☆ドキドキらびりんす



 軽やかに階段を上っていくリコの耳に、シャオの切ない溜息は届かない。 たとえ届いたとしても、それが零された原因が自分にあろうとは、 微塵も思わなかっただろうが。
 階段を駆け上ったリコは、レヴィの部屋の前で一旦停止。それは、毎日毎日繰り返していること。リコの日課と言っても過言ではないだろう。
 そして、
 コンコン。
「ボース! 朝ですよ〜」
 ノックしつつ、声をかける。
 返事は、
「・・・・」
 ない。
 これまたいつものこと。
 ゴンゴン!
「ボス〜、朝ごはんあたしが食べちゃいますよ〜?」
 少し乱暴にドアを殴・・・・否、叩いてみる。
「・・・・」
 やはり返事はない。
 これもまた、いつものこと。
「ボス!!」
 ドンッ!!!
 もう一度だけ、部屋の外から呼びかけてみる。答えたのは、リコに足蹴にされたドアの悲鳴だけ。幸いにも、ドアが蹴破られたり、外されたりすることはなかった。
「やっぱ、駄目か」
 無駄だと分かっているのなら、最初からドアの交換を早めるような行為は省いてしまえばいいのに。ドアが喋れたのなら、「なら、最初っからやるな!!」と、そんなツッコミを入れたのだろうが、あいにくとドアには口がない。
 いつもと同じ朝。
 いつもと同じ行為。
「入りますよ〜」
 到底、眠っているレヴィに届くことはないのだが、一応断ってから部屋に入る。
 部屋の奥、窓際の壁に、レヴィの眠るベッドがあった。
 窓にはカーテンが引かれあるが、それでも太陽の光は部屋へと侵入してきている。さすがの睡眠大好きっ子レヴィも、その太陽の光は眩しいらしい。窓に背を向け小動物のように小さく丸まり口許にまで毛布を引き上げ、レヴィは頑固に眠り続けていた。
 それも、いつもと同じ風景。
 そう、何もかもが、いつもと同じだった。
 その時までは・・・。
 つかつかとベッドの側まで寄ったリコは、枕と毛布とに半分顔を埋めるようにして眠っているレヴィを覗き込む。いつもと同じ穏やかな、あどけなささえ感じさせる寝顔。
 いつもと同じように、レヴィはカーテンの隙間から洩れる僅かな光を嫌がり、窓に背を向け、横になって眠っていた。そうすると、必然的に左半身を下にして眠ることになる。それを見ていつも、心臓を下にして寝ると心臓に悪いのだからやめろとリコは言うのだが、彼はそれを改めようとはしなかった。
 彼曰く、
「眩しいから自然とこうなるんだよ」
 それならば、枕を逆にしてくれと言ってもみた。そうすれば左半身を下にし、窓からの光を避けることはなくなる。だが、これまた拒否されてしまった。その理由は、
「え? だって、こっち枕にしたら、北枕になるじゃん」
 だった。
 オマケに彼は言った。
「心臓の音聞いてると、何か安心するんだよ」
 そうして彼は今日も、己の鼓動を聞きながら眠っていた。
 どこかあどけない寝顔。こうして眠っているときの彼は、リコより年上であるにもかかわらず、ひどく幼く見えた。
 横向きになり、毛布をかぶるようにして眠っている所為で、 横顔しか窺うことが出来なかったけれど、 それだけで十分。 その横顔だけで十分、彼の容姿が人並み以上に優れているのだと知ることができる。
 すっと通った鼻梁と、形の良い唇。 ゆるい曲線を描いた頬と顎の線は、くっきりしている。けれどその細い面は、どちらかと言えば女性的だった。 肩に、頬に、枕に流れた長い髪は、金糸かと疑うほどに見事なブロンド。この近辺では見かけることのほとんどない髪色。 その感触は、きっとベルベット。そう思わせるほどに、非常に細く、繊細。 僅かに赤みを帯びた頬に落ちるのは、長い睫毛の影。
 どこか儚さを漂わせる、線の細い少年だった。
 そんな整った容姿にも、リコは今更目を奪われることもない。毎日、うんざりするほど見ている顔。いつもと同じ、見慣れた顔だ。そして何より、彼がその繊細な美貌からは窺えないほど、大雑把な性格であることを知っていたから。
 そう。とてもよく知り、見慣れている存在のはずだった。

 リコは、僅かに目を見開き、そのまま硬直する。
 動けなくなる。
 長い睫毛に縁取られた愛らしいその瞳は、レヴィに向けられたまま、離れない。離れてくれない。いや、彼が離してくれないのか。見慣れたはずのその少年の顔に、彼女の瞳は囚われていた。瞬きをする間も惜しむように、己を拾ってくれた少年を見つめ続ける。
 いったい、どれほどの時間、そうしていたのかは分からない。
 その何時間にも感じられた、けれどきっと僅かな時間、何もかもがリコの中から消えていた。 いったい自分が何のためにここに来たのか。今自分が何処に立っているのか。 今自分が何を考えていたのか。もしかしたら、呼吸すらも、忘れてしまっていたのかもしれない。
 彼女はただひたすら、そこに立ち尽くしていた。
「あ・・・」
 突然、リコは我に返る。何処からか聞こえてくる、ドンドンという音のおかげだった。 煩いくらいに響く音。それは、次第に大きくなる。
 本当に、煩い。
 いったい何処から聞こえてくるのかと、リコは視線を巡らせ、そして気付く。
 ・・・それは、己の鼓動だった。
 それ以外、何もかもが聞こえなくなるほど、煩い。
 静まれ、とリコは胸を押さえる。それでも、胸の鼓動は、静まらない。
(なんで?)
 そして、
苦しい・・」
 息が、苦しいのは、何故・・?
「はぁ」
 息を、吐き出す。そして、深呼吸。
 レヴィの寝顔から、強引に視線を引きはがす。
 一度目を閉じて、もう一度、深呼吸。胸の鼓動は、まだ静まらない。それを無視して、リコは瞼を上げた。薄茶の瞳が、そろそろとレヴィに向けられる。

 そして、止まる。もう、離れない。
(なんか、違う・・・)
 そう。違った。いつもとは、違う。
「・・・・綺麗・・」
 息だけでそう囁いたリコは、ゴシゴシと目をこすった。
「やっぱり、綺麗・・・・」
 いつも見慣れているはずの少年が、今日に限っては、そう見えたのだ。確かに整った顔立ちをしてはいるのだが、こんな風に、彼を綺麗だと感じたことがあっただろうか。こんな風に、目を奪われたことがあっただろうか。こんな風に、胸が高鳴ったことがあっただろうか。
 いつもと同じ朝。
 シャオに起こされ、朝食を取って、レヴィを起こしに行く。そうして彼の部屋に行くと、レヴィは心臓の音を聞きながら眠っていて・・・。
 それは紛れもなく、いつもと同じ。それなのに、何が違ったのだろう。昨日と、いったい何が違ったのだろうか。彼が何か違ったのか、 それとも自分の中で何かが違ってしまったのか、それすらリコには分からない。
「な、な、何なんだろう、コレ。どうしたんだろう、あたし・・・」
 未だに煩い胸の鼓動と息苦しさを抱えたリコは、ついでに頭も抱える。自分に何が起こっているのか、 それとも自分にではなくレヴィに何かが起こっているのか、それすらも判断できないリコの頭は、それでも必死に思考を巡らせ始める。
 ドキドキと高鳴る胸。この息苦しさ。コレはいったい何だろう・・・?
 ショート寸前の頭を必死に動かし、リコが出した結論。それは、
「そ、そうだ! あたし、どっか悪いんだ!」
 病気にでもかかっているのだと、彼女は思ったようだった。
「でも、ドコが悪いんだろう。やっぱこんなにドキドキ言ってるんだから、心臓!? ってことは、あ、あたし死ぬの!? 余命四ヶ月!? そんな・・そんなのひどすぎる!」
 その四ヶ月という数字は、いったい何処から出てきたのだろう。
「あたしまだ16年しか生きてないのよ!? これから、金持ちの男引っかけてバラ色ウハウハの人生を送るつもりだったのに・・・・! あぁ、美人薄命とはまさにこのこと!神様は何て酷いことを・・・」
 と、リコが一人の世界に突入しかけたところへ、ようやく待った≠ェ入る。
「ん〜・・・」
 いくらレヴィでも、リコの明るいソプラノに枕元で騒がれては、眠り続けていることは出来なかったらしい。小さく呻いたレヴィの睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
「!」
 レヴィの瞳が完全に開く前に、リコはマッハの早さでもって部屋の隅まで逃げ、 壁にへばりついていた。
 何故そんなことをしたのかは、彼女にも分からない。
 一つだけ分かったのは、ようやく収まっていた胸の鼓動が、再び早鐘を打ち始めたことだけ。
「ふぁ〜」
 部屋の隅で固まっているリコには気付かず、レヴィは布団の中で欠伸をする。そして、寝返りをうったあと、彼はカーテンの隙間から差し込む光に起床を促される。仕方なく起き上がったレヴィは、ゆっくりと首を巡らせ、自分を起こした原因を捜す。それは大抵、一緒に暮らしているシャオという青年か、リコという少女。
 今朝は、リコだった。
 だが、何故か彼女は部屋の隅で壁にへばりついている。未だに意識が 覚醒しきれていないレヴィは、そのことに何ら疑問を持つこともなく、ゆっくりと瞬きながらリコを見た。
 その瞳の色は、紫。美しく澄んだアメジスト。金髪とその美しい アメジストの瞳から、おそらく彼の中に欧州の血が流れているのだろうことが分かる。 寝乱れた髪をかき上げる指から、サラサラと金糸の髪が音をたてて滑り落ちていった。 そして、形の良い唇から零れたその声は、色でたとえるならば、若草色。爽やかな声音だった。
「おはよ〜、リコ。起こしに来てくれたのか?」
「う、うん」
 壁に張り付いたまま、リコはコクコク、と小刻みに頷く。そうしながら、慌ててアメジストの瞳から、視線を逸らす。つい先ほどまではどうあっても彼の顔から離れなかった視線が、今は何故か彼を避けてしまっていた。
(な、な、な、何だろう、これ?)
 疑問符ばかりが、彼女の頭の中を埋めていく。
(なに? なに? なに!? どうしちゃったんだろ、あたし)
 俯いたリコの苦悩も知らず、レヴィはベッドを下りる。
 ギシ、とベッドの軋む音。
「う〜ん」
 レヴィがのびをしているのだろう。
 俯いたまま、リコはレヴィを窺っていた。逃げておきながら、俯いておきながら、それでも気になってしまう。視線を上げてしまえばわざわざ音で彼が何をしているのか窺わなくてもいい。けれど、視線を上げることがリコには出来なかった。それは何故か。
 怖かった。
 怖かったのだ。上げた視線がまた、彼に囚われてしまうことが。
 そうして頑固に俯き続けていたリコの頭上に、不意に影が差す。
「? ッ!」
 そろそろと顔を上げたリコは、次の瞬間、大きく目を見開いていた。彼女の目の前にいたのは上半身裸のレヴィ。そんな彼が片手をティナの背にある壁に当て、彼女を見下ろしていたのだ。美しく澄んだ瞳が、リコの大きな瞳を見つめている。長い髪が、リコの視界の端で揺れていた。
 状況を分析するに、彼女は今、壁とレヴィの体とに挟まれる 形になっていた。端から見れば、壁際に追いつめられているという、 ドキドキ胸きゅん☆な言い方も出来る状況だ。

 一気に鼓動が加速する。顔が一瞬にして火照るのが分かった。
 固まったままのリコを見下ろしながら、レヴィは口を開いた。その唇から零れたのは、やはり爽やかな若草色の声。
「リコ、あのさ悪いけど
 レヴィが最後までその言葉を紡ぐことは出来なかった。
「キャッッ!!!」
 突然上がった甲高い悲鳴。これには、レヴィも驚いた。いや、驚愕したと言ってもいい。
「なっ!?」
 自分を突き飛ばすようにして押しのけ部屋を出ていったリコに、レヴィは茫然とする。確かにリコは時折突拍子もないことをしでかしてくれたりするのだが、今のはいつもの比ではなかった。ただ声をかけただけで叫ばれたのではたまらない。
「何なんだ、アイツ・・・
 しきりに首を捻りつつ、レヴィは今の今までリコがその体で塞いでいたクローゼットから黒いTシャツを取り出す。まあ、「悪いけど、服取りたいからどいてくれ」という彼の要望は叶えられたので、結果オーライ☆ ではあったのだが、至近距離でリコの悲鳴に襲われた耳では、キーンと、僅かな耳鳴りが続いていた。
「よっと」
 Tシャツに袖を通したその瞬間、次に彼の鼓膜を襲ったのは、やはり大音声。

「レヴィ !!!」
 そして、ものすごい足音が聞こえてきたかと思うと、次の瞬間、目の前に現れたシャオに、レヴィは胸倉を掴まれていた。
 状況が把握できず、きょとんとしているレヴィにシャオが怒鳴る。
「お前、リコに何をした!?」
 その形相は、地獄の鬼もかくや。目は血走り、鼻息も荒い。シャオのことをクールでカッコイイと、目をハートにして見つめているお嬢さん方には決して見せられない顔であった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はァ?」
 たっぷりと間をおいたあと、レヴィは訝しげに眉を寄せる。そんなレヴィの反応に、シャオはさらに声を荒げた。
「はァ? じゃない! 悲鳴が聞こえてリコが下りてきたと思ったら、真っ赤な顔して出てったんだぞ!?」
「どうしたんだ? リコ」
「だから、それを今俺が聞いてるんだ!!」
「いや、オレに聞かれても
「お前が何かしたんだろ!」
「何かって?」
「だから、お前
 そこでシャオの勢いは途切れた。途端に口ごもる。
「だから?」
「いや、・・・うん。まあ・・・・」
 歯切れの悪いシャオに、レヴィは首を傾げ、彼の言葉を待つ。
 じぃ っとレヴィに見つめられたシャオは、ますます狼狽えたあと、観念したように溜息を洩らした。
「・・・何でもない。俺の勘違いだ」
 言って、掴み上げていたレヴィのTシャツを解放する。
「??」
 解放されたレヴィはと言うと、未だしきりに首を傾げている。 いったい彼が何をしたかったのか、 何をどう勘違いしていたのかも分からないのだ。 朝っぱらからリコに大絶叫をかまされ、シャオには胸倉を掴まれ、怒鳴られ。おかげで意識は完全に覚醒したのだが。
「早く飯食っちまえよ。店、開けるんだからな」
 未だに納得のいかない顔で、それでも分かったと請け負ってみせたレヴィを部屋から送り出したシャオは、窓の方へと足を向けた。
 リコの悲鳴が聞こえ、続いて二階から駆け下りてきたリコを見たときには 、驚いた。
「どうした!?」と問うてみたのだが、顔を赤く染めたリコは、答えることもなく店から出て行ってしまった。そんな彼女の小さな背中が見えなくなった瞬間、シャオは二階のレヴィの部屋へと猛ダッシュをかましていた。リコもレヴィも多感なお年頃なのだから、という心配が現実の物になったのではと思ったのだ。
 だが、それもまた杞憂に過ぎなかったらしい。
 窓際に寄ったシャオは、閉められたままのカーテンを開く。ついでに窓も開くと、そこからは、爽やかな朝の風が流れ込んできた。
「はぁ・・」
 シャオの零した溜息を、部屋に迷い込んだ風が攫っていった。







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