店を飛び出したリコは、朝の賑わい始めた街をうろついていた。 行く場所などない。あの家を出てリコに行く場所など、この世の何処にもない。レヴィが拾ってくれたあの雨の日から、彼女の居場所はあの家にしかなかった。いや、自分の存在を認めてくれる、あの人たちの側にしか、リコの居場所はない。 長い睫毛に縁取られた瞳を伏せ、小さな両手で頬を包む。まだ少し熱が残っているのを両の掌に感じて、朝の風に頬を晒す。ひんやりとした風が心地良い。 胸の鼓動は、いつも通りに戻っていた。 「あ、もう、どうしたんだろ、あたし・・・」 おかしい。レヴィのあんな格好など、見慣れているはずなのに・・。 それこそ彼は、家の中にうら若い乙女がいることなど忘れているのか、 それともリコをそうと認識していないのか、風呂上がりにパンツ一丁で家の中をうろつくような―実にオヤジくさい―人間なのだ。だが、それはこの家では日常で、「ちゃんと服来てくださいッ!」などとリコが彼を咎めることはなかった。むしろ、「お前な〜、リコがいるんだからその格好はやめろ」と、最近彼を咎め始めたのはシャオの方だった。 「はぁ〜」 知らず、切ない溜息が唇から零れ落ちていった。 考えていたのは、レヴィのこと。 自分を拾ってくれた人。 居場所を与えてくれた人。 笑顔を思い出させてくれた人。 この世で一番大切な人。 この世で一番・・・大好きな人。 「大好き・・?」 口にした途端、リコはパッと頬を染めた。 「どうしたんだろ? また胸が・・・」 おさまったと思っていた胸の鼓動が、再び大きくなっていく。 何故かは、やはり分からない。分からないから不安になる。気持ち悪い。何でも良いから答えが欲しかった。 「・・・今日のあたしはちょっと変なんだ。風邪かも・・・そうだ、風邪よ!」 まるで己に言い聞かせるように、口にする。病は気から。 風邪と結論づけ、リコは安心を得たようだった。単純なところは、彼女を拾い、世話を焼いてくれたレヴィそっくりだった。 そうして深く考えることを放棄したリコに、 この胸のドキドキがいったい何なのかを知るよしはなかった。 「よーし、そろそろ帰ろっと♪」 風邪だと結論付け、多少なりとも安心したリコは、そろそろ店を開ける時間だということを思い出し、クルリと方向転換をする。と、その時だった。 ザバァ・・! 「 」 一瞬にしてリコは水浸しになっていた。超局地的な大雨。・・・・ではないらしい。その証拠に、水に続いて降ってきたのは、若い女の声だった。 「きゃ ! ごめんなさ い!!」 上を見上げると、二階の窓に女の姿があった。だが、それもすぐに消えた。そのまましばし上を向いたままでいると、窓辺にいくつか鉢植えに植わった花が窺えた。 ポタポタと、前髪から雫が滴り落ちてくる。はっきり言って、寒い。春真っ直中ではあるのだが、水浴びをするにはまだまだ早すぎる季節だ。びしょ濡れになって立ち尽くすリコを、通行人たちが怪訝そうな眼差しを浴びせ、通り過ぎていく。その視線が、服を濡らす水よりも冷たいような気がした。 (・・・・どうしよう) とリコが溜息を零したときだった。 バタン! 勢いよく家の戸が開く。てっきり家の奥に逃げ込んでしまったのだとばかり思っていた女が出てきたのだ。 「ごめんなさい、大丈夫ですか!? ・・・・・って、全然大丈夫じゃないわね」 上から下まで見事にびしょ濡れのリコを見て、女はますます申し訳なさそうな顔をした。 見れば、スラリと背の高い見目の良い少女だった。年は、リコと同じくらいか、少し年上か。子供子供したリコと並ぶと、彼女はひどく大人っぽく見えた。 肩の辺りで切りそろえられた黒髪が、サラサラと鳴っている。風に乗って、甘い香りが流れてきた。心配そうにリコを見つめるその瞳には、優しい光が宿っている。その瞳を縁取るのは、長い睫毛。はっきりとした目鼻立ちに、ほっそりとした頤。どことなく静かな雰囲気を漂わせる彼女は、楚々とした日本人形のようだった。 (綺麗な人・・・) リコが呆気にとられたように少女を見つめていると、彼女はリコがひどく怒っているとでも思ったのだろうか、その人形のように整った顔を申し訳なさそうに歪ませた。 「本当にごめんね! 私、そそっかしくて・・・・。ホントにごめんなさい!!」 深々と頭を下げられたリコは、慌てて首を振った。 「ううん、大丈夫だから・・・!」 それでもまだ申し訳なさそうな顔を解かない彼女に、リコはもう一度「大丈夫だから」と口にして、ニコリと微笑んで見せた。 幾分表情を和らげた彼女は、微笑んだリコに気弱な笑みを返して言った。 「とにかく、上がって。このままじゃ風邪引いちゃうもの」 「え、でも・・・」 戸惑うリコの手を掴んだ彼女は、さっさと家の中に入っていく。仕方なく彼女の手に引かれながら、 リコは小さな声で「お邪魔します」を言った。 二階の部屋へと案内されたリコは、彼女が持ってきてくれたタオルで髪の毛を拭きながら辺りを見回す。 綺麗な部屋だった。彼女の部屋なのだろう。彼女の髪の毛から流れてきたものと似た香りが、部屋の中に漂っている。 細々とした可愛らしい小物が多く目に付いたが、綺麗に並べられていて、煩い感じはまったくしない。窓の方へと視線を遣ると、そこには家の外から見上げたときに見つけた花があった。さらに、その窓辺には銀色のバケツがあった。 ( ・・・アレか) どうやらアレで鉢植えに水をやっていたらしい。そして、ついでにリコにも水を恵んでくれたバケツらしい。 何故バケツで水なんてやっていたのだろうかと、ふと疑問に思う。ジョウロを買えとは言わない。だがせめて、コップでやって欲しかった。そうすればこんな風に水をぶっかけられることもなかっただろうに。そう思わずにはいられないリコだった。 ガシガシとタオルで髪の毛を拭いていたリコの元へ、服を取ってくるからと言って部屋から出ていった少女が帰ってきた。その手には、白い服があった。 「ホントにごめんね。はい、コレ着て。多分、大きさも大丈夫だと思うわ」 「ありがとう」 きれいにたたまれた服を受け取り礼を言うと、彼女は微かに笑った。 「私が悪かったんだもの。お礼なんていいわ」 そして彼女は、自分がいてはリコが着替えにくいだろうと思ったのだろう。「お茶でも淹れてくるわね」と言い残し、部屋から姿を消した。 静かに閉ざされたドアから視線を外し、リコは渡された服を広げてみる。 白いフワフワとした素材で出来たノースリーブのカットソーと、同じく白のロングスカート。真横に入ったスリットが、少し大人っぽい。リコの全く着ないタイプの服だった。 「・・・」 どうしようかと思いつつも、徐に濡れた服を脱ぎ、白い服に袖を通す。 (あの人が着ると、似合うんだろうな〜) 姿を消した少女を思い描きつつ、リコは溜息を零した。いつも、ミニスカートや短パンをはいているリコには、ロングスカートは少し落ち着かないようだ。ソワソワしている。 「変じゃないかな・・?」 不安そうに、リコは部屋の隅に立てかけてある鏡の前に立つ。そこに映る自分の姿は、服が違うだけなのに、全く違う人物のような感じがした。少し、照れくさい。 リコが鏡をじっと覗き込んでいると、遠慮がちにドアが開く。振り返ると、トレイに二つのカップを乗せた少女がいた。鏡の前に立つリコを見て、満足そうな笑みを浮かべた。 「良かった。よく似合ってるわ」 「ホント!?」 少女の言葉に、リコはパッと表情を明るくして訊ね返す。 「うん。ホント」 言って彼女が浮かべたのは、ひどく大人っぽく、優しい笑みだった。 「はい、どうぞ。コーヒーで良かったかな?」 「うん。ありがとう」 手招きをされ、リコは鏡の前から部屋の真ん中にある小さなテーブルの方へ寄った。 テーブルに置かれた可愛らしいカップからは、コーヒーのいい香りが漂っている。そのコーヒーの香りと共に、甘い香りがした。テーブルの中央に置かれたクッキーから漂ってくるようだった。 コーヒーを一口口に含んだ少女は、徐に口を開いた。 「ホントにごめんね。服は、明日にでも返しに行くわ」 「ううん、いいよ。この服返しに来るついでに持って帰るから」 「いいのよ。その服、貴方にあげる」 「え、でも・・」 さすがに遠慮するリコに、少女は微笑む。 「私にはもう少し小さいの。だから、貰ってやって」 「・・・・いいの?」 上目遣いに少女を見遣ったリコは、遠慮がちに訊ねる。 「いいの。貰って」 顔で請け負って見せた少女は、嬉しそうに服の裾をつまんだりしているリコに、クッキーを勧める。 「良かったら、クッキーもどうぞ」 「わぁい」 実はずっと気になっていたのだが、さすがにいきなり手を伸ばすのは躊躇われたらしい。 少女に勧められるなりクッキーを口に放り込んだリコは、破顔する。 「美味しい!」 満面の笑みでそう言ったリコに、少女は柔らかく微笑む。 「お口にあって良かったわ」 「・・・じゃあコレ、お姉さんが作ったの?」 「そうよ。向かいにお菓子屋さんがあったでしょう? そこで働いてるの」 言われて記憶を巻き戻してみる。確かに可愛らしい看板の飾られた店があったあれのことだろう。 「そうなんだ〜。じゃあ、お姉さん、お菓子何でも作れるの?」 すご〜い、と尊敬の眼差しで自分を見つめてくるリコに、少女は少し照れくさそうに笑いながら答える。 「何でも、ってわけじゃあないけど、だいたいは、ね。・・・・ねえ」 「なぁに?」 モグモグと順調にクッキーを減らしていたリコが、少女に視線を戻す。 「お姉さんって何か照れくさいから、サヤって呼んでくれない?」 ゴックンとクッキーを飲み込んだリコは、可愛らしく小首を傾げた。 「サヤ?」 「そう。私の名前、サヤって言うの。貴方は?」 「あたしはリコ」 「そう。リコちゃん、ね」 ようやく自己紹介を終えた二人は、顔を見合わせて微笑みあう。 その時だった。 「サヤ !」 家の外から、少女を呼ぶ声が聞こえてきた。男の声だ。 その声を耳にするなり、サヤは不愉快そうに眉を寄せ、その声に返事を返す。 「はい!」 誰? と目で問うてくるリコに、サヤは眉根の皺を解きながら言った。 「私が働いてるお菓子屋さんの息子よ。すっごくヤな奴なの」 「ふ〜ん」 「サヤ! 早く店出ろ!」 「はーい! すぐ行きます」 しつこく急かしてくる声にサヤは再び眉根に皺を刻んだ。が、すぐに申し訳なさそうな顔をしてリコに視線を戻す。 「というわけで、ごめんね」 いいんだと言う代わりにブンブン、と勢いよく首を振ってから、リコはカップの中に残っていたコーヒーを一気に飲み干す。 「ごめんね、急がせちゃって」 再び申し訳なさそうに謝ったサヤに、リコは微笑みかける。 「ううん。いいよ。私もお店に戻らないといけないし」 言って、リコは立ち上がった。 そろそろ店も開いている頃だろう。朝はさして客も入らないので、シャオとレヴィだけでも大丈夫だろうが、だからといってあの家に住まわせてもらっている手前、サボるのは気がひける。それに、何も言わずに突然飛び出してきてしまったのだ。二人ともびっくりしていることだろう。 立ち上がったリコを伴い、階下へと向かって歩き出したサヤは、彼女の言葉に首を捻る。 「お店?」 「うん。EDENって喫茶店で働いてるの。あ、あのお店?」 「そうよ」 階段を下り、サヤの家から出たリコは、本当にサヤの家の真ん前にある店を指差して問う。 『MARGARET』と書かれた看板を掲げるその店からは、甘い香りが漂ってくる。そしてその店先には、不機嫌そうな顔をした若い男が立っていた。スラリとした、と言うよりは最早痩せすぎな体躯。尖った顎と、吊り上がり気味の瞳。わがままそうな雰囲気の青年だった。 彼はサヤの姿を認めるなり、さらにその表情を険しくする。 「サヤ、遅いぞ」 「すみません」 おとなしくサヤが頭を下げたのを見た男はそれで満足したらしく、部屋の奥へと姿を消した。 「リコちゃん、今日はホントにごめんね。じゃあ、また」 再びあの男に怒鳴られてはたまらないとサヤは早々にリコに別れを告げる。 「うん。またね」 こちらも短く別れの挨拶を済ませ、サヤに手を振った。 小走りに店の中へと消えていくサヤを見送ったあと、リコも店に出るために、少々足早に『EDEN』への帰路を歩き始める。 歩を進めるたびにスリットから覗く足が恥ずかしくて、ついつい歩幅を狭め、チョコチョコと歩くものだから、傍から見れば少し妙だったかもしれない。が、そんなことにかまっているリコではなかった。彼女が考えていたことはただ一つ。 (・・・ボス、何て思うかな?) 普段は決して着ない、少し大人びた服を着た自分を見て、彼はどんな反応をするのだろうか? サヤはよく似合うと言ってくれた。けれど、ボスはどう思うのだろうか。彼女と同じように、よく似合っていると言ってくれるだろうか。それとも、お前にそんな服は似合わないと笑い飛ばされるのだろうか。 リコは気付かなかった。 今自分が、レヴィのことしか考えていないこと。そしてそれが、いったい何を意味しているのかということに・・。 |