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夜の闇に溶け込むようにして神楽様の姿が消える。
隣で同じように神楽様を見送っていた雷獣さんが、途端、とてつもなく大きな溜息を零した。いったいどうしたのだろうかと視線を遣れば、大きな灰色の瞳が私を見つめていた。灰色の髪の毛の間から覗いている獣の耳が、しゅんと垂れている。 「堪忍なァ、藤。うちが都を見に行こうなんて言うたさかいに」 私が神楽様に攫われたことに責任を感じておられるらしい。 「そんな 雷獣さんの所為ではありませんよ。都を見ることが出来て、とても楽しかったですから」だから気にしないで下さいと付け加えれば、項垂れていた耳がピンと元気さを取り戻し、女性らしい小さな手が、女性らしくない豪快な仕種で私の腕をバンバンと容赦なく叩いた。 「んもうっ! ホンっマにええ子やなァ、藤は。火群には勿体ないで〜」 「うるせーよ 」「藤やったら、何処に行ったかて可愛がってもらえるで?? せやし、あーんな辺鄙な山奥やのうて、あの都に出たいとか思わへんの? 都にはお金持ちがいっぱいやで〜」 「悪かったなァ、辺鄙なトコでよ 」「金もないしのぅ」 「爺、お前はどっちの味方だ ![]() 」額に青筋を浮かべる火群様の腕をそっと撫でて「まあまあ」と宥めながら、私は雷獣さんに答えを告げた。 「 私は、人と関わってはなりませんので」告げれば、雷獣さんが僅かに眉を寄せて、私を見つめ返してきた。 「何やの、それ。それもお母はんとの約束か?」 「ええ」 「そりゃ難儀な約束やなァ」 意味が分からないと首を捻る雷獣さんに、苦笑を返す。 分からないのは、私も同じこと。だから、雷獣さんにそれ以上の説明をして差し上げられないのが大変申し訳ないけれど。 「でも、大切な人が望んだことですので」 だから、守らないわけにはいかないのだと、それだけを答える。 何のために母がこの約束事を私に与えたのか。何故、人の子である私が人の世に関わってはならないのか、考えても考えても分からない。 分からないけれど、あの母が望んだことなのだ。自分のためを思ってのことに違いない。それだけは分かっているから、どうしても無下にすることは出来なかった。 雷獣さんの灰色の瞳が真っ直ぐに私を射る。私が口にしたその言葉が、真に私の心の底から告げられたものなのか否か確かめるように、じーっと私の顔を見つめてくるその瞳を真っ直ぐに見つめ返していれば、 「そっかそっか♪」 ようやく納得してくれたのか首を縦に振り、再度「難儀やなァ」と口にしながら、励ますように肩を叩かれた。そして、八重歯を覗かせながら浮かべた雷獣さんの笑みはいつも通り眩しいもの。 「ほな、うちも果たしに行くかな〜♪」 「あの約束、ですか?」 人間の子供と交わした、夏の乾いた大地を雨で潤すのだという約束事。 「そ♪ ぼちぼち水も入り用やろ」 言って雷獣さんは両足で大地を蹴り、体を宙に浮かせた。すぐさまその足下に濃い灰色の雲が集い、彼女の体を受け止め、宙にとどめた。 どうやら、遙か昔、人の子と交わした約束を果たすため行ってしまうらしい。 ふわりと高度を上げ始めた雲を見送っていると、それまで黙って私たちの話を聞いていた火群様が雷獣さんに問うた。 「おい、雷獣。お前、いつまで果たし続けるつもりだよ」 どうやら火群様も雷獣さんが人の子と交わした約束事についてご存知らしい。「もう良いだろう」と言いたげなその口ぶりからして、どうやら雷獣さんが既に亡き人の子とその約束を交わしたのが、私が思っているよりも随分と昔のことであるのだと知る。 けれど、雷獣さんはカラカラと明るく笑いながら言った。 「そんなん分からへんわ! うちの気ィが済むまでや」 「そうかよ」 「アンタもしっかり守らなあかんでー。まァたうっかり神楽はんにでも攫わせてみィ。うちが雷落としに行くでー」 肩を竦める火群様に、雷獣さんが八重歯を覗かせながら言った。そして、何が、とは言わなかったけれど、その瞳は真っ直ぐに私を見つめていた。 「・・・言われるまでもねーよ」 ニヤニヤと笑いながら言った雷獣さんを火群様が不機嫌そうな顔で睨んでいるけれど、雷獣さんは何処吹く風。大きな瞳を私に向け、明るい笑みを浮かべた。 「藤、また顔見に行くわ」 眩しい笑みに同じく笑みを返す。 「はい。約束ですよ」 「勿論や♪ って、まァた増やしてもうた」 しまったと自分の額を叩く雷獣さんだったけれど、その顔から笑みは消えていない。また増やしてしまった約束事を、雷獣さんが決して嫌がっているわけではないことがすぐに分かった。 それを嬉しく思っていると、雷獣さんが幾分静かな声で私の名を呼んだ。 「なァ、藤?」 「はい」 「約束てな、厄介やん?」 交わしてしまえば、破ってしまうことは難しい。 私が母と交わした約束のように、私の生き方を縛る約束事もある。 「・・・はい」 「でも、ええよな」 「え?」 ニカッと、雷獣さんは笑った。 「うち思ってん。約束て誰かのためのモンやろ? その誰かを大切に思うさかい守りたいんや。約束の数は、大切な人の数。その人と交わした約束の数は、多ければ多いほどその人をどんだけ大切に思とるか。約束の期間が長ければ長いほど、その人をどんだけ思い続けとるかの指標やと思わへん?」 約束は時に人の生き様を縛る厄介なもの。それでも、交わした約束の数は、約束を守ってあげたいと思うことができる大切な人の数。 一人の人と交わした約束の数が多ければ多いほど、その人をどれだけ大切に思っているか、そして、守り続けている限り、その人を想い続けている証となる。 それが例え既にこの世に居ない者との約束事だとしても、それでも守り続けるのは、その人が大切だったから。既に姿はなくとも、それでも違えることなど考えられぬほど、大切な人だったから。今でも悲しい顔を思い浮かべれば胸が痛むほどに大切な人だから。 きっとそれは、雷獣さんにとっても同じに違いない。 既に、どんなに地上を探しても約束を交わした子の姿はないけれど、雨を待つ期待に満ちた瞳を忘れることができなくて、記憶の中にあるだけだとしても、その瞳を曇らせることが出来なくて、守り続ける約束。 縛られていると憐れむ者もあるかもしれない。けれど、私はそれをとても素敵だと思う。 「その通りですね」 「な? そう思たら、なんかエエモンに思えてきたわ」 「はい」 八重歯を覗かせて、キラキラと眩しい笑顔を浮かべる雷獣さん。 「ほな、行くなー」 「はい。また!」 大きく大きく手を振る雷獣さんに手を振り返す。 次第に遠ざかって行く華奢な後ろ姿を追って、真っ黒な雨雲が空を滑っていく。向かう先は、かつて雷獣さんが人の子と約束を交わした地。 キラキラと笑みを零しながら、空から恵みの雨を田畑へと降らせるのだろう。それを見上げて笑う人々の中に、彼女が約束を交わした子は既にない。それでも、あの人の子によく似た顔をした小さな子供が、嬉しそうに空を見上げるのが嬉しくて、雷獣さんはキラキラ笑いながらキラキラ雨を降らせるのだろう。今日も、明日も。来年も、その次の年も。ずっとずっと。 彼女を優しく縛る、優しい約束事。空の彼方へと雷獣さんの姿が消えていった後、カーと丈爺様が鳴いた。 「では、儂らも帰りますか」 はいと答えて火群様を振り返ったけれど、火群様は未だ雷獣さんが消えていった空の彼方を見つめたまま。 「火群様?」 「なぁ、藤」 私が問う声に、火群様が私を呼ぶ声が重なった。 静かな声。 「はい?」 何ですかと火群様を見上げるが、火群様の赤い瞳は空を見つめたまま、こちらに向けられることはない。 「・・・火群様?」 問いに変えたのは、矢張り静かな声音で。 「オレは、お前の背負うものを知らない」 「・・・・・私も、知りません」 火群様が何を考え、何を仰りたいのか分からない。 ただ答えを待っていれば、しばしの沈黙の後、火群様は空からご自身のつま先へと視線を落とした。 「神楽はオレたち兄弟のなかでも、最も大天狗に近い。アイツなら、何があってもお前を守ることができる。それは、悔しいけど確かだ」 そこまで答えを聞いて、ようやく火群様が仰りたいことが分かってきた。 自然と、眉が寄る。 (だって、違います、火群様。違うのです) 「お前にとってこの選択が良かったのか、オレには分からない 」違います。 「火群様。私には、火群様しか選べません」 火群様の言葉を遮り、きっぱりと言い放っていた。 「───藤」 ようやく赤い瞳が私に向けられる。少し驚いたように見開かれたその瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。 その時になってようやく天狗様の言葉を途中で遮るという無礼を働いたことに気付いたが、開いた唇が紡いだのは、詫びの言葉ではなかった。 「私はどなたかに守っていただこうなどとは思っておりません! それは、火群様に対しても同じです。非力な人の子の分際で生意気を申し上げますけれど、私が背負うものは私のもの。他のどなたかに背負っていただこうなどとは思っておりませぬ」 一気に言い放つと、ますます火群様は目を丸くする。 天狗様を相手にあまりに生意気な態度であることは重々承知。それでも、ただ知っていて欲しい。 私は守っていただくために火群様の元に来たのではないのです。 人の子として生まれながら、けれど人の世に深く関わることなく生きろと告げた母の言葉に従って天狗様の元に来たわけでもない。 「私が火群様の元に参ったのは、私の意志。私がそうしたいからそうしたまで。見返りなど求めはおりませぬ」 ただ、尽くすため。真っ直ぐ見つめ返して告げれば、火群様が訝しげに眉を寄せる。 「・・・なぁ、藤。前から聞こうと思っていたんだが、何故、お前はオレの傍にいる? それを望む?」 「約束、だからです」 「・・・誰と交わしたものだ?」 本当に不思議そうに問てきた火群様の顔をじーっと見つめていれば、 「って、オレか!?」 その視線の意味がおわかりになったらしく、ますます目を丸くして己を指差す火群様に、大きく頷いて見せる。 「い、いつだ!? 悪いけど、覚えてない」 途端に慌てふためく火群様の頭に丈爺様が足を付け、カカカと笑う。 「若は物忘れが激しいお年頃ですからなぁ〜」 「うるせーよ! 爺に言われたかねーよ!!」 赤い髪を振り乱しながら頭を左右に振った火群様から、丈爺様がパタパタ小さな翼を羽ばたかせ、今度は私の頭に止まって鳴いた。 「何を仰いますやら。爺はよ〜く覚えておりますよ」 「はァ!? マジでか!!?」 驚きに目を瞠る火群様を見て、丈爺様がこれ見よがしな溜息を洩らす。 「すまんのぅ、藤。おバカな若で」 「良いのです。私が勝手に交わしたものですから」 「待て、藤! おバカの所をまず否定してくれ」 「それは若、そのお利口なおつむが藤との約束を思い出してからですのぅ」 「う゛っ」 言葉に詰まった火群様に思わず笑ってしまえば、ますますバツが悪い顔をして私を見遣る。そんな火群様に、気にすることはないのですと笑みを向ける。 火群様と交わした約束事。それが今、私が火群様の元に居る理由。 例え火群様がお忘れになっているのだとしても構わない。既に火群様には果たしていただいた 叶えていただいたのだから、今度は、私の番。「すまん、藤。いつのことだ?」 「十年程前、私は火群様に願いを叶えていただきました」 「十年前・・・」 小さな声で繰り返し、必死で記憶を辿っているご様子の火群様に、答えを告げる。 「私は、母を救っていただきました」 その答えに、火群様はますます眉を寄せた。 「待て、藤。そんな事はしてねーぞ」 はっきり記憶にないと告げる火群様に、私の頭の上に乗っている丈爺様が鳴いた。 「まあ、若が思い出さぬのも仕方のないこと。藤がその時に願ったのは、別のことじゃった。のぅ、藤」 「はい。私が願ったのは、村で流行っていた流行病を祓って欲しいというお願い事でした」 「流行病───」 その言葉が記憶の琴線に触れたのか、更に思案顔になった火群様に、丈爺様が最後の助け船を出した。 「若があの陽稲村で初めて叶えた願い事じゃ」 途端、火群様が手を打つ。 「───って、藤、お前、あの童か!!!」 どうやら思い出して下さったらしい火群様に、大きく頷いて見せる。 確かに初めて火群様にお会いしたとき、私はまだまだ子供だった。あの頃の面影を残しているとは言い難いほど昔の話。 「若は藤を女子だと思っておったのでしょう? 将来は絶対に美人になるからと、不純極まりない動機で村の流行病を風で散らした、あの時の子が、藤じゃ」 「おいっ! それは言うなよ、爺!!」 丈爺様がカカカと笑い、火群様がわざとらしく咳をして口を開いた。向けられた瞳は未だに訝しげに細められている。 「だ、だが、お前の母は、その病で没したのだろう? オレは救ってなど───」 「いいえ。救われたのです」 火群様の言葉尻を奪う。 確かに、母の命は救われなかったけれど、私が そして母が望んだものを得ることは出来たのだから。「突然、蔓延り始めた病で、たくさん村の人が亡くなりました。それは私たちが村に移り住んですぐのこと。皆、母と私が何処ぞから病を持ち込んだのだと言いました。もしかしたら、本当にそうだったのかもしれません。母も病に倒れ、疫病神と罵られながら、命の灯を消そうとしておりました。それが可哀相で、私は村主さまに言いました」 日に日に弱っていく中で、母はただ私のことだけを気に掛けていた。 己の死期を知っていたのか、一人きりになる私のことを心配し、いつも気丈だった瞳を曇らせた母。このまま己が疫病神のまま死ねば、その子であるお前も疫病神と罵られ、虐げられるに決まっていると胸を痛め、そして病にかかった己を呪う言葉を吐く母の姿を見て、決めた。 「私が天狗様にお願いに参ります、と。私と母が疫病神であれば、天狗様は願いを叶えてはくださらないでしょう。もしも、私と母がただの子であるのならば、天狗様は私の願いを叶えてくださるでしょうから、と」 今考えれば、何と幼稚な発想であったかと恥ずかしくも思う。 けれど、弱った母以外に私が頼ることが出来たのは、村を守って下さっている天狗神様だけだった。 幸いにも私には母譲りの物の怪を視る力があった。その力は稀であるからと、私の身を喰らおうとする物の怪を何度も視た。そうした恐ろしいばかりだった出来事も、希望に変わる。 もしかしたら天狗さまもこの身を欲して下さるかも知れない。そうなればこの身を捧げて、願い事を叶えていただけばいい。 そうすれば、村の人たちの病も癒え、冷たい目で私たちを見ることもなくなって、心の安寧を取り戻した母もやがて床から起き上がり、二人だけの質素だけれどいつも通りの日々が戻ってくるのだと信じて。 ただ、そのためにはこの身を喰らうのは少しだけ待っていただかなければ。 何より、貧しい家には天狗様に捧げるものなど一つもなかった。有るのはこの身一つ。幼い足で雛菱山を登った幼い日の記憶が蘇る。懐かしくもあり、すこしだけ、胸が痛む思い出。 「それで、お前は一人、山を登って来ていたのか」 「はい」 火群様には全てを告げてはいなかった。 ただ一つだけ、村の病を祓って欲しいという願い事だけを、お姿を見せて下さらない火群様に告げた日々。 「若が面倒臭いからと顔をお見せにならなかったものだから、幼い子の足で、何日も御山を登っていたのですぞ」 ただ、この丈爺様だけが、天狗様の居ない祠で私を待って下さっていた。 火群様を責める丈爺様に、私は否やと告げる。 「いいえ、丈爺様。天狗様は私の願い事を叶えてくださいました。村に強い強い風が吹いて、その日から病が次第に消えていった。村主さまは私を褒めてくださいました」 そうして、私と母は疫病神ではなくなった。 良かったと微笑んだ母の顔が思い出される。病で細くなった手で私の頭を撫で、これでお前は一人でも生きていけると喜んだ母。 己の死期を悟っていた母が、本当に嬉しそうに笑っていた。 「確かに村の病は祓ったが、だが、お前の母は・・・」 矢張り救ってなどいないと首を振る火群様に、私は告げる。 「母は帰らぬ人となりました。けれど、その心は穏やかでした。確かに天狗様は母を救ってくださったのです。疫病神としてではなく、母をただの人の子として死なせてくださったのですから」 それを誰よりも母自身が望んでいた。 死期を免れぬ自分のことよりも、幼くしてただ一人残される私の為に望んで下さっていたこと。 その願いが叶い、喜んで死んでいった母。 母の死は悲しかったけれど、安らかなその顔を見て、良かったと思わず安堵の溜息を零していた。 そして、思い出す天狗様との約束事。 「私は、その時、天狗様と約束いたしました」 捧げる供物を持たなかった私。ただ一つ有るは、ただの人の子よりも不思議の力を宿したこの身一つだけだったから。 てんぐさま。てんぐさま。 どうか村のやまいをはらって下さい。 すべてをささげます。わたしのすべてを ![]() 天狗様は約束を果たしてくださった。そうして、今度は、私の番。 「あの満月の夜、ようやくお約束果たすため、参りました」 だから、私は村のみんなに言った。 天狗様の元へは、私が嫁ぎますと。 母を看取り、母を冥府へ送る手伝いをしてくださった村主様へのご恩をお返しした今、惜しむものは既になくなった。 天狗様とのお約束を果たすために、喰われてしまうのではないかと瞳を曇らせてくださった優しいお嬢様の手を払い、これは良い機会だと一人喜びこの山にやって来た。 数年前には叶えていただくため、そして今、自身が果たすため。 「お前・・・オレは、忘れてたのに」 「そうじゃ、藤。儂も言うてやったろう? 若はお馬鹿だから、そんな昔の約束など忘れておると」 「おい ま、まあ、確かに忘れてたけど」それは雷獣さまも仰った言葉。 忘れられた約束事ならば、反故にしてしまえば良いのではないかと。 けれど、私には出来なかった。 「私には、忘れることなど出来ませんでした。破ることなど出来ませんでした」 良かったと微笑んだ母の顔が瞼に焼き付いて離れない。そして、願い事を叶えてくださった天狗様の暖かく強い風が忘れられない。受け入れられた願いのありがたさを忘れることが出来ない。 だから、果たさずにはいられない。 幸いにも天狗に身を捧げて嘆く人ももう亡い。人の世に深く関わることなく生きて行かなくてはならない自分に、今後、そんな人が現れることもないのだろう。ただ一人きりで寄り添う人もなく、成すべきこともなく、死に向かって生きていく己の人生を悟った。 ならば、捧げる方が良いのではないか。 何の意味も持たぬこの命、天狗様が欲して下さるのならば捧げよう。そうすれば、天狗様のために生きることが出来る。生きる意味が出来る。 喰われるのならば、それまで。 それもまた、意味を成す。天狗様の血肉となる意味を負う。 天狗様の元へ嫁ぐことに、恐れなどない。 否。ただ一つ、あの時の約束などすでに忘れ去られ、お前など要らぬと拒まれはしないかと、ただそれだけが恐ろしかった。 火群様はあの時の約束を覚えていらっしゃらなかったけれど、それでも私を拒まなかった。 安堵すると共に、また誓った。 貴方に、全てを捧げます ![]() 「だから、神楽様でも、相樂様でもない。火群様のお側でないと、私には意味がないのです。生きる意味が」 今、全てを告げる。 ずっと私の中にしまっていたもの全てを、火群様に。 すると、火群様は深く息を吐き、次いで天を仰いだ。 もしかすると、呆れてしまわれたのかもしれない。火群様は身寄りのない私を憐れんでこの場所を与えてくださっているだけ。火群様のほんの少しのお情けを、生きる意味を与えてくださったのだとまで言い切った私を、もしかしたら火群様は重いと感じられたのではないだろうか。 一瞬、告げたことを後悔するが、既に唇を越えた言葉を回収する術はない。私に出来るのは、言い募ることだけだった。 「火群様! どうか私に約束を果たさせてください。本当に火群様にとって私が邪魔となりますその時まで。誠心誠意、お仕えいたしますから」 縋るように火群様の腕を掴めば、再び火群様の口から溜息が零れ、その合間に小さな言葉が交じった。 「 仕えるとか、そんな言い方すんなよ」「え?」 溜息に交じった言葉を聞き取れず思わず訊ね返せば、答えを返して下さったのは私の頭から肩へと場所を変えた丈爺様だった。 「仕えるなどと言うな、藤。お前は従者でもなんでもないのだ。お前が居れば若も儂も楽しい。楽しいから共に居る。それだけでいいのじゃ。それ以上は若も望んでおらぬよ。約束は果たされておる」 「───ありがとうございます」 嗚呼、狡い私。 それは、望んでいた言葉。誠心誠意、何の見返りも求めずただ尽くしますと口にしながら、それでも心の何処かで望んでいた言葉。 誠心誠意、お側で尽くします。ですからどうかほんの少しでもいい、私を求めて欲しい。そう、浅ましくも望んでいたことに改めて気付かされる。 欲深きは人の性。 恥じ入りながらも、それでも火群様のお顔を窺う。丈爺様はああ言って下さったけれど、貴方様は。 求める答えは矢張り欲深いもの。 どうか、是と頷いて欲しい ![]() 「帰るぞ、藤」 「え?」 突然、横抱きにされ、体が宙に浮く。 驚き見上げた火群様の頬は、僅かに赤い。それを見つめていると、小さな声で火群様が言った。 「帰るぞ、藤。オレと、爺と、お前の家に」 「 ![]() 」不器用な天狗様の精一杯の答え。 あそこは既にお前の家なのだと、帰ってこいと、そう仰っているのだと解釈させてもらっても良いのだろうか。仕えるのではなく、ただ共に家族のように傍に有れと、そう仰っているのだと、自分勝手な言葉に代えてしまっても良いのだろうか。 「藤」 何も言葉を紡げないで居る私の名を、火群様が静かに呼ぶ。 視線は真っ直ぐ彼方を見つめたまま。音もなく翼が揺らめき、途端に景色が流れ始める。頬を撫でる風の心地よさと、体を温めてくれる火群様の腕の温かさ。 耳に心地の良いお声で、火群様が再び私の名を呼んだ。 「藤。オレも、今日、お前とそして神楽と新たに約束を交わした。神楽に代わってオレがお前を守ると」 「いえ、でもあれは別に───」 私が背負うものから私を守ると仰った神楽様。それを引き受けたと仰った火群様。けれど私自身それを望まないのだから、どうかその約束は忘れて欲しいと、そう告げる前に、火群様が口を開く。 その言葉に凛とした強い響きを伴っていて、とても私にはそれを遮ることなどできなかった。 「人の子であるお前がオレとの約束のため、全てを捨てて此処に来たんだ。天狗であるオレが、人の子であるお前との約束を果たせないわけがない」 「火群様?」 お前が出来ることがオレにできないわけがないと、まるで負けず嫌いな子供の台詞。 唐突なその言葉に、火群様が何を仰りたいのか分からず目を瞬いていると、火群様は取り払ったはずの頬の熱を再び其処に戻し、ぶっきらぼうに一息で言い放った。 「オレも約束を果たすぞ! でも、お前がオレの傍に居なけりゃ果たすに果たせねーんだよ。だから、お前は何も考えずに、此処に居ろ!」 「若の恥ずかしがり屋ー。素直に言えば良いではないですか。藤に、傍に居て欲しい って」「うるっせぇ、爺!!!」 「火群様 」嗚呼、告げなくては。 けれど、言葉は内にこもるばかり。 火群様、私は貴方に全てを捧げると、貴方に尽くすと言いながら、結局は己の為に貴方のお側に居るのだと思うのです。人の世に居場所がない私に、火群様の元へ嫁ぐということは一種の賭でした。その賭は当たり、予想以上に居心地良く、そして優しいこの場所から離れがたくなり、約束を果たすのだと理由を付けて、此の場所に居座ろうとしている浅ましき者かもしれないのです。 そんな私に 貴方は・・・「藤、分かったな。オレにも約束を果たさせろ」 「 ![]() 」今まで、こんな私を求めてくれた人がいただろうか。 父親は誰とも知れない。母は出自の分からぬ白拍子。病と共に村にやって来たやせっぽちの子供を、こんなにも暖かく、そして強く抱いてくれる手がこれまであっただろうか。離さぬと告げてくれた者があっただろうか これまでどんなに心を捧げても、尽くしても、返ってくるものなど何もなかったというのに、今、捧げたもの以上に大きさを増して返ってくるこの優しさをどう受け止めて良いのか分からない。 知らぬ間に、 「ちょ、おい! な、泣くなよ 」頬を、幾筋もの涙が伝っていた。 そのことを、慌てて私の頬を撫でた火群様の熱い掌に気付かされる。 この涙の意味は、何だろう。 涙を零しながら、まるで他人事のように考える。 辛かった日々が思い出されるのか。優しかった母との日々が蘇るのか。このお方との出会いに感謝しているのか。新たに交わされた約束事の嬉しさに胸が震えるのか。浅ましき己の欲に悔いるのか。 分からないまま、ただ涙を零す。 「藤、頼むから泣くな。涙の止め方なんか知らんぞ 」空を自由に飛び、人よりも遙かに永きを生き、自在に風を呼ぶ天狗様が、人の子の涙を止められずに慌てふためく姿に、思わず笑いそうになる。己の所為で火群様を困らせていることは分かっていたけれど。 だが、笑みが零れてしまう前に、 「泣くなって、藤」 強く強く抱きしめられていた。 「頼むから泣くな、藤」 「 はい」そこは、不器用な腕の中。 強くて、苦しくて でも熱くて優しい、火群様の腕。涙を止めようと思うのに。 (・・・・嗚呼、駄目だ) そんなことをされたら、ますます涙が零れてしまう。 気付かれぬように、火群様の胸板に押しつけられた額を、更に強く押し当てた。そうしなければ、止まらない体の震えと嗚咽を、火群様に気付かれてしまいそうだったから。 その間も、火群様の美しく黒い翼は空を翔る。まるで一刻も早く雛菱山のあの塒に辿り付かねばならないとでも言うかのように、真っ直ぐに山を目指す。その後を辿る、私の涙。 宙を舞うそれを嘴で器用に突きながら、それまで黙って私たちを見つめていた丈爺様が遠慮がちに言った。 「・・・・若、儂は席を外した方が良いですか?」 「阿呆!!!」 途端に苦しかった抱擁が解放される。 慌てて頬を濡らしている涙を両手で拭き火群様を見上げれば、夕日に染まった火群様のお顔がそこにはあった。 真っ直ぐに前を見つめる赤い瞳は、夕日の色を宿して更に美しく燃えている。 精悍なその頬に刷かれた朱色のことなど忘れてしまうほどに美しい赤色だった。 じっと見つめていれば、その瞳がおずおずと私の顔を写し、僅かに細められる。伸ばされた長い指が、少し乱暴に私の頬を撫で、涙の筋を消していく。 村を救い、母を救い、私を救ってくれた、昊天朱眼坊 火群様。「藤」 「はい」 凛と私の名を呼ぶその声が、 「オレは約束をちゃんと思い出したぞ」 「はい」 照れながらも真っ直ぐに私を見つめるその瞳が、 「これから果たしてくれ」 「はい」 貴方が受け入れて下さった約束事が、 「オレも負けねーぞ」 「はい」 そして貴方が下さった約束事が、私を生かすのです。 「お。藤、遠雷が聞こえてくるのぅ」 「はい」 遠く聞こえる雷鳴。 それはきっと、雷獣さんが約束を果たしている、その音。 ねぇ、火群様。 あの日を思い出したと仰ったけれど、貴方はきっとまだ思い出していないのでしょう。 あの日、初めて私が火群様とお会いして願いを告げたあの日。祠の傍らに咲いた桜が、まるで雪のようにひらりひらりと舞い落ち、そして、空の彼方に黒い雷雲が稲妻を大地に注いでいたあの美しい情景。 願いを告げる言葉の彼方で微かに鳴っていた雷鳴は、今も私の耳の奥に残り、簡単に蘇るのです。 今もまた、鳴り響く遠雷。 その雷鳴が私に告げる。 この命ある限り、約束を果たせ、と。 それを、私も望みます。 どうか、この命ある限り 貴方のお側に。 |