ビロードの闇に染まる 街は 聖夜の色
靴音さえ軽やかに響いて 月を誘う


白い吐息 握り締めた君の手を
凍えないよう ポケットにしまって
「温かい」
君の笑顔がまぶしい


 窓から差し込む陽光は暖かな色。しかし、唸り声を上げ、落ち葉を攫う風の冷たさが知らせるのは、 濃い冬の気配。それを跳ね除けようというのか、街が纏うのは、クリスマスの華やかな装い。
 街中を覆ったクリスマスソングに、自然と弾む心。足取りは軽くなる。更に、その背を押す冬の寒さに 、家路を目指す足取りは、誰もがせかせかと早まっている。
 白い吐息を吐き出し、時折メリークリスマスを呟きながら歩く人々の流れ。それを、 暖かな家の中から覗いている老人の手には、赤と緑、クリスマスカラーでラッピングされた小さなプレゼント。 サンタクロースが子供たちを訪ねるには、少し早いのだけれど。
 そんな老人の耳に届く、クリスマスソング。何処からか微かに流れてくるその旋律は、アコースティックギターの調べに乗せて、 もの悲しい響き。街に溢れる、華やかなクリスマスソングとは少し違った趣の歌を、老人は聞いていた。
 窓の外では、ランドセルを背負った子供たちが駆け足で通り過ぎていく。その姿に、孫の帰りが近いことを知る夕暮れ前。
「・・・・サンタクロース、か」
 老人の呟きを聞きとがめる者はいない。
 穏やかな静寂に包まれた部屋の中、ゆっくりと、けれどしっかりとした足取りで老人は窓際を離れた。 「よいしょ」と腰を下ろしたソファが、微かに軋む。それと時を同じくして、老人の耳に届いたのは、幼い孫の声。
「ただいまー!」
 そして、まっすぐにこの部屋へと向かってくる足音。それは、程なくして開かれるであろう扉の向こうで、 孫が不満顔をしていることが容易に想像できる足音だった。
「おじいちゃん!!」
 扉を開き部屋へと駆け込んできた少年の、想像通りの膨れた頬に、思わず笑みが零れる。
「どうしたんだ? そんな顔をして」
 問いに少年が返した答えは、常人ならば誰もが驚き目を瞠るような答えだった。
「ぼく、サンタさんになりたい!!」
 しかし、老人は驚いた様子もなく、「そうか」と頷いてみせた。
「真紀ちゃんがね、サンタなんていないって言うんだよ。だから、ぼくがサンタになれば、 証明できるでしょ? だからなりたいの!」
 必死な様子で告げる少年が、その大きな瞳に涙を滲ませる。
 それを見て老人は微かに苦笑を零した。10歳という歳のわりにしっかりとした幼なじみの少女に、 いつもきつく言われては泣きべそをかく孫の気の弱さを案じる気持ちもあるのだが、 今ここでそれを少年に突きつけても仕方がない。
「そうか。サンタクロースになりたいのか」
 頭を撫でて宥めてやるつもりだったのだが、どうやら逆効果。優しい手の温もりに甘えてか、 少年の瞳から大粒の涙が零れ落ちてしまった。それを、慌てて拭う小さな手。
 皺だらけの両手で、涙に濡れてしまった手を包み込む老人へと、少年は視線を向ける。 そこに浮かぶのは期待の色。いつでも自分の願いを叶えてくれる優しい祖父への信頼の眼差し。
 その瞳に応えるべく老人は、
「あの公園に行ってごらん」
 告げた。
「・・・公園って、あの鈴鳴りのツリーがある公園?」
「そうだ。行ってごらん」
 背を押し促す老人の手に、少年が渋々頷き踏み出した一歩。しかし、それを止めたのも老人だった。
「ああ、そうだ。これを持って行かなくてはね」
「なに?」
 差し出されたのは、赤と緑、簡易にラッピングされた四角い小さな包み。クリスマスプレゼント。
「サンタクロースがプレゼントを持っていなかったら駄目だろう?」
「うん!」
 サンタクロースという響きに輝く無邪気な少年の表情。
「気をつけて行っておいで」
 送り出す老人の優しい笑み。
「行ってきます!」
 遠ざかる足音は、家の外へと消えていく。
 再び窓際へと寄った老人の瞳に写る、冬の街並み。橙に染まる空は、少しもの悲しい色。 橙の空と同じく、どこか悲しい旋律のクリスマスソングは、まだ聞こえている。
 手渡されたプレゼントを大事そうにポケットにしまい込み、近所の公園へと駆けていく少年の姿が遠ざかっていく。 切ないクリスマスソングは、未だ彼の耳には届いていないらしい。
 白く染まる吐息。しかし、頬は赤く上気している。
 少年の目指す公園で彼を待つ者を、老人は視る。クリスマスソングの切ない調べの奥、 少し早いクリスマスの奇跡が待つ場所を。
鈴鳴りのツリーと呼ばれるクリスマスツリーのある公園は、夕闇を待つ黄昏時。
 申し訳程度の遊具が並んでいるが、そこで遊ぶ子供の姿はもうない。寒さが子供たちを家へと帰したのか、 それとも夕暮れが急かしたのか。主もなく風に揺らされているブランコが、切ない音で軋んでいる。
 その軋みの奥で、少年は音楽が響いていることに気付く。
 ギターの調べと、男の声。
導かれるようにして少年は遊具の傍らを行き、恋人たちが寄り添うベンチを通り過ぎる。遊歩道を早足で、 公園の中央−鈴鳴りのツリーが立っている広場を目指す。歌は、そこから響いてきている。
 ギターの静かな調べに乗る、切ない歌声。
少年は、歩みを止めた。
「・・・はぁ」
 急いでいた歩みにいつの間に上がっていたのだろう息が、大きな溜息となって地面へと零れ落ちた。 その白い吐息の向こう、電飾で飾られたクリスマスツリーの下、ベンチに腰を下ろし、 一人の男がギターを片手に歌っている。
 キラキラと輝く光の粒の合間に、時折輝くのは鈴。
 風に揺れる枝の先で軽やかに鳴る鈴の音。それを背に、男は歌を歌っていた。
 誰に聞かせる風でもなく、無情にも通り過ぎていく人には目もくれず、ただひたすらにギターを弾き、歌い続けている。
 どこか切ないクリスマスソング。
 人々が無関心に通りすぎていく中、少年だけが歩みを止めて男の歌を聴く。




君と鈴を吊るそう 聖夜の奇跡が降るツリーに
刻んだ願いは“君の笑顔が永遠にありますように”
“僕の隣にありますように”
今も鳴り響いてる


喧嘩はいつも僕のワガママで
君の流した冷たい涙も 見ない振りして 傷付けた





 不意に、歌声が止まった。
 男が、少年をまっすぐに見つめていた。その顔には驚きの色が浮かんでいる。そして、男は少年に問うた。
「・・・君は、聞いてくれるんだ?」
「うん。だって、キレイな歌」
「ありがとう」
 純粋な賛辞とともに、人懐こくトコトコと歩み寄ってきた少年のために、男は体をずらし席を空ける。
 そこをポンポンと叩いて座れと促す男に、少年は困ったように瞳をしばたたかせた。
「・・・歌ってるのに、いいの?」
 邪魔にならないかと問う少年に、男は気にするなと快活な笑みを浮かべ、少年をベンチへと促す。
「いいよいいよ。座りなよ」
 男に促されるがまま腰を下ろしたベンチは冷たい。


 チリリン。


 ツリーの枝に結ばれた鈴を、風が鳴らす。
 頭上から、不意に降ってくる軽やかなメロディーを楽しい気分で聞きながら、少年は男を見上げて問う。
「ねえ、お兄さんはいつもここで歌ってるの?」
「そうだよ。歌いながら待ってるんだ」
「待ってるの? 何を?」
 きょとんと小首を傾げた少年に、男は小さく笑いかける。しかし、少年の問に答える口調は沈んでいた。
「・・・・会いたい人がいるんだ。1ヶ月も前からここで毎日歌いながら待ってるんだけど、なかなか会えないんだよなァ」
 まいったまいった、と苦笑を浮かべた男に、少年はますます首を傾げる。
「待ってないで、会いに行けばいいのに。行かないの?」
「・・・・・」
 その問いに、男は答えなかった。ただ少年を見つめ返し、苦い笑みを浮かべているだけ。
 不意に、鈴がチリンと風に鳴った。
 その音が消えた刹那、少年と男は自分たちの方へ足音が近付いていることに気付いた。 視線をそちらへと向けると、一組のカップルが鈴鳴りのツリーへと歩みを進めていた。その手には、銀色の鈴。二人で仲良く鈴をツリーの枝へと結びつけると、やって来た時と同様に、手をつないで二人は去っていった。
「鈴鳴りのツリー、か・・・」
 クリスマスを前に、キラキラと飾られたこの木の枝に、願い事を書いた鈴を吊るすと、 クリスマスの夜、その願いが叶うのだという噂のあるこの木。吊るされた鈴は、 その役目を終えると落ちてくるのだとも言われている。その噂が真実なのか否か、 そして、この噂を流したのがいったい誰なのかは、今ではもう誰一人として知らないけれど、 毎年クリスマスが近くなるとこうして恋人たちが願いを刻んだ鈴を吊るしにやってくる。
 そんなツリーを見上げ、「七夕のパクリだよな」と笑った男だったが、不意にその表情を変えた。
「・・・俺の鈴は、まだ落ちて来ないんだよなー」
「お兄さんも鈴を結んだの?」
 少年の問いに、男は少し恥ずかしそうに笑って答えた。
「去年、な。好きな人と吊るしたんだよ。今年も一緒に吊るしに来ようと思ってたんだけど・・・・ダメになっちゃったよ」
 そうして男が刻んだ悲しい笑み。
 未だ恋を知らない少年も、悟ることのできた男の言葉の意味。しかし、男に返すべき言葉を知るほど、 少年は生きてはいなかった。考えても考えても、男の悲しい笑みを消し去ることの出来る言葉を見つけ出すことは出来ず、 迷った末に先程からずっと頭に浮かんでいた問いを遠慮がちに口にする。
「・・・お兄さんは、その人を待ってるの?」
「ああ。プレゼントを用意してたからさ、せめてそれだけは渡したくて」
 男の顔から、完全にではないが悲しみの色が薄らいだのを見て、少年は安堵する。 しかし、ここで沈黙が降りれば、再び彼が表情を曇らせるのではないかと、少年はすぐに次なる問いを投げかける。
「ねえ、何をあげるの?」
「・・・コレ」
 照れくさそうに男が差し出したのは、使い古されたMDウォークマンと、一枚のMD。
「・・?」
「歌、なんだよ。一応ミュージシャンの端くれだし、恥ずかしいけど作っちゃったよ」
 男は、何だろうと目を瞬いている少年にそう答え、ますます恥ずかしそうに顔をうつむかせた。
「あ! もしかして、さっき歌ってた歌?」
 少年の問いに、男は消え入りそうな声で「うん」と答えるなり恥ずかしさのあまり頭を抱えて込んでしまった。
「・・クサいよな。こんなプレゼント」
「そんなことないよ!」
 懸命に首を振って自分を励まそうとしている少年に、男はようやく顔を上げた。しかし、浮かべたのは苦笑。
「ありがとう。でも、多分笑われるだろうなァ。下手したら引かれるな、コレは」
 そう言って男は再びギターを弾き始めた。ずっと彼が歌っていた、プレゼントするのだというその歌の続きを。




離れれば離れるほどに 募る思いは
止められなくて
愛してる
君の笑顔に会いたい




 歌うことをやめ、けれどギターを奏でる手は止めずに、男は不意に口を開いた。
「・・・彼女は、別の男と鈴を結びに来るのかな・・・」
 きつく唇をかむ男を、少年は黙って見つめていた。
「それでもいい。・・・いや、むしろその方がきっといいんだ、きっと」
 己の未練を振り切るためか、男は左右に首を振って笑う。しかし、その笑みはすぐに歪んだ。
でも、辛いよな。やっぱ」
「・・・お兄さん」
「でも、渡したいんだ、コレだけは。知ってほしいんだよ。俺がどんなに彼女のことを愛していたのか」
 歪んだ笑みを、男は再び快活なものへと変えた。
「それに、1ヶ月も前からバッチリ準備してたんだしさ。やっぱ、渡さないと、な」




今年も鈴を吊るそう 僕の隣には君しかいらない
刻む願いを 僕は叶えよう 君のそばを離れない
永遠に守り続けるから
今も君を愛してる


もし





 不意に、彼の手が、歌声が止まった。「どうしたの?」と少年が問う間もなく、男は乱暴にギターをベンチの上へと置き立ち上がっていた。


 チリリリ・・・ン。


 風に、鈴が鳴る。その音が消えた直後、足音が少年の鼓膜を揺らした。その時になってようやく少年は、自分たちの方へと歩み寄ってくる女の姿に気付く。
 男は、じっと彼女を見つめていた。大きく見開いた瞳で、食い入るように女を見つめていた。

 男の横顔に、少年は静かに問いかける。
「お兄さん。あの人なの?」
 男は黙って頷いて見せた。瞳は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる女を見つめ続けている。
 そんな男の腕を揺すり、少年は笑みを零した。
「よかったね、お兄さん! プレゼント、渡せるね」
 少年に、男は答えなかった。
・・」
 女は、歩いてくる。その手に小さな鈴が一つ握りしめ、彼女は一人でやって来た。隣に、人の姿はない。
・・一人、なのか・・?」
 震える声。
「良かった」と、安堵の笑みを浮かべているのだろうと、少年が笑顔で窺った男の顔は、
「・・・お兄さん?」
 泣きそうに、歪んでいた。
 呆然と立ちつくす男と、そんな男を心配そうに見つめる少年の前で、女は持ってきた鈴をツリーの枝へと結び始めた。男には目もくれず、女は黙々と鈴を結ぶ。


 チリン・・


 鈴の音に、男は我に返ったようだった。慌てて表情を取り繕う。しかし、懸命に弧を描こうとした口許は、笑みとは到底呼べないものにしかならなかった。それでも男はかまわず口を開く。
「久しぶりだな」
「・・・・・・」
 彼女は、答えない。
「何も言えないまま別れちゃったからさ、どうしても会いたかったんだ」
「・・・・・・」
 冷たい表情の彼女に、けれど懸命に語りかける男。歪んでいた口許は、ようやく笑みの形を作り始めたのだが、女からは何の返答もない。
 鈴を枝へと結び、男の言葉に答えることもせずただ立ち尽くしていた女の口から、白い溜息が零れ落ちていった。それが消えぬ間に、冷たく返された踵。

 ついに男は口を閉ざした。
 消えた笑みの後に、彼の顔を飾る絶望の色。それを見た少年はたまらず遠ざかっていく女の背に呼びかけていた。しかし、
「お姉さん、どうして
「いいんだ」
 止めたのは、男。
「でも
 再度少年の言葉をさえぎったのは、男の優しい声だった。
「いいんだよ、ホントに」
「・・・・」
「代わりに、コレを届けてくれないか?」
 少年へと差し出されたのは、彼女へのプレゼント。
「頼むよ」
「・・・うん」
 彼が自分の手で渡すべきだとそう思ったのだが、男の縋り付くような瞳に少年は徐にそれらを受け取っていた。落とさないよう小さな手でしっかりと抱え込み、少年は遠ざかっていく女を追いかける。
 男は、立ち尽くしたまま、少年と女の背とを見つめていた。その顔に浮かぶのは、悲しい色。キラキラと輝くツリーの下に、唯一悲しい色彩が灯る。
 白い吐息を吐きながら少年は駆け、伸ばした手で女の腕を引いた。
「お姉さんっ!」
「え? なに?」
「コレ!」
 突然腕を引かれ、驚いた様子の女に構うことなく、少年は差し出す。男から預かった彼女へのプレゼント。
「なに? これ」
 不思議そうに瞬く瞳を見つめ返し、少年が返す答え。小さな指はツリーの下、佇んでいる男を指しながら。
「プレゼントなんだって。あのお兄さんからだよ」
「え!?」


 チリリリリリリリ ・・ン


 風に、鈴が鳴る。
 弾かれたようにツリーを振り返った女に、男はひらひらと手を振っている。いつの間にか、彼の顔から消えている悲しみの色。戻ってきた笑みに、少年はほっとする。そして、彼女を連れて行ってあげようと、女の手を引く。
「お兄さん、ずっとお姉さんを待ってたんだよ。だから、会ってあげて」
「悠一!?」
 それは、まるで悲鳴だった。
「・・え?」
 呆然とする少年の手を、半ば振り払うようにして引き剥がした女は、男の元へと駆けて行く。
 そんな彼女を、男は両手を広げて待っている。笑みの戻った顔で、愛しい人を待っている。
 待っていたのに、
「悠一!!」
 女は、男の前を通り過ぎて行った。
・・」
 広げられた男の腕に、彼女が飛び込むことはなかった。
「・・・・お姉さん?」
 ベンチの前に立ち、視線をさまよわせている女に、少年は訝る。

 男の広げられた手が、力なく両脇へと落ちた。
 同時に凍りついた笑みの切なさが、少年の胸を締め付ける。
「悠一!? ねえ、何処に居るの!?」
 男の隣に立ち、女は叫ぶ。首を巡らせる。しかし、男を見つけることのできない女の悲痛な声が、公園に空しく響いている。
 男は居る。目の前で彼女を見つめている。
 少年には視えている。
 しかし、彼女には男の姿が視えていないことを、少年は知らなかった。
 必死に問いかけを続けている女を見かねた少年が声をかけようと口を開く。しかし、
「何を言ってるの、お姉さん。お兄さんはそこに
「いいんだよ」
 遮ったのは、男の静かな声。凍った笑みは、いつの間にか苦笑へとその姿を変えている。
 男はゆっくりと女の方へと歩み寄る。その名を、静かに呼ぶ。
「沙織」
「悠一・・っ!」
 ベンチへと崩れ落ちるように座り込んだ女を、男は包み込むようにその腕に抱きしめた。
 頬を伝い、地面へと落ちた涙。
 それが男のものなのか女のものなのか、少年には分からなかった。

 少年は立ち尽くす。
 どちらが零したものかは分からないけれど、なぜ、涙は零れたのだろう。再会を果たせたはずなのになぜ涙が地面を濡らすのか、少年にはその理由が分からなかった。
 冷たい涙が、男の悲しい顔が、女の悲痛な叫びが、少年の胸を締め付けている。
 唇を噛みしめ立ちつくす少年の肩を、優しく撫でる手があった。視線を上げると、
「おじいちゃん?」
 傍らに、いつの間にやって来ていたのか、祖父の姿があった。
 肩を撫でる手と同様の優しさをこめた瞳で、老人は男と女を見つめている。そして、徐に開かれた唇が、女に告げた。老人にも視えているその光景を告げた。
「彼は今、君を抱きしめているよ」
 突然響いた老人の声に、ゆっくりと顔を上げた女の頬には、冷たい涙。その涙を拭うこともせず、女は少年と老人とを見つめる。そしてしばしの沈黙の後、女は徐に両手を持ち上げた。その腕は、男を抱きしめ返すために。
 二人は、抱き合う。
 少年の瞳には、確かにその光景が視えている。
 男の優しい顔。
 どこか切なげな背中。
 その向こうで涙を流す女。
 抱きすくめられた華奢な体。
 縋り付くように伸ばされた細い腕。
 そこにある恋人達の姿。
 そして、震える声が、男に問う様。
「・・・・いるのね、ここに。悠一」
「いるよ、ここに」
「あたしね、“会いたい”って刻んだの。鈴に」
「そっか。叶ってるよ、沙織」
「悠一・・・!!」
 止まっていた女の涙が、不意に溢れ出す。
 それを見た男は、困ったように笑った。
「泣くなよ、沙織。頼むから」
「会いたいよぉ・・」
「・・・だから、会えてるってば。ここにいるから、泣くなよ。笑ってくれよ、何でもいいからさ」
「会いたいよ、悠一ぃ・・・!」
「泣くなって、沙織」
 彼女の嗚咽を、男は止めることができない。どんなに心を込めて語りかけても、彼女に男の声は届かない。
 なぜなら男は
「・・・伝えようか?」
 全てを知る老人が、遠慮がちに申し出る。しかし、それを男は断った。
「ありがとう。でも、いいよ。俺の気持ちは全部歌に込めたから」
 その言葉に、少年は老人の手の下から抜け出し、女の元へと駆け寄っていた。
「お姉さん、それ・・その歌、きいてあげて!」
 女は己が腕に抱えていたMDへと視線を落とす。そうして初めて気付く、そこにある文字。
悠一の字だ」
 ラベルに、“沙織へ”。癖のある、言ってしまえば下手くそな字でそう書かれてある。
「相変わらず、汚い字」
 大きな涙を一粒零しながらも小さく笑った女に、
「うるさいな。そこはつっこむなよ」
 唇を尖らせながらも、男も笑った。
 MDをセットし、イヤホンに耳を当てた女の隣に、男は腰を下ろす。そっぽを向いた彼の頬が赤いのを、少年は確かに視ていた。
悠一の声だ・・」
 零れた笑みは、やがてその姿を変える。




もし離れ離れになったその時は
忘れてもいい 憎んでもいい
ただ君が笑っていてくれるなら それだけで


僕はここで歌おう 恋人たちの鈴の音を聞きながら
捧げる歌は 君の幸せだけを祈って
その隣に もしも 僕が居られたら
片隅で祈らせて





 笑みを刻んでいた女の面に、涙が伝う。
 その涙を見つめながら、少年はそれが喜びの涙であることを黙って祈る。
「ありがとう・・ありがとう、悠一!」
 顔を覆った両手の下から、女の涙声が男に届く。
「どういたしまして」
 照れくさそうに頭をかきながら、男はせわしなく視線を漂わせていた。
「あ! 俺、タイトルつけてないや。しまったなァ。ツメが甘いんだよな、俺」
 照れ隠しなのだろう、必要以上に大きな声で言って男は笑った。
「でもね、本当の声で、聞きたかった・・」
 女は、笑わなかった。
 男は、笑みが凍り付きそうになるのを必死で堪える。開いた口から零した言葉は、わざと軽い調子。
「・・それは、かなり恥ずかしいって。ムリムリ」
 言って笑い飛ばそうとした男だったが、女が震える声で吐き出した言葉に、今度こそその笑みを凍り付かせていた。
「それなのに、死んじゃうなんて・・・!!」

 男は、きつく唇をかみ瞳を閉ざした。
「うそ。お兄さん・・・?」
 女の叫びに、少年は息を呑む。そして、知る。
 女が男に答えなかった理由を、誰も男の歌を聴かなかったその理由を、少年は今、初めて知った。
「お兄さん?」
「バイクで事故ってさ。気付いたらここにいた。毎週、日曜日にそうしていたように、ギター持ってここにいた。最初は何が何だか分かんなかったよ。でも、気付いたよ。俺、死んじまったんだなって」
 会いたくて、会いたくて・・逝きたくなくてとどまった魂は、愛する人のために歌っていたこの思い出の場所に縛り付けられ、待つことしかできない身となった。
 会いたくて、会いたくて・・でも、会えない。
 会いたくて、会いたくて・・会えても、叶わない。
 彼女へ、どんなに愛を語っても、聞こえない。
 彼女に、どんなに手を伸ばしても、触れることはできない。
 彼女を、どんなに愛しくて求めても、抱きしめることはできない。
 彼女が、どんなに泣いていても、口付けることはできない。
 彼が、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに望んでも、叶わない。
 メリークリスマス。
 そのただ一言さえも彼女に届かない。
・・ごめんな。沙織」
 わびる声は、届かない。
「あたしも愛してたのに・・・一緒に居たかったのに・・・!」
 愛の言葉が届くのに、
「ありがとう、愛してくれて。それだけで、俺、もういいや」
 答える声は届かない。
「お願いよ、悠一」
 叶えられないことは、もう分かっているから、
「さよなら、沙織」
 届かない別れの言葉は、それを口にした男自身の胸を傷つける。
「帰ってきてよ。そばに居て」
 叶えられない願いも、男の胸を傷つける。

 ついに黙した男を、少年と老人は視ていた。
「あたし、悠一じゃないと駄目なんだよ」
 女の涙は、止まらない。
 それを拭う男の手を、少年と老人は視ている。辛そうに閉ざした瞳を徐に持ち上げ、泣きそうに歪んだ顔でそれでも笑う男を視ている。女には視えなくても、男が一粒零した涙を、彼らだけは視ている。
「沙織。俺たちは確かにもう一度会えたんだ。お前には俺の姿は見えないけど、声も聞こえないけど、それでも会えたんだよ、沙織」
 強く女を抱きしめる腕が震えている様を、二人は見て見ぬふりをする。彼は、涙を零しながら、必死で笑おうとしていたのだから。
「だから、俺は言うんだ。そうだ、言わなくちゃ駄目なんだ。そうだよな?」
 涙に濡れた視線は、不意に老人へと向けられる。
 言いたくない、けれど、言わなくてはいけない。それが分かっているのに言葉が口をついて出てくれない。それを促してくれとでも言うように、老人へと視線を向ける。
「そうだ。言うんだよ」
 老人は、小さな声で、男の背を押す。
 男は、唇を噛みしめ、再び涙を零した。必死で笑顔を作ろうと弧を描いた口許は、震えていた。それでも、男は女に笑顔を見せようとする。彼女が、その笑顔を視ることができないのだということも忘れ、男は笑った。
「沙織。俺は、お前とは居られない。お前は俺じゃなくて 俺じゃなくて、別の人と、幸せになるんだ。俺じゃ駄目なんだよ。俺じゃ、駄目なんだよ」
「嫌だよ、悠一。悠一じゃないと駄目なんだってば・・!!」
さよなら、沙織」


 チリリリリリリ ・・・ィン


 風が吹く。
 鈴が鳴る。
 激しい鈴の音の中で、男と女は口を開く。
 届かなくても、視えなくても、それでも口を開いた。自然と重なる言葉は


愛してる』


 チリン


 言葉の後、交わされる口付け。確かに重ねられた唇。
 鈴の音が響くツリーの下、その瞬間だけ悲しい涙から解放された恋人達のキス。
 その光景を、少年は確かに視た。誰にも視えなくても、少年と老人だけは視ていた。
 唇が離れるその刹那、男は笑った。


「沙織。


 微かに動いた口許が、少年と老人には視えた。声は、聞こえなかった。
 けれど、


ありがとう。悠一」


 女は、答えた。


 リリリリリリリリリリリ・・・・・ィィン!!


 鈴が鳴る。風が吹いたわけでもなく、鈴だけが鳴る。差し迫ってきた夜空を追い払わんとしているかのように、高く高く鳴り響く。そして、
「お兄さん・・・!!」
 男の最期の演奏は、ギターではなくて鈴の音で。
 男は鈴の音と共に逝った。


 チリン


 女の足元に、一つの鈴を落として男は消えた。
「これ、あたしの・・・」
 拾い上げた鈴は、先程自分が枝先に結んだばかりの真新しい鈴。短いけれど、懸命に自分が刻んだ願いがそこにはある。


“会いたい”


 女が刻んだ願い。
 その隣に寄り添うように、


“メリークリスマス”


 下手くそな字で、刻まれたメリークリスマス。


「願い事を叶えたから、落ちてきたんだね」
 誰が言い始めたのかも最早分からない噂。けれど、それが真実である瞬間を少年と老人は見た。
 そして、今度こそ女も見た。
そうだね。だって、会えたもんね、悠一・・・!」
 笑みは、すぐに涙へとその姿を変える。彼女の掌中で嗚咽に震える体と共に、鈴が微かに鳴っていた。
 ただひたすらに、女は泣き続けていた。
 そんな彼女にかける言葉が、少年には思いつかない。
 なぜなら、彼女がなぜ泣いているのかが分からないのだから。
 心の中を悲しみが覆い尽くしている所為なのか、それともその悲しみを消し去るためなのか。女はそうすることしか知らないように、泣き続けている。
 その理由が後者であることを少年は祈る。
 男は、最期に笑ったのだから。
 彼女と会えない苦しみも、彼女が近い将来自分ではない男と幸せになる辛さに涙し、それでも最期は彼女が幸せになれるようにと、ただそれだけを祈って笑ったのだから。
 だから
「さあ」
 不意に、優しい声が少年の思考を断つ。
 見上げると、老人の優しい瞳が自分を見つめていた。そして、告げる。
「サンタさんの出番だ」
「え?」
「プレゼントを、渡してあげるんだろう?」
「あ!」
 すっかりその存在を忘れてしまっていたクリスマスプレゼント。出番を今か今かと、ポケットの中で待っていたそれを少年は慌てて取り出す。そこに何が入っているのかは知らない。けれど、なぜか少年は感じていた。このプレゼントが、彼女の悲しみを少しでも和らげることができるのだと。信じていたから、少年は迷うことなくそれを女へと差し出す。
「お姉さん、メリークリスマス!」
 あまりにも唐突なプレゼントに女の涙が一瞬止まる。それを見て表情を輝かせた少年は、再び彼女が涙を零す前にとプレゼントを押しつけた。
「ねえ、開けてみて!」
 少年に促されるまま、涙に濡れた手で女は包みを開ける。そこにあったのは、薄紅色のハンカチ。頬を濡らす冷たい涙を拭うための。
「・・ハンカチ?」
 少年は、ようやく言葉を見つける。悲しみに沈み泣き続けていた女に向けるべき言葉を。
 だって、男は最期に笑ったのだから。
 苦しみも悲しみも全て呑みこんで、男は笑った。彼女が幸せになれるように祈りながら、笑った。いつか彼女が、幸せになるよと笑みを返してくれるように祈りながら。そしてその時、自分が泣き顔では格好が悪いから、笑顔には笑顔で答えることが出来るように、最期の顔は笑顔で。
 だから、少年は言う。
「笑って、お姉さん。お兄さんは、最期に笑ってたんだよ。お姉さんが幸せになれるように笑ってたんだ。だから、泣きやんだら、お姉さんもお兄さんに笑ってあげてね。幸せになるから安心して、って笑ってあげて。お兄さんはたぶんそれを笑いながら見守っててくれるから、だから、笑ってあげてね。今は泣いてもいいから」
 つたない言葉で、けれど懸命に少年は告げる。
 女はそれを黙って聞く。瞳を閉ざし、少年の言葉を聞いている。その途中、閉ざしたまぶたの下から、涙が一筋こぼれ落ちていった。その涙の筋を、女はハンカチで拭った。徐に持ち上げたまぶたの下から、再び涙が筋を作ったけれど、それも拭い取る。
「分かった。すぐに泣きやむことにするわ」
 そう言って、女はもう一筋、涙を零した。ハンカチを運び涙を拭い伸ばした腕で、女は少年を抱きしめる。
「素敵なプレゼントを、いっぱいいっぱい、ありがとうね。小さなサンタさん」
 涙声で、けれどその口許に笑みを刻みながら女は言った。サンタさん、と。
 女に抱きしめられたまま首だけをひねって傍らの祖父を見上げると、「良かったね」と優しい笑みを返された。「うん」と頷く代わりに、少年も笑みを返す。そして、小さな手を精一杯伸ばして、女の背を撫でる。男がそうしていたように、優しく優しく女の背を撫でる。すると、ますます強く抱きしめられた女の腕の中、少年は耳にした。
 女の胸元に下がっているイヤホンから、あの歌が微かに響いていた。
 女の腕の中で、鈴の音の下で、彼はまだ歌っている。




君に歌を届けよう
恥ずかしくて言えなかった たくさんの君への言葉を
あの日の鈴は―
君にすべて捧げよう
忘れてもいい 憎んでもいい だけど忘れないで
あの日の鈴は
今も鳴り響いてる


君へのメリークリスマスを乗せて





 チリン チリン


 鈴の音が響く。


「メリークリスマス」


 未だ涙声で。


「メリークリスマス」


 小さな手を伸ばして。


「メリークリスマス」


 優しい微笑みと共に。


「メリークリスマス」


 鈴の音に乗せて 少しだけ早い、メリークリスマス。