞いたのではないかと思うほどに真剣な声音と、徐に上げられた顔に浮かぶ苦しげな表情がそれを物語る。 喧嘩なんて、しょっちゅうだった。むしろ、日常茶飯事だと言ってもいい。いつもその喧嘩の終結は、あっけない。 「ごめ んね」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・もう、いい」 というレヴィの適当な謝罪とシャオの諦めでもっていつもの喧嘩は終結を向かえる。今回も、そんな適当な謝罪か、もしくはいつもと何ら変わらぬ態度でもって接してくるレヴィによって「なかったことにしよう」と自分が諦めるのだと思っていた。 「お。おはよ♪ シャオ」 と、彼がいつもと変わらぬ笑みで自分を迎えた瞬間に、今回の喧嘩はなかったことになるのだと察したのだが、違ったらしい。 今回の騒動が新たなパターンを迎えているのは、いつもとは違う喧嘩の発端の所為だろう。 いつもは、つまみぐいをしたvsしていない、割った皿を何処へ隠したvs隠していないetc... しかし今回の騒動の発端は 恋。 今までそんな言葉とレヴィは無縁だった。しかし、自分の兄と言っても差し支えのないシャオがリコに恋をしているのだと知った。その恋に苦しんでいるのだと知り、居ても立ってもいられなくなって、リコを呼び出した。そうして、リコを傷付け、シャオまでも傷付けてしまった。 レヴィはいつもの、「ごめんね」では済ませることができないほどシャオが傷付いたことを察したのだ。だから、初めて真剣に詫びる。そうしなくては、己の胸が痛くて仕方がなかったから。 「ホントに、ゴメン。オレ、マジで反省してるんだ。ごめん、シャオ」 真剣に詫びるレヴィに、シャオは徐に唇を開き、 「・・・・き、気色悪ィ!!」 思わず口許を押さえた。 「ぅおい!! お前、オレが本気で 」 どうやらマジになっていたのは自分だけだったようだと察したレヴィが顔を真っ赤にして文句を言い募る前に、 「分かってる」 シャオの決して大きくはないが、凛とした声がそれを遮っていた。 「・・・シャオ」 唐突に真剣味を帯びて己へと向けられた言葉に、レヴィが吊り上げていた眉をおさめる。 「いいか、レヴィ。お前が単純で鈍くてアホだってことは、誰よりも俺が一番よく分かってるんだ。何年一緒に暮らしてると思ってるんだ、アホ。今更アホなお前がどんなに愚かしい事をしでかしやがっても、もう慣れっこなんだよ、俺は」 「お、お前なァ! アホアホアホアホ、何回アホって言ってくれれば 」 「だから、もういいんだよ、アホレヴィ」 言葉に反して、ぽんと頭を叩いたシャオの手の温もりと、真っ直ぐに向けられた瞳に優しさに、レヴィは口を噤む。 それは、いつもと同じ終わりだった。 いつでも、彼が年齢よりもずっと大人びた瞳で自分を許して、終わる。 年齢は、さほど変わらない。兄弟のように育ってきた自覚はあれど、その立場は兄と弟のものではなく、対等だと思っていた。けれど、ふとした拍子にこうして彼の方がずっと大人で、自分はいつだって彼に甘えているのだと思い知らされる瞬間がある。それを情けなく思うと同時に、ありがたいとも思う。 だから、もう一度だけ、 「・・・・ごめん、シャオ」 照れくさそうに詫びた。 その詫びに僅かに笑みを返したシャオが自分の隣をすり抜け、厨房の中に入っていこうとするのを、レヴィが止めた。 「これから一週間はオレが朝飯作る!」 どうやら、それも詫びのつもりらしいと察したシャオが、 「いや、だから別に 」 もういいのだと彼を制しようとしたのだが、 「作る!」 断固として意見を曲げようとしないレヴィの瞳に負けて、 「分かった分かった。任せた」 回れ右をして、カウンターのイスへと腰を下ろした。 「おっし♪」 意気揚々、厨房へと入っていったレヴィの背を見送り、シャオはカウンターに頬杖をつく。 いつもの寝坊助っぷりが嘘のようにご機嫌で朝食を作っているレヴィを、することもないシャオはただぼ っと見つめ、溜息を一つ。思わず唇を突いて出る言葉は、 「・・・本気でボコにできたら楽なんだろうけどなァ」 物騒な台詞。 昨夜の騒動で傷付いたことは確かだ。 リコに面と向かって好きなのはシャオではないと告げられたこともそうだが、 恋敵であるレヴィに世話を焼かれようとしていたことでプライドも傷付いた。 だけど、憎めない。 だから、苦しい。 いっそのこと、ボッコボコに殴りつけて、「お前なんて嫌いだ!! 出て行け!!」と大人げなく喚き散らして追い出してしまえたら楽になるに違いない。恋敵であるレヴィが視界から消えてくれることほど精神衛生上よろしいことはない。しかし、彼は恋敵であるだけではない。恋敵となるまでに、彼は母が拾ってきた可愛い弟であり、バカなことをしでかしてくれる悪友でもあった。 だから憎めない。苦しくても。 再度、溜息を洩らしたシャオの背に、不意に声がかけられる。それは、 「あら、シャオさん? ・・・・と、レヴィ!? ど、どうして??」 カウンターに座っているシャオと、その向こうに見えたレヴィの姿に驚きを隠せないでいるサヤの姿があった。 そんな彼女に朝の挨拶を送ったあと、 「アイツ、昨日の償いに、一週間朝飯当番やるつもりらしい」 いつもはなかなか起きてこないレヴィが朝食を作っている理由を告げる。 「そうなんですか」 昨日、と聞いて、サヤの表情が僅かに曇ったのを、シャオは見逃さなかった。徐に自分から一つイスを挟んだ場所に腰を下ろしたサヤに、僅かの逡巡の後、シャオは口を開いた。 「・・・なんか、ごめんな。サヤ」 「え?」 「俺、なんか、傷付けただろ、君のこと」 どの言葉で何故彼女が傷付いたのは申し訳がないけれども分からない。分からないけれど、自分が傷付けたことだけは確かだった。 ぼんやりとだが、それでも詫びたシャオに、驚きに瞳を瞬かせた後、サヤは薄い笑みを口許に浮かべて答えた。 「・・・・いいんです。私も、無神経でしたから。ごめんなさい」 このEDENに来てから数日と経っていない自分が、シャオのことを何でも分かっているのだと、そんな台詞を口にしたことにも非があったのだと小さな声で詫びたサヤに、シャオは無言で首を左右に振ることで、もういいのだと答える。 その仕種に、サヤも無言で笑みを返す。 二人の間に漂う空気が穏やかなものへと変わる。いつもと変わらぬ空気。 「元通り、ですね。きっと」 ほっと安堵の溜息と共に、サヤが告げる言葉へ、シャオも「そうだな」と首を縦に振って答える。 「何もかも元通りだ。多分、リコのヤツも 」 その言葉を遮ったのは、シャオの言葉通り、 「お腹すいた っ!!」 いつも通り、賑やかなリコの声。 どうやら空腹で目を覚まして降りてきたらしい。 「おはよう、リコちゃん」 「起きたか、リコ」 「おはよ、サヤちゃん♪ あれ、シャオさん?」 いつも通り自分を迎えたサヤに笑みを向け、いつもは厨房にいるシャオの姿が彼女の隣にあることに目を瞬いたリコが、次に厨房へと視線を遣る。その中で、朝食を準備している音が響いていることに気付いたのだろう。しかし、いつもその音を響かせているシャオはカウンターのイスに腰を下ろしている。では、一体誰が? と首を捻りつつ厨房の中を見遣ればそこにいたのは、 「ぬあああああああああああああ!!? な、ななななななな何でボスが!!? あたし、バッチリ目覚めてるつもりで、実は全ッ然起きてなかったりしちゃったりしちゃいます ッッッ!!?」 「大丈夫だ、バッチリ起きてるぞ、リコ」 朝っぱらから見事な絶叫をかましたリコにシャオが冷静に真実を告げ、厨房から顔を覗かせたレヴィが不服そうに唇を尖らせる。 「何だよ、オレが早起きするのがそんなに珍しいのかよ」 それに自信たっぷり返される声はリコとシャオのもの。 「「YES!! すっごく!!」」 「なんだよォ」 シャオとリコの答えにサヤが苦笑し、レヴィも苦虫をかみつぶしたような顔になる。しかし、その表情の中に穏やかなものが交じるのは、安堵のため。リコの態度がいつもと何ら変わらない。あれほど傷付けて泣かせてしまったのに、彼女もまたシャオと同じように自分を許してくれているのだと、ほっとした。 「よし、待ってろよ。すっげー上手い朝飯作ってやるからな♪」 「はい」 「普通でいい、普通で」 「ボス、早くゥ!お腹すいた 」 「うーん。この匂いは目玉焼きだね」 張り切るレヴィに微笑みながら頷くサヤ、張り切りすぎてヘマをやるなと窘めるシャオと、甘えた声でねだるリコ、のーんびりと穏やかな声で朝食のメニューを推理するウォン。 ウォン!? 「おわっ! どっから沸きでた、この変態医師!!」 ガタタッ! と派手な音をさせてイスから飛び降りたシャオの隣に、いつの間にかウォンの姿があった。 誰もウォンの登場を把握出来ていなかったのだが、そんな細かいことは気にしない☆ リコが人懐っこくウォンに飛びつき、朝のご挨拶。 「おはよ、ウォンさん♪ ウォンさんも一緒に食べよ ボス、ウォンさんのもね」 「スペシャルで頼むよ、レヴィ」 「遠慮しろよ、ヤブ」 「よーし、待ってろ♪」 「何だか平和な朝ですね」 「ふふふ。そうだね、サヤちゃん」 これは台風一過、穏やかで平和な朝なのか、それとも嵐の前の静けさなのか。 その答えは、ウォンだけが知っている。いや、他にも一人、ウォンの笑みに体に悪寒を走らせるシャオという可哀想な男もいたけれど。 |