「あー・・・。眠ィ・・」
 季節は、すっかり春。
 朝晩は未だ幾分涼やかな風に身震いすることもあるが、太陽が真上に鎮座する時間ともなれば、
「ふあぁ。眠ィ」
欠伸が止まらない。
「若、みっともないですぞ」
「うるせー」
 麗らかな日差しの心地よさは、たまらない。
 こんな日は、爺の小言も気にならない。
 芽吹き始めた新緑の匂いと、それを運ぶ肌に優しい風。木漏れ日が優しく体を温めてくれる。
 春。オレが一番好きな季節。
「すっかり春めいてまいりましたね、火群様」
「だなー」
 だらしなく物干し場に寝転がっているオレの隣にお行儀良く座る藤の笑みも、春の陽のように柔らか。
 遠くを見つめる黒曜石の瞳が、嬉しげに細められる。
「あ、火群様」
 ついと優美に持ち上がった指が、遠く、山間を指し示す。
「あれは、桜でございますか?」
 その問いに半身を起こす。
 新緑の中、そこに一つ、緑と異なる色彩があった。ぽつりと、一粒、地上に落ちた季節外れの雪のよう。
「ああ。そうみてーだな」
「あんなに遠くにあるのに、はっきりと見えます。きっととても立派な桜なのでしょうね!」
 瞳を輝かせる藤の横顔を見上げ、オレは思わず笑みを零してしまう。
 こうして遠くを見つめて表情を輝かせるこの時ばかりは、彼を年相応の少年に見せる。
 望月の夜、このオレの元へ嫁いできた男の花嫁──藤。
 細い腰に流れる、艶やかな黒髪。
 日に焼けることを知らぬ白い肌と、対象に紅色の唇。
 滑らかな頬は、薄紅色に染まり、水滴を散らしたように輝く大きな瞳は黒曜石が如く。
 黙って座っていれば誰もがおなごと見紛うこの藤も、こうして好奇心に瞳を輝かせる横顔は、少年のもの。
 きっと、これが本当の藤。
 妖怪を見る目を隠し、母を失った悲しみを隠し、寂しいと潰れそうな心を隠し、己を隠して生きてきた本当の藤の顔。
 それを垣間見せてくれることが、
(何て言うか・・・)
 嬉しい、なんて思ってしまう自分が、何だかこっ恥ずかしい。
 今まで、この木の上にあるねぐらで、烏の丈爺と二人きりで気ままに暮らしてきた。
 兄天狗たちは、この静かな塒に来る度に、小天狗たちを置いてはどうだと勧めてきたけれど、オレはきっぱりすっぱり断っていた。
 一人の方が、気が楽。
 そりゃあ、眷属が居れば飯の支度やら何やら、面倒ごとを任せることはできるだろうけど。
(・・・・まあ、一言で言やァ、オレが人見知りってことなんだけど)
 そう。他人が傍に居るなんて、気が休まらないに決まっている。そう思っていた。
 それなのに、今のこの状況は、どうだ。
 今、オレの隣に居るのは、妖怪でもなくただの人間のの子。
 人間は元々嫌いではない。
 ふもとの陽稲ひいなの村人にはよく力を貸してやったし、まあ、時たま悪戯をかまして遊ばせてももらった。遠くで人間を眺めているのは好きだったけれど、まさか人間と一緒に暮らすことになるなんて、思ってもみなかった。
 そこへやって来た、この藤。
 オレのちょっとした思いつき───ってか、悪巫山戯わるふざけの所為で此処にやって来た人間の藤。
 すぐに村へ返してやろうと思っていたのに、


『此処にいては、いけませんか?』


(・・・アレは、反則だっつーの)
 寂しげな瞳に訴えられて、あっけなく白旗を揚げてしまった。
 そこから始まった人間との生活は、思っていた以上だった。
 思っていた以上に、面白かった。
 そりゃあ、オレたち妖怪とは違って、脆弱な人間である藤を気遣ってやらなければならないこともあって、面倒も増えているのも事実だが、それも気にならないくらい、面白い。
 まあ、近隣の妖怪たちが、オレが妻を娶ったのを面白がって次々塒にやって来るのは鬱陶しいことこの上ないが、
(・・・それを見ていちいち吃驚している藤の姿は、面白いけど)
 藤も藤なりに、慣れない生活の中で、精一杯にオレの世話をしてくれている。
 不平不満の一つも口にせず、いつも穏やかに笑い、そして時々、無邪気に笑う。此処が楽しくて仕方がないのだと輝く笑み。
 アレを見せられ続けている内に、オレも感化されたのだろうか。
 藤の居る生活に、最早、違和感はない。
 穏やかな笑みで、生活の一部に溶け込んだ人間の藤。
(やっぱり、変わったヤツ)
 こんな、ただの天狗の傍に居たいのだと寂しい瞳で訴え、それが叶ったことに喜びの笑みを零す。
 ほら。また。
「あ! 丈爺様! あそこにも咲いておりますよ」
「おお、あれも満開となれば見事だろうよ」
 遠くに山桜を見つけては指を指し、満開に咲き誇った様を思い浮かべているのか、キラキラと瞳を輝かせている藤。
 きっと、あの村──彼が育った陽稲村ひいなむらでは、そんな顔を見せることもなかったのだろう。
 妖怪を視る目を持つ彼は、異端だったのだろうから。笑顔を見せることもなく、隠れるようにして生きていたに違いない。
 まあ、それを思うと、今こうして藤が心の底から笑みを見せることの出来る場所を与えられたオレの悪巫山戯も、善行だったのではないかと思えてくるわけで。
 そんなことを言おうものなら、丈爺に頭を小突かれまくるだろうから、口には出さないけれど。
「・・・藤、桜は好きか?」
「はい。好きです! でも、私は生憎お屋敷のお庭にあった、小さな桜しか知りませぬが」
 元気よく頷いた後に、僅かに寂しさを滲ませた笑み。
 確か、陽稲ひいな村では、村主むらぬしの屋敷からほとんど出たことがないと言っていただろうか。
「そうか。じゃあ、もう少し桜が咲けば、花見に行くか」
「はい!」
「それは良いですのぅ。酒を持って参りましょうぞ♪」
「・・・爺もついてくんのかよ」
「なんと、若!! 爺を置いていくおつもりだったのですカー!!」
「まあまあまあ、みんなで参りましょう! きっととても楽しいですから」
「・・・仕方ねーなァ。爺も連れてってやるか」
「当たり前ですぞ!!」
「はい。楽しみですね」
 それこそ、花が咲きこぼれるように笑う、藤。
 ───仕方ない。
 人間では到底立ち入ることの出来ない山の奥の奥、其処にひっそりと、けれど剛胆に咲き誇る美しい山桜を見せてやろう。それを見た時に零れる笑みを思えば、秘密の場所をまた一つ彼に教えてやるのも、やぶさかでない。
「お、若!」
「んァ?」
 唐突に体を浮かせた丈爺が、オレを呼んだのと、
「カーカーカー」
 真っ黒な烏がオレの目の前に唐突に降り立ったのとは、ほぼ同時。
「火群様。この烏は?」
 ご神木の枝に舞い降りた烏に、藤が首を傾げる。
「オレのすぐ上の兄天狗の使いだ」
 溜息混じりに答えを遣る。
「カーカー」
 しきりに鳴く烏に、再び溜息が洩れる。
「何と?」
「・・・・・・」
 遣いの烏が、オレに何かを訴えている様子が藤にも分かったよう。勿論、オレはすでにその烏の言い分が分かっているのだが、答えたくない。
 黙っていると、代わりに丈爺が藤の問いに答えをやった。
「早く花嫁を紹介しに来いと仰せなのじゃ」
「・・・私を、ですか?」
 そう。だから、溜息なわけで。
 この烏を使いに寄越したのは、兄天狗──相樂さがら
 母様かかさまから貰った天狗名を、流天司宸坊りゅうてんししんぼうという。
 都に程近い、鏑木かぶらぎ村に棲む、オレのすぐ上の兄天狗。
 兄弟仲が悪いというわけではない。むしろ、その逆、だ。
 長い間、末の子として兄弟たちの中で生きてきた相樂。最後に─今のところ─オレが産まれ、弟が出来、兄天狗となれたことが余程嬉しかったらしく、何かとオレに構ってくる。
 幼い頃はそんな兄天狗の存在は有り難かったのだが、こうして独り立ちした今でも何かにつけて様子を見に来たり、やることなす事にダメ出しをしてきたりと、自分に構いまくってくる相樂の存在が、若干──否、かなりウザいお年頃なわけで。
「はぁ」
 つい溜息が出る。
「便りを散々無視するからですぞ」
 そう。この烏の使いが初めて、ではない。
 オレが嫁を娶った話を何処から聞きつけて来たのか、藤が来てから三日と経たぬ内に、「その娘が火群に相応しいか、お兄ちゃんが見てあげよう♪」などという文を寄越してきた。
 別にそれは、オレが変な人間にだまされているのではないかと心配しているわけではない。弟への愛情ではなく、ヤツは、ただ単にオレの嫁を見たいだけなのだ。好奇心を満たしたいだけ。
 相樂は、そういうヤツだ。
 ある意味、オレと一緒。面白いコトが大好きなのだ。
 そもそもオレが人間の花嫁を貰おうと思ったのも、この相樂の所為でもある。
 早く嫁を貰えと常日頃せっついてきては、ついでに自分たち夫婦のラブラブっぷりを「もうイイって。砂吐くって。無理だって」とこっちが涙目になるくらい披露していくのだ、ヤツは。
 そうしてうんざりしつつも、そこまで愛することの出来る伴侶を得た兄天狗を羨ましいと思う気持ちがあったわけで。
(・・・・でも、オレが娶ったのは男だけどな
 きっと、花嫁がの子であることも相樂は既に知っているに違いない。それを見て大笑いしてやろうという算段に決まっている。
 だから、お誘いをこれまで無視してきたのだが、やはり諦めてはくれないらしい。
「いや、だってよォ・・・」
 激しく、行きたない。
 だが、このまま無視していても、あっちから勝手にやって来るだろうし。
「どうしたもんかなァ」
 思わず頭を掻きむしっていたオレに、それまで黙っていた藤が、口を開いた。
「・・・申し訳ありません。私のような者が、嫁に来たばかりに」
「ち、違う違う違うっ! オレは別に藤だから紹介したくないわけじゃなくてだな! ただ、絶対にアイツは・・・」
 ムカつくくらい大爆笑をかますに決まっている。
 それが癪なだけで、嫁が藤であるから紹介したくないというわけではない。
 望んだのは、オレ。此処に藤を置いているのもオレ。
 そのことを後悔しているわけでは決して無い。
 ただ、相樂に面白がられるのが、嫌なだけで・・・。
「若! なんと器の小さきこと!!」
「いって!!」
 しゃきっとしなさい、と丈爺に額を嘴で容赦なく突かれる。
「藤が可哀相ですぞ!」
「いえ! 私はそのような・・・!」
 と言いつつ、藤は申し訳なさそうに眉を下げ、小さな声で「すみません」と呟いた。
「・・・・」
 コイツはきっとまた、此処にいるのが自分でなければ良かったのではないかと、そんなことを考えているに違いない。
(そんなコト、ないんだ、藤)
 もうお前はこの生活の一部になってるんだから、此処に居るのはお前でいいんだ。
 なのに、そんなことを考えさせてしまっているのは、オレ。
(あ───・・。くそっ)
 また、オレは観念する。
 相樂に笑われるのが、何だ。笑いたければ、勝手に笑えば良い。
 だって、オレは後悔なんて一つもしていない。藤が後ろめたさを感じることなんて一つもない。それを証明してやろう。藤に。
 相樂のためじゃない。藤のためだと言い聞かせ、オレは腹をくくる。
「よし、行くか!」
「え?」
 きょとんと目を瞠る藤。
「明日、兄者の所へお前を連れて行く。良いか? 藤」
 その問いに、藤は驚いたように何度か目を瞬かせたが、
「は、はい。勿論でございます!」
 少し緊張したような顔で、けれど大きく首を縦に振った。
 ただ、兄天狗に会いに行くだけ。それなのに、まるで結婚前に両親に挨拶に行く娘のように緊張している藤の様子に、笑みが零れる。
「別にそんなに大層なコトじゃねーよ、藤」
 藤を落ち着かせてやる為の言葉だったが、同時に自らへの慰めの言葉にもなった。
 そうだ。別に、何てことはない。
 ただ、一緒に暮らすことになったこの変わり者の人間を、兄天狗に会わせるだけ。それだけのことなのだから。
 憂鬱だった気持ちが、僅かに晴れる。
 オレは枝に止まって返事を待っている使いの烏に向き直った。 
「では、明日伺うと伝えてくれ」
「カー」
 ようやく主人が望んでいる答えを頂戴できたからだろうか。心なしか明るい声で返事をした烏は、オレの気が変わる前にとでも思ったのか、すぐさま体を浮かせ、飛び去って行った。
 それを見送っていたオレの背に、藤が遠慮がちに声を掛けてきた。
「火群様」
「何だ?」
「・・・火群様の兄上様は、そんなに怖い御方なのですか?」
 どうやら藤は、オレが兄者に会うのを躊躇っているのは兄者が怖いからだと解釈したらしい。
 確かにオレの兄天狗の中には厳しいヤツもいるが、相樂はその点では全く該当しない。
「いや、怖いとかそんなんじゃないから安心しろ。ただ、とにかく、こう・・・鬱陶しいというか・・・」
「?」
 首を傾げる藤に、説明を試みようとしたが、やめる。
「まあ、会ってみれば分かる」
 そう。それが一番手っ取り早い。
 そよと吹いた風が、未だ不安そうな顔をした藤と、完全に開き直ったオレの髪を揺らす。
「藤。そんな顔するな。明日は、面白い一日になるぞ」
「そうじゃ、藤。相樂様はひねくれた若とは違って気さくなお方じゃ。何も心配はいらん」
「ちょっと待て、爺。誰がひねくれてるって?」
「はい、丈爺様。よく分かりました」
「おい、藤。何処に納得した!」
「ふふふ」


 また一歩、春が近付いてきた。