遠くで春雷が鳴っている。
 耳を澄まさなければ気付かないほどに、遠い遠い音。
 緑の眩しさが太陽の下に溢れ、桜の蕾は今にも綻びんとしている。
 この祠の脇に、桜を植えるのも良いかもしれない。毎年、春の陽に照らされながら酒を煽るのはさぞ楽しかろう。
「おや。これは・・・」
 しばし不在にしていた雛菱山ひなびしやまねぐらに戻ってみれば、祠の前に数本の花が供えられていた。
 どれも違う花。
 お供えにしては貧弱すぎるその花たち。だがしかし、それは儂がお目付役を仰せつかった若 昊天朱眼坊・火群こうてんしゅがんぼう・ほむら様がこの陽稲村ひいなむらを臨む御山に降りて初めてのこと。面倒くさがりな若はろくに村を顧みることもなく、気まぐれに村に降りては悪戯をかますくらい。当然、村人たちは若をただの悪戯小天狗としか思っていないに違いない。儂としては、村の守り神として崇められる若の姿を夢見ているのだが、それが現実となるのはいつになることやら。
「にしても、この花は?」
 一体、誰が供えたのだろう。若には不似合いな可愛らしい花の贈り物。
 ここに奉られているのが誰なのかを知らぬ流れ者だろうか。
 今は兄弟天狗の元に転がり込んでいる所為で村を離れている若に伝えた方が良いだろうかと考えたのだが、やめた。急ぎ知らせねばならぬほどのことでもなかろう。
 若がお戻りになりこの可憐な花を見れば、若も村人に目を向けてくれるやも知れぬ。と、淡い期待を花に託していた時だった。小さな足音が近付いてくることに気付く。
 すぐさまご神木の枝葉の陰に隠れ、参道へと目を遣れば、そこには小さな人の子が居た。年の頃は十にも満たぬだろう、幼いわらし
 真っ白な息を吐き出す唇と頬だけが赤く染まった白い肌。艶やかな黒髪は後ろで一つに結わえられている。粗末な着物を纏っているものの、凛と強い光を宿した黒曜石の瞳と、子供に似つかわしくない落ち着いた立ち振る舞いがその子の育ちの良さを物語っているよう。
「お。あの子か」
 小さな手に、春の匂いを感じてつぼみから目覚めたばかりだったのだろう、小さな花が握られているのを見て、祠に花を供えたのはあの童だろうことを知る。
 握られているのだ一本だけのところを見ると、おそらく毎日祠に参っては一本ずつ花を置いて行ったのだろう。
 息を潜めていると、童は祠の前に両膝を付き、手にしていた花を供え、両手を合わせた。
 寒さのためか、それとも御山の道の険しさの為か薄紅色をした頬の上に、長い睫の影が落ちる。
 花のようなかんばせ
 それがこの童を讃えるのに似合いであるようだった。
 その美しいかんばせ以上に儂らあやかしを惹き付けるのは、ただの人の子では持ち得ぬ、その身の内を満たす静謐な霊力。隠してはいるが、僅かに洩れるその気配に注意深く探れば、懐に子を災いから隠す為の符が潜んでいるのが分かった。
 随分と古い符であるのか、その効力は切れかかっているようだった。
「ううむ。あのままでは、喰われるぞ」
 妖の中には、人の肉を好む者もある。強い力を持つ人の肉は喰らえば力を得るからと、そればかりを食す者もあると聞く。それを畏れ、あの童も符を持たされているのだろう。
「さて、聞こえるかのぅ」
 少しばかり、興味が湧いた。小さな足が痛むのも恐れず御山を登り、悪戯天狗と呼ばれ村人から歯牙にも掛けられていない天狗を頼り、真剣な面差しで願い事を心の中で繰り返すその童に。
 儂も、大概に気まぐれ。若の事は言えぬなと苦笑しながらも、嘴を開いていた。
「おい。人の子よ」
「! だ、だれですか!?」
 ただの人の子には烏の鳴き声にしか聞こえぬ儂の声に、童は弾かれたように閉ざしていた瞼を持ち上げ、慌てて周囲に視線を巡らせた。
「てんぐ様ですか!?」
「残念じゃが、違う。天狗様のお付きじゃ」
「そうですか」
 明らかに落胆した声を少し憐れに思いながらも、矢張りこの童は儂の声を確かに聞いているのだと感心しながら、童の眼前へと姿を見せてやる。
「人の子よ。生憎と、天狗様は不在じゃ」
「おしえてくださってありがとうございます、からす様」
 いきなり現れた儂の姿に一瞬驚いたように大きな目を見開いたが、すぐに童は驚きから醒め、礼儀正しく頭を下げてきた。どうやら物の怪の姿を見ることにすっかり慣れている様子。
 変わった童だ。
「この花は、お前が供えたのか?」
「はい。私にはお金も食べるものもお供えできるほどありませぬので、せめてお花をと」
「毎日、登って来ておったのだな」
「はい。どうしてもてんぐ様にお会いしたいのです」
 真剣な瞳に射貫かれて、思わず口を噤む。
 何か並々ならぬ決意がこの小さな子供を突き動かしているらしい。子供の足ではさぞ辛かったであろう山道を登り、天狗様に会うために おそらくは願いを叶えてもらう為に。
 それを思うと、村のことを顧みずフラフラと塒を離れて遊び歩いている若の不甲斐ないこと。情けなくなってくる。
「子よ」
「はい」
「天狗様はしばらく此処へは戻られぬ。そうだのぅ・・・、五日後にまたおいで。その頃には天狗様も戻っておられるはず」
「分かりました」
「良い子じゃ。気を付けてお帰り」
 小さな背を見送ったのが、昨日の昼過ぎだったか。
 そして、今、昼の太陽がますます春の訪れを感じさせる時分、
「・・・・のう、子よ。天狗様はまだ戻らぬと言ったであろう」
「はい。でも、毎日訪れれば、私の願いが伝わるのではないかと思って」
また寒さで頬を赤くした童が、祠の前に花を供えている様を、溜息交じりに見守っていた。
「お前の小さな足では、この山道は辛かろう」
「なんともありません」
「無理をするな」
「ご心配いただき、ありがとうございます、からす様。でも、じっとしてはおれぬのです」
 そう言って、今日もまた祠の前に跪き、瞳を伏せる。
 熱心に祈るその横顔にそっと問う。
「童よ。その懐の符は、誰がそなたに?」
「このお守りのことですか? これは母が肌身離さず持つようにとくれたものです」
「・・・そうか」
 弱っている符。それはおそらく、守りの力を込めたこの童の母の力自体が弱まっている所為なのだろう。
 病、か。
 おそらくはその母の病を癒すため、此処を訪れているのだろう。
 可哀相だが、符の力は今にも尽きんとしている。間もなくは灰となり、この童を守っていた力が消える。守っていた母も今天に召されんとしているのか。
 憐れな子。喰われるには忍びない。
「・・・のぅ、子よ」
「はい」
「お前のような子は己の身を守ることができるようになるまで、隠れておかねばならん。そうでなければあやかしに喰われるぞ」
 その言葉に、童が目を丸くした。
「・・・・てんぐ様も?」
 どうやら怯えさせてしまったらしい。
「いや。天狗様は人は喰わぬ」
「良かった。では、明日も参ります」
「明日も、天狗様はおらぬぞ」
「はい」
 諦めた様子はない。
「お前には悪いが、天狗様は気まぐれじゃ。お前の望みを叶えて下さるかは分からぬぞ」
「お会いしてみなければ分かりません。お会い出来るまで、毎日来ます」
 頑固な瞳。言葉の通り、若に会えるまでこの子は諦めないのだろう。おそらくはその願いを若に拒まれても、諦めないのだろう。
 幼くか弱い容姿に反した頑固さを厄介と思う以上に、憐れに思われて。
「・・・今日はもう日が暮れる。天狗様には儂が取りなしてやるから、今日はもうお帰り」
 そんなことを言ってしまっていた。
「ほんとうですか!?」
 途端に明るい笑みを浮かべた童に、しまったと思ったがもう撤回は出来ない。
 こんなに嬉しそうな顔をされては儂も頑張らぬわけにもいかぬ。
「儂は嘘は言わぬ。ただ、代わりに、これをお持ち」
「これは?」
 差し出したのは、儂が首に巻いていた赤い組紐。
「儂の気が染みた紐じゃ。お前の力がこの紐に染みた儂の力を越えるまでしっかり持っておきなさい。悪い妖から姿を隠してくれる」
「・・・ありがとうございます」
 幼い子には儂の言っていることが良く理解出来なかったらしい。それでもありがとうございますと頭を下げた童の頭を嘴で撫でてやる。
 健気な子。これが喰われてしまうのが儂には耐えられない。
「さあさ、今日はもうお帰り」
「はい。また、からす様!」
 翌日も、その童は花を手に山を登って来た。
 その髪には、夕べ儂が渡した赤い組紐が結われている。ちゃんと儂の言いつけを守る素直さを可愛らしく思うのだが、若はまだ帰らぬので来るなとの言いつけは頑として守ろうとしない頑固さには少々参る。
「まだ天狗様は戻らぬゆえ、五日後にと申したであろう?」
「すみません」
「仕様のない子じゃ」
「すみません」
 詫びつつも、悪びれた様子がないのは、儂が本気で怒っていないことに気付いているためかもしれない。
 参った。この人の子に、情が湧いてしまった。
 いつものように花を供え、手を合わせた後、童は祠の前に腰掛け、小さな声で儂を呼んだ。
「ねぇ、からす様」
「何じゃ?」
「私には、何もありません。野山の花を摘んで捧げることしか出来ません」
「天狗様にか?」
「はい。それではてんぐ様も、私の願いを聞いてはくれませんよね?」
 儂を見上げてくる瞳のあどけなさと、それに反する大人びた台詞に、思わず何と返せば良いのか迷ってしまっていた。
「・・・どうかのぅ」
「他にてんぐ様に差し上げられるものが、私にはないのです。この身くらいでしょうか」
「じゃが、それでは母君が悲しむであろう?」
「そうなのです」
 困ったと表情を曇らせる童に、何と答えを返せば良いのか。
 にしても、こんなに幼い子が、かようなことを考えるものなのか。人の子など、対価などなくとも神は慈悲を与えてくれるものと信じ夢見ているものではなかっただろうか。
 こんな子を、儂は知らない。何がこの子をただの人の子でなくしてしまっているのだろうか。可哀相に。
「いけない。暗くなってきた!」
 童の声に我に返れば、確かに空が橙に変わり始めていた。
「また明日、参ります!」
「おう。気を付けてお帰り」
「はいっ!」
 先程までの切ない瞳は何処へやったのか。花が咲き零れんばかりの眩しい笑みで手を振りながら、童は元気に参道を駆け下りて行った。
「・・・しまった」
 明日来ても若はまだいないのだからやめておけと言い忘れたことに気付いたのは、童の姿が完全に消えてしまった後だった。


「からす様〜!」
 今日もまた、童は満面の笑みを貼り付けて手を振りながらやって来た。
 こんな烏の爺に会えて何が嬉しいのだろうか。
「おう、矢張り今日も来たのか」
「はいっ!」
 大きく頷く仕種の愛らしさに思わず頬が弛む。
「今日はこの花です」
 小さな手に握られていたのは真っ赤な梅の花一輪。
「うむ。美しい花じゃ。天狗様は赤色がお好きじゃ。喜ばれるぞ」
 花より団子な若が花を手向けられて喜ぶかどうかはなはだ怪しい限りではあったが、それでも花を携えて懸命に山道を登ってきたこの童の思いに影を落とすのが忍びなく、そう労ってやれば、童は「良かった」と表情を明るくして笑った。
 花を供える小さな掌と、粗末な着物の裾から覗く膝小僧には、真新しい擦り傷がある。山の道はこの幼子には険しいに違いない。
「転んだのか?」
「あ、はい。よそ見をしていて」
 照れたように笑いながら、元来た道を指差す。
「少し行った所に、桜の木があるのです。きっと明日にでも花が咲きます。それを見上げながら歩いていたら転んでしまいました」
 この子に傷が増えるのは忍びない。だが、この子は若に会えるまで、ここに来ることをやめないだろう。
「よし、童よ」
「はい?」
「明日は頑張ってもっと良い花を持っておいで。天狗様に会わせてやろう」
「本当ですか!?」
「本当じゃ」
「分かりました! それでは今から花を探さねば」
 途端に立ち上がり駆けだした童。
「また転んでしまうぞ! 急がずお行き」
「はい! わかりました!」
 分かったと良いながらも駆け足で祠から離れていく童の珍しく子供らしい姿に思わず笑みが零れていた。明日、怪我が増えていなければ良いがと見送っていると、突然、童が「あ!」と声を上げたかと思うと立ち止まり、こちらを振り向いた。
「からす様! ありがとうございます!」
 どうやら、儂に礼を言うのを忘れていたと思い立ったらしい。礼儀を忘れぬよう、余程、母にしつけられているらしい。
「気を付けてお帰り」
「はい! また明日」
「おう、また、明日」
 大きく振られる手につられて、つい手を振って答えていた。
 これではどうあっても若に此方に戻ってもらわねば。
「参ったのぅ」
 我ながら面倒な約束をしてしまったと思わないでもないが、嬉しそうに笑って礼を言ったあの子の面が脳裏に蘇れば、後悔もすぐに萎んでいく。
  嗚呼。どうやら儂が思う以上に、あの童に情が移ってしまったらしい。
 人の子と関わるのは、嫌なのだ。情が移れば別れが辛くなる。その別れは、永遠の時を生きる儂にはあまりにもあっという間に訪れてしまうものだと分かっているのに、ついついこうしてまた情を移してしまう。
 たとえ一時だとしても、得ることの出来るこの温かさを味わいたくて。


 夜が明けるのを待って、若の元へと翔る。
「若 ッッッッ!!!」
 全速力で若の元を目指し、その首根っこを嘴で掴む。
「な、何だよ、爺!!!??」
「早く村にお戻りなさい! 初めて村人が悪戯しかしない厄介者であるあなた様を神と認め頼ってきておるのですぞ!! ぐうたら天狗がようやく陽稲村の人々に認められ始めているこの機会を逃してはなりませぬぞ!」
「おい、言い過ぎだぞ、爺」
「お早く!!」
「わ、分かった分かった
 半ば攫うようにして兄天狗様のお屋敷から若を連れ出すことに成功する。
 嗚呼、喜べ、童。これで約束が果たせる。
 きっとあの子はまた目映い笑みを浮かべて礼を言うのだろう。逸る気持ちをおさえ、次第に太陽が空の頂上を目指して昇り、朝日が世界を支配するのを待つ。
 その目映さに目を細めながら祠を目指す道中で、新緑の緑の中、小さな白色を見つける。あの童だ。
「ほら、若。あの童じゃ! 可哀相に、ここ半月ほど毎日御山を登って若を訪ねてきておったのですぞ」
「ふーん」
 眼下を指し示すが、若から返ってくるのは気のない返事。
「さあさ、急ぎますぞ」
「分かったって 髪を引っ張るな! ハゲる!!」
 辛うじて童よりも先に祠へと辿り着き、童が来るのを待つ。若は人に顔を見られぬよう赤肌の天狗面をかぶり、その身をご神木の枝葉の陰に隠れさせている。どうやら昨夜も兄天狗様と明け方まで遊んでいた様子。人の子が頼ってきているということにも興味を示さなかった若だったが、それでもやはりどのような子がどのような願いを携えて自分を訪ねてくるのか、多少興味はあるらしい。姿を隠しながらも、しっかりと参道を見つめている様子にほっとする。
 程なくして、童が姿を現した。
「からす様!」
 祠の上に止まっている儂を見つけるなり笑みを零し、駆け寄ってくる子供らしい愛らしさに笑みが零れる。
「おう、来たか。童」
「はい。今日は、これを」
「おお、椿か」
「可哀相でしたけど、これが赤くて、一番きれいだったから」
 若が赤色が好きだと教えたためだろう。村で一番綺麗な赤い花を探し、摘み取って来たらしい。
「さあ、童。お前の願いを言ってごらん。天狗様は聞いておられるぞ」
「・・・はい!」
 姿は見えないけれど、若が居ることを気配で察しているのか、僅かに緊張で肩を強張らせながら、いつもそうしているように花を供え、恭しく両膝を地面に付けた。小さな両の掌を重ね合わせ、眼前に翳す。
 そうして、初めて願い事をその唇で紡いだ。
 その願い事は
「てんぐ様。どうか村の病を風で祓って下さい」
村の病?」
 童が紡いだ願いは、儂が思っていたものではなかった。てっきり、命の灯を消そうとしている母の病の快癒を願うものとばかり思っていたのに。
「・・・・お前の母を、助けて欲しいのではないのか?」
「はい。助けていただきたいのです。その為には、村で流行っている病をなくさなければならないのです」
「それならば、母の快癒を願えば良いのだぞ」
「いいえ、違うのです。村の病が消えねば母は救われないのです」
「・・・・」
 幼いが故に願い事を誤っているわけではないらしい。儂には分からぬが、この子にはこの子の考えがあってのことらしい。
「お願いです、てんぐ様。どうか村の病をはらってください!」
 再び手を合わせ瞳を閉ざした童が健気に祈る。
 さて、若はどうされるおつもりか。チラリと見上げれば、口元に指をあて、珍しく真面目なお顔。何か思案しておられるご様子だったが、不意に首に掛けていた面を顔に付け、翼を羽ばたかせた。
「おい、子供」
 唐突に童の前に降り立った若が声をかければ、当然童は驚いて瞼を持ち上げる。それを制したのは若だった。
「目を開けるな」
「は、はい」
 慌ててぎゅっと瞼を閉ざした童の顔を、若は顔を近付けてまじまじと見つめる。ちょっと近すぎやしませんか、若。
「ちょっと、若」
 窘めると、ようやく童から顔を逸らした末、
「ふーん。美人になるな」
ほざいた。
「若
「冗談だって」
「いつになく目がマジでした」
「はいはい。すみません」
 儂と若の小声での応酬に目を閉ざしたままの童が戸惑って居る様子が分かり、若の肩を突く。
「で、どうされるんですか?」
「う ん」
「のう、若。そろそろ仕事をされてはどうじゃ?」
 これまで村の為に若が仕事をしたことは一度もない。人を遠くから見ているのはお好きだが、必要以上に近寄ることは苦手らしい若。それでも人が登ってくることの出来るこの山に塒を構えているのは、人が好きな証拠。本当は村の人とももっと近付きたいに違いない。
「のう、若」
「・・・んだよ」
「まだ、人と関わるのが怖いですか?」
「・・・別に」
「若。もう良いではありませぬか」
 この若も、儂と一緒。
 人に情を移し、儚すぎる命に非道く傷付いたお人。
 もうそろそろ、忘れても良いのではないですかという思いを込めて若の頭を撫でて差し上げれば、黙ったまま頭を振ってそれを拒む。それが儂の言葉を否定するためのものではなく、単に子供扱いをされたことに恥じての行いであることは僅かに染まった頬で分かった。
 一人立ちをしたばかりのこの天狗様は、儂から見れば、まだまだ子供のまま。唇を尖らせながらも、ずっと傍に居た儂の言葉を蔑ろにするようなことはない良い御子だということも分かっている。
 屹度若は、この童の願いを叶えるだろう。
「・・・なあ、子供」
「はい」
 しばしの沈黙の後、若はそっと子に声を掛ける。
 それに返事をする子の声はいつもとは違い、緊張のためか固い。
「オレがお前の村の病を祓ったとしたら、お前はオレに何をくれる?」
「コレ、若
 若の言い分は、分かる。何事にも対価が必要だということは、この世の理。 だが、それを今この幼い子に突き付けなくても良いではありませぬか。あまりにも歯に衣着せぬ台詞に思わず子との会話に割って入ろうとした儂の言葉を制したのは、固いままではあったが怯むことなく告げた子だった。
「申し訳ありません。私には何もないのです。この身くらいしか」
 お前を愛しむ母が居る故、それは出来ぬと困った顔をしていたのはお前自身だっただろう。
「おい、子。かようなこと
 言うのはおよしと止める前に、子は言い切っていた。
「願いを叶えていただけるなら、全て捧げます。てんぐ様のために何でもいたします!」
 凛と、言い切っていた。
 己を対価に願いを叶えて欲しいと訴える子に、若は呆気に取られている様子。この幼い童がまさか己自身を対価にと望もうとは思っても見なかったらしい。
「若、どうするのですか?」
 再度答えをせっつけば、大きな溜息をつきながら、若はボリボリと頭を掻く。
 未だ幼い童が、天狗様に向けて切ったあまりにも潔い啖呵。それに応えぬようでは、男が廃る。
 若はこの子の願いを叶えるだろう。
「あー、もう。分かったよ」
 その答えは童にではなく、儂へと向けられていた。この童の根性に負けたのをこの童に認めるのは憚られたのだろう。
 バサリと翼を羽ばたかせ、あっという間に若は空の彼方へと消えて行ってしまった。向かう先にあるのは、陽稲村ひいなむら
「子よ、目をお開け」
 そう声を掛けてやると、子はゆっくりと瞼を持ち上げ、視線をきょろきょろと彷徨わせる。
「・・・てんぐ様は?」
 目の前に居たはずの若が居なくなっていることに不安げに顔を曇らせた子に、安心せぃと笑いかけて教えてやる。
「村へ向かわれたのだ」
「それでは・・!」
 途端に表情を明るくした子に、頷いてやる。
「屹度、お前の願いを叶えてくださるじゃろう」
「ありがとうございます! ありがとうございます!!」
 何度も何度も、まるで地面に額を擦りつけるようにして礼を言う子の細い肩に飛び乗り、もう良いからと、その滑らかな頬を撫でてやる。
「さあ、早く村へお戻り」
「はいっ!」
 元気よく駆けだした童だったが、唐突に立ち止まる。それは先日にも見た光景。屹度、振り返って言うのだろう。
「からす様! ありがとうございました!!」
 ほら、矢張り。
「村の病を祓うのは天狗様。儂には何も出来ぬぞ」
 煮え切らぬ若の尻を、後ろから叩いてやっただけのこと。その分の礼は、過ぎるほどに貰ったばかり。
 だが童はぶんぶんと音がするのではないかと思うほど首を大きく左右に振って言った。
「いいえ、いいえ! からす様がいつも待っていてくださったから、私は毎日ここまで登ってくることが出来たのです。だから、ありがとうございました!」
 こんな爺に会うことを楽しみにしていたと言うのか、この童。何と愛らしい言葉。儂こそ真っ赤な頬をして懸命に此処へ登って来ては儂を見つけて嬉しそうに笑うお前の笑顔に心癒されていたというのに。
「さあ、送ってやろう。村へ戻るぞ」
「はい」
 再びその肩へ降り立ち頬を撫でてやれば、くすぐったそうに笑い、今度はゆっくりとした歩みで参道を下り始めた。
 その途中で、ふと童が立ち止まる。
「どうした?」
 今度はどうしたと問えば、童が頭上を指差した。
「これが、この前言っていた桜です」
 間もなく咲くだろうと見上げながら歩いていた所為で転ぶ羽目になったというあの桜が、これらしい。
「ほう。花が開いたのぅ」
 小さな桜ではあった。だが、全ての枝を薄紅色の花が覆っている様は、矢張り美しい。
「はい。とてもきれいです」
 立ち止まって見上げていれば、空が見る間に色を変えていく。太陽が山の奥に姿を隠し始めているらしい。青かった空が、次第に橙へと姿を変えていく。それを背に花開いている桜の薄紅色は、最早、純白にも見える。
 静寂が辺りを包む。
 次第に変わりゆく空の色に目を細めていれば、遠くで雷の音が響いていることに気付く。遠い遠い空で鳴る春雷。まるで夜を呼んでいるかのように微かな音。
 この雷鳴は、果たしてこの童にも聞こえているのだろうか。それを問うてみようかと思ったその時だった。
「わっ
 突然の突風が童と儂の体を揺らした。木々を激しく揺らした風は一瞬の事で、すぐさま山肌を撫でるようにして頂きへと駆け抜けていった。
 若が起こした風。
 どうやら仕事をしてくれたらしいとほっと安堵していると、童の無邪気な声が儂を呼んだ。
「あ! からす様! 見て下さいっ」
 何があったのかと童が指し示す方へ視線を遣れば、成る程、童が声を上げた理由が分かった。
「ほう、これはこれは・・・」
 強い風になぶられて、桜がその花弁を舞い散らせている様が、目の前に広がっていた。橙色の空を背にした花弁はまるで雪のような白さ。ひらりひらりと舞い落ちてくるその様はより一層花片を雪のように見せている。
雪みたいです、きれい・・・」
「そうだのぅ」
 じっと黙ったまま、舞上げられた花片の最後の一枚が大地に戻るまでそれを見守っていると、僅かに近付いてきた雷鳴と共に、大きな羽音が鼓膜を揺らした。耳に良く慣れたそれは、若の羽音。そして、乱暴な呼びかけが無粋にも穏やかな静寂を壊してしまった。
「おい、子供!」
「てんぐ様!?」
 突然の呼びかけと共に、空から降ってきた若に、子供が肩を跳ねさせる。若は珍しく天狗の面を首から提げたまま。子供ならばすぐにその顔も忘れるだろうと思ったのかも知れない。
 童の前に降り立った若は、両腕を組んで胸を張って言い放った。
「お前の願い、叶えてやったぞ!」
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
 ぱっと表情を輝かせ真っ直ぐに若を見上げて礼を言う子に、若は視線を泳がせる。あまりにも真っ直ぐなその瞳に礼を言われて恥ずかしくなったのだろう。照れた顔を隠そうとしたのか、首から下げていた天狗の面を今更ながら被ってしまわれた。そして、かき消えてしまいそうなほど小さな声で童に告げた。
「・・・・仕方ねーから、出世払いでいいぞ」
「え?」
 若が仰りたいことが分からなかったらしく、きょとんと目を丸くした童が問う前に、若は現れた時と同様、あっという間に空の彼方へと姿を消してしまっていた。
 助けを求めるように童の視線が儂に向けられる。
「人の世に未練がなくなったその時においで」
「でも・・」
「儂らの命は驚く程に長い。主を待つのもまた楽しみじゃ」
 たとえそれが子の命が尽きようとするその時だったとしても、きっとそれはあっという間に訪れることだろう。その時にまで未練が消えなかったとしても、若もお怒りにはなるまい。風を吹かすことなど造作も無いこと。可憐な花と、眩しい笑顔で対価は既に事足りる。 というのは、情を移した儂の欲目かも知れぬが。
「健やかに育つのだぞ」
「はい! ありがとうございます!」
 別れが名残惜しく、これで終いと心に決めながら、子の頬を撫でる。
「さあ、早くお帰り。母が心配しておろう」
「はい。からす様。本当にありがとうございます」
 触れるのはこれで終いと決めておったのに、何を思ったか童はそっと儂の体を小さな両手で包みこみ、ぎゅっと胸に抱いた。
 これは いかん。たまらぬ。
「くすぐったいぞ」
 くすぐったいというよりも、熱くてたまらぬ。これだから、早い別れを畏れながらも、また縁を結んでしまうのだ。この年になってもまだ、性懲りもなく。
 そして、この結ばれた縁が、再び
「てんぐ様にも、ありがとうございますとお伝えください。この
 いつの間にか随分と近付いてきていた雷鳴が、ひときわ大きく轟き、子の言葉を隠す。
 は、いつか必ず、てんぐ様の元に参りますと」
 名を、聞きそびれた。
 だが、良いだろう。もしもまた縁が交わるその時が来れば、その時に聞けば良い。
「若は忘れっぽいからのぅ。忘れてくれても良いのだぞ」
 人の世で生き、人の世で死ぬことが人としての道。対価のことなど忘れて生きても良いのだと告げてやるも、
「いいえ。決して忘れません!」
大きく首を左右に振られてしまった。
 その拍子に、子の頭に乗っていたらしい桜の花片が一片、ひらりと舞った。それを追うようにして、そよ風が桜の花片を舞い散らせる。
 再び桜を見上げた子が、目を細める。
「きれい・・・」
 つられて桜を見上げれば、子が感嘆した光景に、儂もまた思わず溜息を洩らしてしまっていた。
「これは見事。これでは、儂も、どうも忘れられそうにないぞ」
「はい。忘れませぬ」
 まるで雪降るようなその光景は、すぐさま瞼の裏の焼き付いてしまった。あまりにも美しい様。その桜は決して大きくはない。花片も小さく儚い。それでも夕空を背にひらりひらりと舞い落ちる様は、あまりにも美しい。
 その先に、やはり儚い光を纏った細い月。
 これぞ、忘れ得ぬ光景。そして、体を包む温もりの熱さ。決して忘れ得ぬもの。それが離れるのを寂しいと思いながらも、子の手をそっと撫でる。
「さあ、子よ。もうお帰り」
「はい」
 静かな返事と共に、体を覆っていた温もりが離れていく。そのまま、小さな背中が遠ざかって行く。何度も何度も儂を振り返っては儂に手を振っていたその姿も、木々の向こうへと消えていく。そして、やがて、足音も聞こえなくなった。
さて。儂も帰るとするか」
 次にあの童に会うのはいつのことだろう。
 此度、結ばれた縁が解けることなく、再び交わったその時には、惜しいがその綻びを今度こそ断ち切ってやろう。
 人の子は人の中で生きてこそ。もしも気まぐれに此処に来てしまったその時には、若は矢張り忘れておいでだからもう良いのだと追い返してやろう。
 人の中で生き、人の中で死ぬが幸いというもの。
 いくらお馬鹿な若でも、それは承知だろう。もしもダダをこねるようであれば、教えて差し上げれば流石に若も諦めるだろう。


 若。あの子は、男の子おのこですぞ。


 と。
 きっと若はおなごと思い込んでおられるのだろうから。
 真実を知った時の若の顔が楽しみじゃ。
 嗚呼、いかん。
 矢張り儂は、期待してしまっているらしい。
 忘れ得ぬあの白い花雪の光景と、この身から失せてくれぬ幼い手の温もりがそうさせるらしい。
 望んでしまう。
 今は離れたこの縁が、再び絡まるその時を









   

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

お礼文 5話