「もうこんな時間か・・・」 腕時計に視線を落とし、シャオは足を早める。 明日からパティシエとしてEDENで働いてくれることになったサヤとは、あれから二、三他愛のない会話を交わしてから店の場所を教え、明日の朝来るようにと約束をとりつけ別れを告げた。そして店へと戻っていたのだが、どうやら店に帰り着いた頃には、既に店は閉まっているだろう時間になっていた。 それでも一応駆け足でEDENまで戻ったシャオは、営業中ならば店先に置いてある小さな看板がもう仕舞われていることに気付き、やはり閉店してしまったことを悟る。そして、申し訳なかったと肩を竦めながらEDENの扉を開けた。 カランカランカラ・・ン 澄んだ鐘の音。その後にシャオを迎えてくれたのは、同じく澄んだソプラノの声。 「すみませーん。今日はもう って、シャオ!」 お客様だろうかと振り返ったリコが、そこにいるのがシャオだと気付いて声を上げる。その声を聞いて厨房内にいたレヴィがすぐさま顔を出した。 「シャオ! お前ちょっと出かけるんじゃなかったのかよ!? お前のちょっとはどれだけだ! 今すぐ示せ!!」 軽食も提供しているEDENのピークは朝と昼と夕食時との三度となっている。夕方のピークには戻ってくると言いつつ、結局閉店してから戻ってきたシャオに、リコと二人でピークを乗り切らなくてはならなかったレヴィが唇を尖らせ問いつめる。 そんな彼にシャオは素直に詫びる。 「悪かった。代わりに飯は俺が作るよ」 言ってカウンターに向かうシャオを引き止めたのはリコだった。 「でも、今日の当番はあたしだし 」 「いい。リコもレヴィも座っててくれ」 「じゃあ、お願いしよっかな。ありがとう、シャオ」 少し迷った末、今日はシャオの言葉に甘えようと礼を言ったリコの隣をすり抜け、シャオは厨房へと入っていく。それと入れ替わりにエプロンを外しながら厨房から出てきたレヴィが、いつも三人で食事を取るテーブルへと向かう。シャオを責めはしたものの、さほど怒ってはいなかったらしく、すでに彼の不満顔は消えていた。 テーブルに腰掛けたレヴィとリコの耳に、トントントンとリズム良くまな板を叩く包丁の音が響く。しばしそれを聞いていたレヴィだったが、何かを思い出したのだろう「あ」と声を上げて立ち上がり、カウンターのイスに腰かけた。そして、厨房内で夕食を作ってくれているシャオに声をかけた。 「なあ、シャオ。お前ずっとドコに行ってたんだ?」 「・・・ちょっと、な」 僅かな逡巡の後、シャオは曖昧にそう答えた。そして、「ちょっとって何だよ、ちょっとって!」とレヴィからつっこまれる前に、口を開く。 「あ、そうだ。明日から新入りがくるぞ」 その言葉に、レヴィはきょとんと目を瞠る。 「・・・・お店?」 「そうだ。厨房でお菓子を作ってもらうことになった」 「へ 」 前々からデザートの類もメニューに加えたいのだと言っていたシャオの、レヴィやリコ以外の他人には判別できない程のものだったが、嬉しそうに綻んでいる顔を見て、レヴィも表情を緩める。 同様に笑みを浮かべてカウンターまで駆け寄ってきたリコがシャオに問う。 「ねえねえ! 誰が来るの? どんな子??」 ワクワクという擬音が聞こえてきそうなほど好奇心に胸を高鳴らせている様子のリコに、思わず笑みを零しながらシャオは答えた。 「サヤっていう女の子だ。リコよりも少し年上かな」 「・・・。え ッ!!!」 「なッ、何だよ急に!?」 一呼吸の間を置いたあと、突如大絶叫をかましたリコに、彼女の隣に座っていたレヴィが驚いてイスから転げ落ち、打ち付けた腰の痛みに眉をひそめつつ声を上げた。 一方シャオはというと、彼自身は何の言葉も発しなかったが、驚きのために大きくツルリンと滑らせた包丁で、危うく指を切り落とす寸前、というとんでもない目に遭い、目をひん剥きながらハァハァと荒い呼吸をしていた。 しかし、そんな二人のことはさっくり無視したリコが、喜々とした声で言った。 「その子だよ! あたしが昨日服を貰った子!!」 「あ、ああ。どどどどおりで聞き覚えがある名前だと思った」 「わぁ い! サヤちゃんが来てくれるんだ 」 危うくなくしてしまう所だった指を慈しみ撫でながら答えたシャオを尻目に、リコは無邪気に両手を挙げて喜んでいる。 「明日から楽しみ 」 ウキウキと体を揺すりながら喜ぶリコに、シャオはようやく驚きと恐怖から醒め、彼女に視線を遣った。 そして、瞠目する。 「 ・・・」 幼い少女のように、無邪気に喜びを体中で表現しているリコのその姿に、目を奪われてしまう。次の瞬間には、シャオ自身も笑みを零していた。 そして、実感する。 (・・・俺、ホントにリコが好きなんだな) と。 (いつからだったかな?) 自問するが、答えは返ってこなかった。 はっきりと分からなかったのだ。いつから彼女に対して、こんな思いを抱き始めたのか、分からない。もしかしたら、初めて会ったその瞬間から、リコのことが好きだったのかもしれない。 リコに初めて会ったのは6年前。レヴィと初めて会った日と同じく、ザーザーと激しい雨が大地を叩いていた薄暗い日だった。 レヴィが、いったい何処から連れてきたのか、彼の手に引かれてEDENの入り口をくぐった彼女の瞳を、今でもシャオは忘れることができない。雨に濡れたリコの瞳は、ガラス玉のように澄んでいた。とてもとても澄んでいて、何の感情も映していないようだった。まるで人形のように冷たい瞳。何があったのかは今でも分からないが、あの時のリコは感情をなくしていた。しかし、シャオは気付いた。無表情であるはずの顔の中で唯一、瞳は何故かひどく寂しそうだったことに。 リコの頬を濡らしていたのは雨だったのか、それとも涙だったのか。 瞳に映る淋しさに気付いたその瞬間、この哀れな少女を守ってやりたいと思った。既にあの時から、リコは特別な存在だったのかもしれない。 「 っくしょい!」 シャオの思考を中断させたのは、レヴィのくしゃみだった。 「大丈夫〜? ボス」 シャオが昨日の残り物と簡単な料理とでさくさく作った夕食をテーブルに運んでいたリコが、レヴィのくしゃみから料理を避難させながらではあったが心配そうに訊ねる。 「ああ、大丈夫大丈夫」 と、鼻をすすりながら答え、夕食の用意が調ったテーブルに腰を下ろし、夕食を開始したレヴィだったのだが、 「・・・は、は、は、」 笑っているわけではない。その証拠に、リコとシャオがサササッと料理をテーブルの上から避難させると、 「は っくしょーいよっと!」 一応テーブルから顔を避けつつ、豪快にレヴィがくしゃみをかました。 「あ〜」とか何とか言いつつ、鼻を擦っているレヴィに視線を遣ったシャオが避難させた料理をテーブルに戻しながら問う。 「今日はちょっと寒かったからな。風邪じゃないか? レヴィ」 「風邪って程じゃねーよ。ただくしゃみが出るだ っくしょい!!」 「風邪だよ 、ボス」 「あ゛ 、かな?」 参ったな、とレヴィは肩を竦める。しかも、一度風邪だと認めてしまったからだろうか。鼻がむずむずするだけでなく、体中がダルイような気さえしてくる。更には肌寒ささえ感じて来たレヴィが腕をさすっていると、 「はい。コレ、あげる」 と、リコが小皿を差し出してきた。見ると、そこに乗せられてあったのは、 「オレンジ?」 「ビタミンC、とって風邪を撃退してください」 そう言ってリコは更にオレンジの乗った皿をレヴィに押しつけてくる。 そんなリコの、自分を気遣ってくれている優しさに目を細めつつ、レヴィはその皿を押す。 「いいって。オレンジ、お前の好物じゃん。じゃ、ごちそーさまー」 しかし、リコは諦めなかった。 「いいの! はい、ボス、食べて!」 食事を済ませ、自分の使った食器を重ねて持ち立ち上がったレヴィを、リコは引き止める。そして、食べなければ逃がさないとでも言うように袖口を握ったままじ っとレヴィを見上げる。 その視線に負けたレヴィは、リコが差し出していた皿とフォークの内、フォークだけを受け取り、 「じゃあ、コレを貰っとこっかな」 と言って、オレンジではなく、リコの前に置かれた皿の上にあったレヴィの大好物、一口サイズのクリームコロッケをフォークで攫い、口に放り込んだ。 「ごっそーさん」 そして、今度こそレヴィは立ち上がり、リコのフォークを彼女の皿の上に返してから、 厨房へと足を向けた。そして、そのまま厨房へと彼の姿が消えた後、水音がそこから響いてきた。どうやら自分が使った食器を洗い始めたらしい。 耳に心地良い水音と、時折聞こえる食器と食器のぶつかる音とが響く店内。そこには今、沈黙が下りていた。 「 ・・・」 突然黙り込んだリコと、リコのレヴィを気遣うその様子に嫉妬を抱きつつ見つめていたシャオの間に会話は生まれない。シャオはただただリコを見つめ、リコはと言うとレヴィが使ったフォークをじっと見つめていた。 (・・・か、間接ちゅー!?) そして、思わずフォークを手に取る。そして、瞬きすら忘れたかのようにじ っとフォークを見つめ続けていた。今までは間接キスなど日常茶飯事だったのだが、こうしてレヴィへの恋を自覚し乙女モード全開となったリコにとってこれは由々しき事態だ。否、胸が高鳴らずにはいられない素敵なシチュエーションだ。 ひとしきりフォークを見つめ、悩みに悩んだ末、リコは誘惑に耐えきれず徐に口へと運 ばせてくれるシャオではなかった。 さっと怖ろしい早さで伸びたシャオの手によって、哀れリコの口に運ばれようとしていたフォークは床へと叩き落とされていた。 「いたッ!」 カシャ ・・ン。 フォークが床に落ちた音が、絶望を伴ってリコに届く。 「な、何するのよ、シャオ!!」 そう言って突然自分の手を叩いたシャオを見つめるリコは半ば涙目。「せっかくのチャンスだったのに・・・!」と口許まで出かけたが、さすがにそれは飲み込んだようだった。 一方、責められているシャオはと言うと、 「す、すまん」 オロオロと謝っていた。 自分でも気付かぬ内に、リコの手からフォークを叩き落としていたシャオは、自分自身の行動に驚いていた。そして、慌てて付け加える。 「む、虫がいたから、つい」 そして、慌てて床に落ちたフォークを拾い上げる。 「あ 、洗わなくちゃ、な」 その理由は、勿論、 (断固阻止! 間接キッス!) だ。 「え!?」 慌ててシャオの手からフォークを取り戻そうとしたリコの手をかわして立ち上がり、シャオは厨房にいるレヴィを呼んだ。 「おい、レヴィ! 新しいフォーク取ってくれ。至急、取ってくれ!!」 「あ! 別にあたしこのままでも 」 必死でシャオからフォークを取り戻そうしているリコだったが、 「ほれよ」 願いは叶わず、新しいフォークを持ってきたレヴィがそれをシャオに渡し、シャオは床に落ちたフォークをレヴィへと渡してしまっていた。 「さんきゅ、レヴィ。はい、リコ」 そうしてシャオの満面の笑みと共に差し出された綺麗なフォークを、 「 あ、ありがとう」 リコは涙ながらに受け取ったのだった。 しくしくと食事を再開したリコと、ほっと安堵の溜息をついてから食事を再開したシャオの耳に、 「 っくしょん! ぅわっ! わっ! わっと、危ね 」 という賑やかなくしゃみが厨房から聞こえてくる。どうやら洗っていた皿を、くしゃみの衝撃で放り投げそうになったらしい。たたらを踏むような音も聞こえてきた。 それを聞いて、リコが顔を上げた。 「ボス。あたしがやっとくからもう休みなよ」 その言葉に、一瞬迷ったレヴィだったが、すぐに厨房から顔を出すと申し訳なさそうに眉を下げながらリコに手を振って言った。 「じゃあ、悪いけど、頼んだ」 「うん。いいよ」 どうやら相当しんどかったのだろう、くしゃみを繰り返し、ふらふらとしながら2階へと上がっていくレヴィの後ろ姿を、心配そうにリコが見送る。 「ボス、大丈夫かなァ」 「・・・・ただの風邪だろ」 心配そうなリコの言葉に、シャオは自分の口から冷たく突き放すような言葉が零れるのを止めることができなかった。 そうさせたのは、彼の中に生まれた嫉妬。リコに心配してもらえるレヴィに対する嫉妬の所為だった。 |