「・・・仕方ない」 起こしに行くか、と溜息混じりにシャオが腰を上げた、その時だった。 「おっはよ〜、シャオ」 突然、鈴を転がすような愛らしい声が、彼を呼ぶ。 「やっと下りてきたか、リコ」 浮かせた腰をイスに沈めながら、少し嫌味っぽく声をかけると、リコと呼ばれた少女は、「ごめんね〜」と、片目を瞑って謝りながら、小走りにシャオの方へ寄って来た。そして、ストンと青年の向かいに腰を下ろす。そこが、リコの指定席。 彼女が駆け抜けていった拍子に、ふわりとリコの髪から甘い香りが漂う。 その香りを追うようにして視線を彼女に向けると、そこにはイスに ちょこんと座っている、人形のように愛らしいリコの姿。 リコは、笑顔のよく似合う少女だった。その容姿は、16歳にしては少し幼い印象を受ける。彼女が小柄なのも、それに拍車をかけているようだった。だが、それに文句を言う者はいない。可愛いのだがら、それでいいのだ。 大きくぱっちりとした瞳の色は、薄い茶色。黒い髪の毛は、肩にかかるかかからないかの辺りでフワフワと踊っている。本人は、そんな己の髪を厭っているのだが、フワフワと揺れる髪は、誰から見てもいつも明るく笑顔を絶やさない彼女によく似合っていた。彼女のチャームポイントと言っても差し支えない。 シャオもそう思っている者の内の一人だった。 急いで階段を駆け下りてきた所為で、僅かに赤みを帯びた頬が、白い肌を際だたせている。そしてその緩やかなふくらみは、思わず触ってみたくなるほど柔らかそうだった。小さな唇を、ピンク色のリップが飾っている。ピンクは、この愛らしい少女によく似合う色だった。 「あれ〜? 今日もまだ?」 テーブルについたリコは、そこにもう一人、少年の姿がないことに気付き、小首を傾げる。そうだと頷いたシャオに、リコは口許に手を当てて何事か考える素振りをして見せたあと、シャオに視線を戻して言った。 「あたし、行って来ようか?」 起こしに行こうかと問うリコに、シャオは首を振った。 「いや、いい。先に食え。冷めるぞ」 「うん」 唸ったリコは、湯気を立てているスープとコーヒーとを見遣ったあと、「そうだね」と、素直にシャオの言葉に従った。 レヴィが起きてこないことは予測していたのだろう。レヴィの席に、 スープは置かれていなかった。コーヒーも置かれていない。しかし、 その理由は、冷めてしまうから、ではなさそうだった。 その証拠に、コーヒーの代わりにグラスに注がれたミルクがそこにはある。 それを見て、リコが小さく笑いを洩らした。 「どうした?」 「ううん、何でもない」 不思議そうに問うてきたシャオに、リコは首を振る。 シャオの方も、それ以上質問を重ねることはせず、 「そうか」と短く返すと、手を合わせ朝食を開始した。 リコもそれにならい、「いただきます」と手を合わせる。 まず、コーヒーを口に含む。少し冷めていたけれど、猫舌のリコにはちょうど良い。辺りに漂うコーヒーの香りに、再び笑みを零す。 (可愛いな〜) 思わず呟く。もちろん、心の中で、だ。 その呟きを耳にした者が「誰が?」と問えば、リコは愛らしい笑みとともに、こう答えただろう。 (お寝坊さんが) と。 未だベッドの中にスヤスヤと寝息をたてているであろう彼は、コーヒーを飲まない。否、飲めない。 リコなどは、幼さを残すその容姿の所為で、何処かへお邪魔しても必ず「お嬢ちゃんには、紅茶が良いかな〜?」なんて言われてしまうのだが、彼女はここに来た頃から―つまり、11歳の頃から―コーヒーを好んで飲んだ。しかも、ブラックで、だ。 逆にレヴィはと言うと、彼はコーヒーが苦手だった。 「まだまだお子さまなんですね〜」 そう言ってリコが揶揄うと、いつも 「オレだってコーヒーくらい飲める! ただ、その、・・・ホラ、早くから飲んでると背が伸びないって言うから・・。別に、飲めないわけじゃないぞ」 と、赤い顔をして言い返してきた。 (実はコドモなんだよね〜、ボスって) シャオに気付かれぬよう、リコは再び笑いを洩らした。 リコはレヴィのことを、ボス≠ニ呼ぶ。それは、言ってしまえば、 シャオの所為だった。 あれはリコがこの家に来てまだ間もない頃だった。家の裏でレヴィが世話をしている犬や猫たち―それらは全て、彼が雨の日に拾ってきたものたちばかりだ―が、彼に非常によく懐いているのを見たリコが、「スゴイね」と感想を洩らし、それを聞いたシャオが口にした言葉。それが、原因だった。 「レヴィのことを、アイツらは自分のボスだって思ってるんだろうな」 「どうして?」 「アイツらはみんな、レヴィに拾われたからさ」 そして、それを聞いたリコは言った。 「・・・そっか。じゃあ、あの人は私のボスでもあるんだね。私も、あの人に拾われたんだから」 その日から、リコはレヴィのことをボスと呼ぶようになった。 最初はボスと呼ばれる本人も、そう呼ばせる原因を作ったシャオも止めたのだが、彼女がそれを改めることはなかった。 今ではもう、それが普通になっている。ある日突然リコに、「レヴィ」などと 呼ばれようものなら、一瞬にして全身をチキン肌に変えてしまいかねないほど、今ではもうそのボス≠ニいう愛称―と言っていいのかどうかは分からないが―に、彼らは慣れきっていた。 「美味しい〜」 その声にシャオがリコの方に視線を遣ると、満面の笑みがそこにはあった。 いつの間にか皿の上にあったサンドイッチを全て平らげ、スープを手にしている。フィニッシュ間近。 リコは、「そのちっこい体のいったい何処に入ってんね ん! ね ん! ね ん!!?」 と、筋を軽く違えても構わないので思い切り首を傾げてみたくなるほど大食い+早食いだった。 空になった皿の上に、シャオは自分のサンドイッチを一つ乗せた。 「やるよ」 薄く微笑んで言うと、リコから満面の笑みを返される。 「ありがとう、シャオ!」 リコの笑みに、シャオは僅かに目を瞠り、それから目を逸らす。もう少し見つめていたかったけれど、それは叶わなかった。自分に向けられたその笑みが、あまりにも眩しかったからだ。それはまるで、花が咲き零れるかのように。 その花は、きっとヒマワリだろうとシャオは考える。 真っ直ぐ太陽を見つめ、天を目指す花―向日葵。大きく広げられた緑の葉に溢れんばかりの陽光を受け、そして自身も輝く。明るい色のその花弁は、大きな雨粒にも散ることはなく、いつだって明るく輝いている。美しさを見せびらかすことなく、媚びることなく、ただただ懸命に咲き誇る元気な花。そして、元気をくれる花。 シャオにとってリコは、そんなヒマワリのような存在だった。 「ごちそうさま」 シャオがリコの愛らしい笑みに頬を染めている間に、リコはというと彼からもらったサンドイッチも早々に胃袋に収めてしまっていた。 「あ、ああ」 行儀良く手を合わせたリコに、シャオはハッと我に返る。自分がずっとリコのことを考えていたのだと思うと、ようやくおさまった頬の熱が、再び戻ってきた。それをリコに気付かれぬよう顔を俯け、全く進んでいなかった食事を慌てて口に詰め込む。 そんなシャオの様子には気付かず、食器を手に立ち上がったリコは、小走りにキッチンへと走って行った。 「じゃあ、あたし、ボス起こしてくるね」 言って階段を上ろうとしたリコを、口の中に詰め込んだ物を吐き出しそうな勢いでシャオが止めた。 「ちょ、ちょっと待て、リコ! 俺が行くッ」 「いいって、あたしが行くよ。シャオはご飯食べてて」 「いや、リコって、行っちまったよ・・・・」 ニコリと笑ったリコは、シャオが止めるのも聞かず、二階へと上がっていった。小さな背中を見送り、 シャオは溜息を落とす。それと同時に、彼女を引き止めようと上げた腕もパタリと落とした。 何故、彼がリコを止めたのか。それは、シャオとしてはあの愛らしい少女を、年頃の少年の元へ行かせることに躊躇いを覚えたからだった。 一緒に暮らし始めて五年。シャオとレヴィにとってリコは妹のような存在だった。 だが、リコもレヴィも多感なお年頃。もしかしたら、過ちも犯してしまうかもしれない! というシャオの 妄想じみた心配など、リコには一oたりとて伝わっていないのだろう。 杞憂に過ぎない。 そう。それがただの杞憂に過ぎないのだということは、彼が一番よく分かっている。リコも、そしてレヴィも、まだ異性を意識するほどオトナではないようだったから。 そう。 「俺とは違って、な・・・」 また一つ、シャオの唇から溜息が零れた。 |