時計が2時を回り、お昼のピークを過ぎたCafe EDENの店内は、穏やかなざわめきに包まれていた。 そんな穏やかな店内かつカウンター内に佇んでいるシャオの表情は暗い。そして、「やめて! もうやめて!!」そんな悲鳴が聞こえてくるくらい、何度も何度も何度も何度もカウンター内に常備されてあるグラスを無意味にふきふきしていた。擦りすぎたグラスの肌は、透明感を通り越し布の摩擦に耐えきれず、哀れ白い傷を刻んでいる。それでもシャオはやめない。いや、その可哀想なグラスの悲鳴に気付かないでいた。何故なら彼は今、猛 烈に悩んでいたのだから。 朝、昨日と同様に、猛ダッシュで店を飛び出して行ったリコは、 すぐに何もなかったような顔で帰ってきた。本当に何事もなかったかのような顔で、「ただいま〜」と帰ってきたリコに、そっとしておく方がいいのかとも思ったが、「どうした?」と聞くと、「急にお腹が痛くなったからウォンさんのところに薬貰いに行ってたの」と返された。 しかし、それで納得できるシャオではなかった。あの時の顔は、 決して腹が痛くなったというものではなかったのだ。顔を真っ赤にし、 瞳にはうっすらと涙すら滲んでいるようだった。 「正直に言ってみろ」 どんなにその言葉を口にしようと思ったことか。けれどシャオは結局それ以上は聞けなかった。 「はぁ 」 己のへたれさにシャオが盛大に溜息をついたと同時に、客からオーダーを取ってきたレヴィがカウンターへと戻ってきた。 「シャオ。卵サンドとハム卵サンド」 「 ・・」 しかし、シャオはまだグラスを磨いている。もう汚れなんてない。むしろ、磨きすぎて白くなっちゃってるからやめてあげてよ。 「・・おい、シャオ?」 「分かった」といつものような答えが返ってこないことに気付いたレヴィがシャオへと視線を向ける。そこでようやくレヴィはシャオがぼ っとしていることに気付く。しかもそれが並大抵のぼ〜としっぷりでないことにも気付く。 (何だ? 珍しいな。間抜けな顔) と思いつつ、口には出さない。しかし、今ならば何を言っても彼の耳には届いていないのだろうが。 珍しく物思いに耽っているらしいが、今は仕事中。心を鬼にしてレヴィはシャオの名を呼んだ。 「シャ オ!!」 「え!? な、何だ? レヴィ」 ず っとその手でふきふきしていたグラスを取り落としそうになりつつ、シャオは目の前にいるレヴィに驚く。 やはり全く持って自分の声どころか、存在にすらも気付いていなかったらしいシャオの様子に、レヴィは少々面食らいながらも再度オーダーを伝える。 「オーダー。卵とハム卵」 「分かった」 今度はいつも通りの返答があった。しかし、その言葉にいつもの強さはない。またすぐにぼ っとし始めてしまうのではないかと心配になったレヴィは、しばしカウンターのそばに佇みシャオを見つめる。 シャオはオーダー通りサンドイッチを順調に作っていくが、その瞳は先程と変わらず虚空を見ている。 その様子に、レヴィはたまらず声をかけた。 「・・・大丈夫か?」 「何が?」 「何がって・・・」 レヴィの問いにきょとんと目を瞠ったシャオに、レヴィの方がくちごもる。どうやら彼に自覚症状はないらしい。 「だから、お前、具合悪いんじゃねーの?」 悩みがあるのか? とは問わずにおく。これほど彼が意識をぶっ飛ばしてまで悩んでいることなのだから、そう簡単に話してくれるとは思えなかったから。 レヴィの無難な問いに、シャオは少しの沈黙の後、 「・・・・いや、別に」 そう答えた。 すると、 「そうか?」 と問い返される。そして、自分を見つめてくる紫色の瞳が心配そうに細められていることに気付くと、シャオは思わずレヴィから目を逸らしていた。 こんなにも自分を思ってくれている彼に、自分は 「ああ。大丈夫だ」 言葉が素っ気なく零れてしまうことを、シャオは防ぐことができなかった。そして、ますますレヴィから目を逸らす。これ以上彼の澄んだ瞳に見つめられていると、醜い嫉妬にかられる自分を許せなくなりそうだったから。 「なら、いいけど」 そう言ってレヴィが去っていったのを確認してから、シャオはほっと息をつく。そして、遠ざかっていくレヴィの背を見遣る。しかし、すぐにレヴィから逸らされた瞳は、迷わずリコをさがす。そうして見つけ出したリコの瞳は、いつでもレヴィを見つめている。それを見て、また目を逸らす。 もう行き場はなかった。 シャオはついにカウンターから飛び出していた。 「 レヴィ!」 「はいよ」 突然シャオに呼ばれ振り返ったレヴィは、いつの間にかカウンターから出て歩いてきている彼の姿に驚く。そして、シャオが次に告げた言葉に、レヴィは更に驚かされることになる。 「悪いけど、ちょっと出てくる」 「 は?」 「夕方までには戻ってくる」 「え? ちょ、ちょっと! シャオ!?」 理由も言わずレヴィの隣をすり抜け、堂々と店の出入り口から出て行くシャオを、客の視線も気にかかりそれ以上レヴィが止めることは出来なかった。 「・・・ど、どうしたんだ? アイツ」 ぽかんと目を瞠り、レヴィはシャオが出て行ったドアを見つめるが、彼が戻ってくる気配はない。仕方なくレヴィは、シャオに代わってカウンター内に入る。昼食時のピークも過ぎ、今は客もまばら。一応レヴィも店のメニューならば作ることができる。 (ま、いっか) シャオは何か深く悩んでいたようだし、気分転換させてやってもいいだろうと、鷹揚に頷いたレヴィだった。 カランカランカラ ン。 ドアに吊された鐘が涼やかな音で鳴り、客の来店を告げる。リコはすぐさまドアへと向かい、4人の女性客を出迎えた。 「いらっしゃいませ」 高い声でお喋りをしながら賑やかに入ってきた彼女らの顔は、見覚えのあるものだった。おやつ時になるとEDENを訪れティータイムを楽しんでいく常連の客だった。 いつも自分たちが座っているテーブルに向かう彼女らを確認してから、リコは水を入れたグラスをトレイに乗せ、彼女らの後を追う。 「いらっしゃいませ」 再度にこやかに告げ、リコは丁寧にグラスを一つずつ彼女たちの前に置いていく。そんなリコを見て、女性客の一人が「あれ?」と声をあげた。 その理由を、リコは察していた。彼女たちが、シャオとレヴィのファンであることを知っていたリコは「サービスサービス」と、いつもレヴィに彼女らの対応を任せていたのだ。しかし、レヴィは今、どこぞに蒸発してしまったシャオの代わりにカウンターに立っているためリコが代わりに来たのだが、彼女はそのことに疑問をもったらしい。 「あれー? 今日シャオさんは?」 レヴィを捜し店内を見回した彼女は、カウンター内に入っているレヴィと、店内にその姿が見えないシャオに気付いたらしく、リコに訊ねてきた。 首を傾げた拍子にサラサラの髪が揺れ、ついでに甘い香水の香りが鼻をついてきた。見れば彼女たちは皆綺麗に化粧を施し、おしゃれな洋服を身に纏っていた。 (ふわぁ、大人だ ) 思わずぽ〜っと彼女たちを見つめてしまったリコだったが、すぐにハッと我に返り、 「シャオは少し出かけているみたいです」 と答えた。 「そっかぁ」 「ざんね〜ん」 4人の内2人がそんな声をあげる。 彼女たちのように寡黙でクールなシャオを目当てにやって来る客も少なくない。そして勿論、 「私はレヴィくんがいればいいけど」 「ね〜」 という女性客も少なくない。 いっそのこと夜はホストクラブにしたらガッポガッポなんじゃないの? と常日頃リコは思っているのだった。 そうしてリコが軽く彼女たちに頭を下げ、テーブルを離れようとしたのだが、 「ねえねえ、レヴィ君ってどんな子がタイプなのかな。知らない?」 と、遠慮無くリコに話しかけてくる女に引き止められてしまう。しかも、その質問にリコはしどろもどろになる。 「え? い、いえ、あんまりそういうことは話さなくて・・・」 つい先刻レヴィへの恋心を認識したばかり。むしろ自分の方が知りたい心境のリコだった。 「そっかー」 「私、告っちゃおうかな〜」 「抜け駆けはダメだからね!!」 「もう、冗談だってば」 美しく着飾った女達が、華やかに笑っている。その様を、リコはじっと見つめていた。 顔は童顔で、顔同様に体も幼児体型である自分と比べると、彼女らは驚くほど大人の女性に見えてくる。そして、その仕種一つ一つが自分とは違い女らしくて、リコは悲しくなる。 (あたしみたいなお子様は、ライバルにも見なされてないんだろうな) 常連である彼女らはリコとレヴィとシャオが一つ屋根の下で暮らしていることを知っている。しかし、リコをライバルとは見なしていないようだった。 きっと、いつまでたってもお子様な自分が、レヴィやシャオの恋愛対象にはならないだろうと思っているのだろう。 リコは、ちょっと虚しくなる。そして思わず、 「あたしもボスのこと好きなんだから!」 そう言って彼女たちに堂々と宣戦布告してしまおうかとも思ったが、 「はぁ 」 代わりにリコの口から零れ落ちたのは、恋する乙女の切ない溜息だけだった。 |