宵闇の中、ぽっかりと赤い月が浮いている。 あの日、天帝─炎輝が謀反人の手に落ちたその夜と同じ、赤い赤い月。 真っ暗な闇の中に吸い込まれていったはずなのに、再び火陵は赤い月の下に放り出されていた。 目の前に、血が滴り落ちそうなほど赤い月がある。 まだ、父王が果てたあの日に閉じ込められたままなのだろうかと慌てて宙で体をよじり、地上へと視線を巡らせる。そして、紅の瞳を瞬かせた。 「 ここは・・・?」 その問いに答える声はない。 眼下には、樹海が果てしなく広がっていた。太陽の光を拒み、鬱蒼と茂る枝葉が地面を覆い尽くしている。それは視線をいくら遠くへ向けようとも途絶える気配を見せない。 「樹海が、広い・・?」 それは、火陵が知っている天界の姿とは明らかに違っていた。 果てしなく広がる樹海。 神族の侵入を拒むかのように深く生い茂り、広く大地を覆っている樹海の何処にも、村の光を見つけることが出来ないでいた。 否。 「あ!」 見つけた。 地上にポツリと、赤い光が灯っている。 そのことにほっと安堵の溜息を洩らしていると、宙に浮いていた体がその光へと吸い寄せられていく。 そこは樹海の中、僅かに木々の間から空を見上げることが出来る場所。そこに幾本もの細い松明が灯され、その下で人々が重なり合うようにして身を横たえ、眠っていた。 ひときわ大きな篝火は、眠る人々を見下ろすことが出来る高さはそれほどではないが、風を強く感じる崖の上で閃いていた。 大地に体が近付くにつれ、風の中に煙の匂いが混ざっていることに火陵は気付く。 目を凝らせば、宵闇に隠されているが、大地からたなびく白い煙が遠くに見て取れた。その中に交じる、血の臭い。 それは、戦の後の臭い。 火陵の意識に反して、体は大きな篝火へと吸い寄せられていく。仕方なく視線をそちらへ向ければ、そこに数人の男が居ることに火陵は気付いた。 黒い艶やかな髪。瞳は真紅。 甲冑に身を包んだ男たちは皆一様に疲労の色を塗った顔を俯かせている。その中で唯一人、篝火のゆらめきを頬に受けながら、細めた瞳で空を見上げている男がいた。 「 」 その姿に、火陵は目を奪われる。 肩に僅かにかかる艶やかな黒髪が風に揺れる。赤い月を見上げる瞳は長い睫に縁取られ、そこに嵌った瞳は、月に負けぬほど鮮やかな紅。 すっと通った鼻梁と細い頤。細いけれどしなやかな筋肉に覆われた体には、無数の傷跡が残されていた。 その滑らかな頬にも、未だ血を滲ませる傷が線状に残されていた。 年の頃は、30くらいだろうか。 「父上に・・・」 似ている。 けれど、それは見た目だけ。男は父よりも逞しく雄々しい。それは男が纏っているものが、父王がその身に纏っていた穏やかな空気とは違い、野生に君臨する獣の王のように常に緊張感に満ち、ビリビリと他を圧しているかのような絶対的な力を感じさせるオーラを纏っていたからかも知れない。 美しく強い 魅入られる。 静寂を破ったのは、膝に顔を埋め、眠っているのではないかと思っていた年配の男だった。 「いつになればこの戦の世に終わりが来るのか・・・」 しばしの沈黙の後、その呟きに答えたのは、美しい男だった。視線を月に遣ったまま、口元に嘲笑の笑みを刷く。 「おおかた天井の神々は、俺たちが必死で足掻く様を見て楽しんでいるんだろうよ」 吐き捨てるように笑い、不意に男が立ち上がった。 鋭い視線は、真っ直ぐに空を見つめている。 「神よ! 俺たちが必死に足掻く様がそんなにも面白いか!」 「おやめなさい、若」 怒りの込められた男の声に、呟きを発した男が溜息交じりに男を諫める。けれど、男は真っ直ぐに空を睨み付けたまま、口を閉ざすことはなかった。 答えが寄越されないことなど構わず、神への言葉をつむぎ続ける。 「見ているのならば聞け!」 最早、他の者は男を宥めることはしなかった。彼が言いたいことを全て言い終えるまで、その口を閉ざさないということがよく分かっていたのだから。 黙って彼の言葉を聞いている。 凛とした声で、男はなおも神を呼んだ。 「俺に力を寄越せ! そうすれば俺がこの世界をあっという間に治めて見せるぞ! お前たちに退屈はさせまいぞ」 バチッと、炎が爆ぜる。 「あっ!」 思わず声を上げたのは、火陵。 それは、一瞬のことだった。 闇の中から溶け出してきたかのように、突然、男の眼前に一人の男が姿を現したのだ。 否。それを男と判じて良いものか、火陵には分からなかった。 スラリと細い肢体は真っ白な肌に覆われ、月明かりの中仄かに光を放っているかのよう。長く艶やかな黒髪は高い位置で結わえられ、ふわりと闇の中に浮いているその足下にまで達している。細い頤の上、緩やかな弧を描いた唇は赤く、楽しそうに細められた瞳は長い睫に縁取られ白い頬に影を落としている。真っ直ぐ男を見つめる瞳の色は、黄金色。 男か女か判ずることの出来ない美しい者。 誰もが茫然とする中で、その美しい人が唇を動かした。 「 言うたな、小僧」 ニッと吊り上げられた口元から零れたのは、涼やかな声。 両手を腰に当て、体を屈めるようにして自分を覗き込んでいる美しいその人に一瞬目を瞠った男だったが、すぐに我に返り、問う。 「 神、か?」 その問いかけに、目の前の者は破顔する。 「そうだ。お前が呼んだのだろう?」 呼んだから来てやったのだと不遜に笑った美しい人に、男はすぐさま次の問いを投げた。 「一番、強い神か?」 「わ、若!!」 「何を言うのですかっ!」 神に対し、あまりにも不躾な問いかけをした男に慌てる周囲を余所に、問われた神は一瞬驚いたように目を瞠ったが、次の瞬間声を出して笑った。可笑しくてたまらないと体を折って笑った。そして、笑みの形に唇を吊り上げたまま、答える。 「悪いな。二番目くらいだ」 ニッと笑みを向けられた男は、同様に笑みを返す。 顔色をなくす周囲を余所に、男は更に神へと告げた。その台詞に、周囲は更に血の気を失うことになる。 「二番目で十分だ。あんたの力を俺にくれ。俺がお前を楽しませてやる!」 笑みを浮かべていたが、己を真っ直ぐに見据える紅の瞳は真剣そのもの。 神はそれを静かに見つめ返す。 闇に沈黙が落ちる。 パチパチと松明の燃える音だけが響く。そして、風の音が鼓膜を揺らす。 沈黙は、すぐさま破られた。 「・・・・ふっ。ははははははは。何と言うヤツ!」 神の高笑が沈黙を彼方へと追いやっていった。 笑い続ける神の姿に、周囲の男たちはぽかんと口を開き、男は口に笑みを刷いたまま神が笑い終えるのを待つ。 そんな男へ、神が真っ直ぐに向き直った。 優雅に差し出された白い手を、男は見遣る。 そこには、何もない。 「気に入った。お前にこれをやろう」 涼やかな声が告げ、次の瞬間、神の手に一振りの剣が現れる。 「・・・剣?」 「小僧。お前が炎の王となれ」 ぐいっと胸に押しつけられた抜き身の剣を男は徐に手に取る。真っ直ぐに天を突く細い刀身が纏う、月光に似た白銀色。その根元に埋もれた紅玉は、男の瞳と同じ色。月光をゆらゆらと不思議に煌めく紅玉はまるで─── 「綺麗だ・・・炎のよう・・・」 男の言葉を、神は即座に絶つ。 「違う。炎に非ず。その名は、緋炎」 「緋炎刀・・・」 己の手に託された剣とそれを差し出した神とを交互に見遣り、その真意を探る男に、神は再び唇の端を笑みの形に吊り上げ、言い放った。 「さあ、我が力を授けてやったのだ。俺を楽しませろ」 まるで悪戯っ子の笑み。 それを受けた男は、一瞬の間の後、 「ああ、見ていろ、俺の神! 後悔はさせぬ!」 神が浮かべたのと同じ笑みを浮かべる。 その手には、神から授けられた一振りの剣。天界の民の王となるべく、神から与えられた神剣──緋炎。 再び柄の紅玉に視線を遣れば、己が操るのと同じ炎によく似た煌めきがそこにある。 それに瞳を奪われている男と、そんな男を笑いながら見つめている神とを固唾を呑んで見守っていた火陵がその場の誰よりも先に、気付いた。 「あっ!」 思わず声を上げた直後、 「若!」 「神が・・!!」 一瞬遅れて周囲の男たちが声を上げた。 現れた時と同様に、唐突に闇に溶け込むようにして、神の姿が消えたのだ。 慌てて顔を上げた男の目の前に、既に神の姿はない。 ───さあ、俺を楽しませろ。 おそらく弓形に吊り上げた口をしているに違いない。そんな声を残して、美しい神は消えた。 男の手に、一振りの剣を残し。 それをきつく握り締め、男は口元の笑みを濃くする。 そして、月を刺すかの如く真っ直ぐ夜空へと神剣を突き上げ、咆哮した。 「皆、見ろ!! 神は我ら流炎羅の一族に祝福を与えた! この神剣が俺の手にある限り、勝利は俺たちのものだ!!」 闇の中に、男の声が木霊する。 男たちが篝火を囲う崖の下、そこで眠りに落ちていた民たちが次々と体を起こす。そんな民たちに視線を巡らせた男は声を上げる。 「さあ、男たちよ、剣を取れ。女たちは祝杯の準備だ。混沌の世が終わるぞ。俺が終わらせてやる」 月光が男を包み込む。男の手に握られた剣を目映く輝かせる。 傷に包まれた細い体躯だが、他の誰よりの大きく雄々しく民たちの瞳に映る。唐突な起床を促した声は、眠気を彼方へと追いやっていった。一言も聞き漏らしてはならぬと思わせる凛とした響き。絶対の言葉。 一人一人を見つめる炎の瞳は真剣な光を宿し、約束を告げる。 この男ならば、言葉の通り自分たちを安穏へと導いてくれるに違いないと、誰もが疑わぬ瞳。 全ての民が体を起こし、幼子までもが立ち上がり、年若き一族の長へと希望の眼差しを向ける。 「さあ、皆、手を伸ばせ。我らがこの手で、終焉の炎を灯すぞ!! そしてそれが、始まりの炎だ!!」 闇の中、次に木霊したのは炎の民たちの咆哮。空を突き抜けるほどに大きな歓声が樹海を震わせる。 その中心に、神剣を掲げた美しく雄々しい男が立つ。 「 カッコイイ・・」 瞳を捕らえて放さないその雄姿に火陵は目を奪われる。 美しいけれど、ニッと不適に笑うその人の姿は、まるでやんちゃ坊主といった風。誰もが惹き付けられる人。 闇の中、一つ灯った炎。 今は小さき燈火。 神の剣を得、天を覆い尽くす業火となるその日まで、決して消えることはない炎。吹き消さんと迫る風を押し返し、絶やさんと注ぐ水を悉く枯らし、そして、あらゆる全てを覆い尽くし、やがて天の覇王となるその日まで 。 今、始まりの時を、火陵は確かに見た。 初代天帝 阜燿。 彼の手から放たれた炎の龍が、赤い月を追うように天へと高く上りいくその様を。 |